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第15話 司なのか


有栖川美津子の視界が、ガラスの衝撃とともに一瞬真っ暗になった。

鼻に走った激痛で、意識が遠のきそうになる。


反射的に顔を覆い、手を見ると、鮮やかな赤がべったりとついていた。

ズキズキと響く痛みとともに、こみ上げてくるのは――怒りだった。


「貴様ぁぁぁッ……!」

美津子は絶叫しながら、ベッドに向かって突進する。


だが――次の瞬間、後ろから腰をがっしりと抱えられ、動きを封じられた。


ボディーガードは冷静に制止し、他の警護員たちも騒ぎを聞きつけて部屋に駆け込んでくる。

数秒のうちに、美津子は完全に取り押さえられた。


そのとき、扉が開く。

桐谷智也がアシスタントの島田を連れて、静かに病室に入ってきた。


室内の異様な空気をひと目で察し、美津子の血まみれの顔に目をやったあと、視線はすぐに羽菜へ向く。

羽菜が無傷でいることを確認すると、わずかにその眉間が緩む。


美津子は鼻から流れる血を押さえながら、智也に向かって訴えた。


「ほら見なよ! これがあんたが守る女の正体!あの子、大人しい顔して本性は凶暴なの! 私、ほんとに殺されるかと思ったんだから!」


智也は表情一つ変えずに言った。


「羽菜は普段、穏やかで声を荒げることすらない。そんな彼女が手を出したなら……よほどの理由があったはずだ」


そして羽菜の前に歩み寄り、声を柔らげて問いかけた。


「……何があった?」


羽菜はわずかに目を見開いた。

――まさか、智也が自分の味方をするとは。

相手は玲奈の母親なのに。


言葉が出ず、ちらりと傍に控えるボディーガードを見た。

すぐに彼が前に出て、簡潔に説明する。


「奥様は、静かに読書されていただけです。そこへ有栖川美津子さんが突然押しかけ、罵声を浴びせ、暴力を振るおうとしたため、私が制止しました。

奥様は長い間、無言で耐えておられましたが――最後には、限界でした……。」


智也の目が鋭く光る。

その声には氷のような冷たさが宿っていた。


「……羽菜に謝れ」


美津子は一瞬、言葉を失った。


「は、はぁ? ……怪我をしたのは私よ!? 謝るのはそっちでしょ!?玲奈の手をやらせたのだって、どうせこの女――」


智也の声音が低くなった。


「玲奈のことを心配する気持ちはわかる。だが、証拠もないのに人を責めるな。身体の傷も、言葉の暴力も、どちらも“傷”だ。最初に人としての一線を越えたのは、あなただろう」


