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第16話 ブロックされた


羽菜がその司をこれほどまでにかばうとは――

その様子を見た智也の胸には、複雑な感情が渦巻いていた。


表情には出さない。

けれど、その目の奥には、どうしようもない感情が確かに揺れている。


「…ちょっとタバコ吸ってくる」


低く、冷たい声。

そう言い残して、智也は部屋を出て行った。

扉が閉まる音は、いつもよりわずかに強く響いた。


羽菜は、その微かな異変に気づかない。


頭の中は――

十三年前の、あの悪夢の夜でいっぱいだった。

激しい風、燃え盛る炎、焼けつくような痛み、

そして、耳を裂く絶望の叫び声――


司は、その夜の記憶と共に封じ込めた名前だった。

その名を口にするだけで、胸が締めつけられ、心がざわつく。

一粒の涙が、音もなく頬を伝い、手の中の写真へと落ちた。


しばらくして、羽菜はようやく呼吸を整え、

震える指で涙を拭いながら、もう一度写真を見つめた。


――一体、誰が私を守ろうとしているの?

手の怪我のことは、実母にさえ話していない。

知っている人間は、ごく僅か。


智也は除外できる。彼が有栖川玲奈を傷つけるはずがない。


もしかして、月城悠真……?


羽