その口調は、怒鳴るでもなく、冷笑するでもない。

ただ、圧倒的な“事実”と“権威”で美津子をねじ伏せる、そんな静かな威圧だった。


美津子は怯みながらも、謝ったら負けだと意地を張る。


「……桐谷家と有栖川家は、長年の付き合いがあるのよ。今ここで感情的になるべきじゃないわ。大人として、誰が謝るべきか、もう少し冷静に考えて――」


その言葉には、あからさまな圧がにじんでいた。


しかし、智也は一つため息を吐いたあと、薄く笑った。

その笑みは冷たく、皮肉を帯びていた。


そして、スマホを取り出し、落ち着いた声で言う。


「……輝。君の継母が、羽菜の病室で騒ぎを起こしている。誰か、処理できる人間を送ってくれ」


電話の向こうで、一瞬の沈黙が走ったのち、有栖川輝の落ち着いた声が返ってきた。


「今玲奈のところにいるけど、すぐ向かう」


智也は淡々と電話を切った。

すると美津子が鼻を押さえ、顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。


「桐谷智也ッ!いくら身内だからって、これはやりすぎよ!共犯みたいなものじゃない!」


智也はもう彼女を見ようともしなかった。

代わりに羽菜のもとへ歩き、ベッドに腰を下ろす。

襟元が乱れているのに気づいて、指先でそっと整えてやる。


「怪我してない?」


羽菜は無言で首を横に振った。

智也は彼女の手をとり、痛めた指先にそっと目を落とす。


「手は?」

「……大丈夫」


そう答えると、智也はそのまま彼女の肩を抱き寄せ、まっすぐに目を見た。


「……まだ、怒ってる?」


羽菜は視線をそらさずに、小さく頷いた。

智也は微笑む。


「よくやったよ。君を傷つけようとする者には、はっきり反撃すればいい」


羽菜は智也を見上げ、言いたいことを飲み込んだ。

今は一致団結して外に対抗すべき時だ。


二人が親しげに話す様子を見て、美津子は悔しさでどうにもおさまらない。

出ていこうかと迷いながらも、立ち去れずにいた。


ほどなくして、病室の扉が開いた。

有栖川輝が人を伴って姿を現す。

落ち着いた様子で智也に一礼し、血まみれの美津子に一瞥をくれたあと、羽菜に視線を向けた。


彼女の顔に少しだけ目を留めてから、深々と頭を下げる。


「羽菜さん。玲奈が怪我をして、継母が気が動転してしまいました。もし無礼があったのなら……私から謝ります」


深々と頭を下げる。


「申し訳ありません」


羽菜は筋の通った人間には弱い。

輝の誠意に、静かに答えた。


「…いいえ」


だが美津子は、怒りを抑えられずに叫んだ。


「あなたが許しても、私は許さないわよ!この鼻……病院行って診断書もらうから!玲奈の手もきっとあんたの仕業よ、訴えてやる!」


輝の眉間がわずかに寄る。


「早く連れてって手当てを」


部下たちがすぐに美津子の身体を支え、引きずるように病室を出ていく。

残された空気は、わずかに落ち着きを取り戻した。

輝は羽菜に静かに言った。


「退院されたら、食事でもご一緒させてください。継母の代わりにお詫びを」


羽菜は驚き、少しだけ彼を見直した。


「お気遣いなく」


玲奈のことは決して好きではない。だが、彼――輝には、嫌悪的な感情が湧かない。

理性的で、礼を知っている男だから。

智也がその間を見計らって尋ねた。


「玲奈を襲った犯人、捕まったか?」


輝は顔を曇らせる。


「……まだだ。警察も動いてるが、相手はかなり用心深い。監視カメラも避けて、手袋をして指紋も残さず、車の出入りも記録なし。

地下駐車場の足跡は多すぎて、絞れない。唯一、近くのカメラに映った後ろ姿が一枚……それだけだ」


智也は興味を示す。


「その写真、見せて」


輝は頷き、コートのポケットから封筒を取り出す。

中から一枚のL判写真を差し出した。

智也はそれを手に取り、目を凝らす。


ぼやけた写真。

黒いジャケットに黒いキャップ。

鉄のハンマーを手に、大きな歩幅で歩く後ろ姿――

顔は写っていない。


だが、ただの後ろ姿でも、ただならぬ雰囲気が漂っている。

智也は何かに思い当たり、写真を握る手に力が入った。


「この写真、もらってもいいか? こっちでも調べてみる」

「ぜひ。よろしく頼む」

「もちろん」


輝が去った後、智也は島田に外へ出るよう指示した。

部屋は静かになる。


智也は羽菜の隣に腰を下ろし、少し間を置いて、口を開く。


「――以前、君が拉致されたときのこと……覚えてるか?古美術の修復を無理やりさせられてた、坊主頭の男」


羽菜はゆっくりと頷いた。


「君の指を折ったのはあいつの妹だ。兄を刑務所送りにされたのを恨んで、復讐しに来た。俺が仕返ししてやった。彼女の左手はもう使えない」


羽菜は驚き、ギプスをした自分の手を見つめて、やりきれない気持ちになる。

復讐は果たされたが、指は戻らない。


智也は重たい沈黙のなか、ぽつりとつぶやく。


「でもな……玲奈には何の関係もなかった。君たち、復讐の相手を間違えてる」


羽菜の心臓が一気に冷えるのを感じた。

智也の目をまっすぐに睨みつけ、声を震わせて問い返す。


「私が仕向けたと思ってるの?」


智也はしばらく言葉を返さず、黙って羽菜を見つめたあと、そっと肩に手を置く。


「怒るな。君が手を下したとは思っていない。でも、誰かが君のために動いた。……そして、相手を間違えた。

君を傷つけたのは、玲奈じゃない。少なくとも――今回は、彼女は無実だ」


羽菜は唇を引き結びながら、声を押し殺すように問い返す。


「誰が私のためにそんなことしたと思ってる?」


智也はポケットから写真を取り出し、差し出した。


「この人物だ」


羽菜はそれを受け取り、じっと視線を落とす。

顔は見えない。

後ろ姿だけでは分からない。


智也は羽菜を見つめて問いかける。


「この写真の人物……司、なのか?」


その名を聞いた瞬間、羽菜の鼻の奥がつんとし、目に涙が滲んだ。

喉の奥が熱くなり、言葉が出てこない。

写真をぎゅっと握りしめて、彼女は激しく首を振った。


「違う……違う!絶対に彼じゃない!」


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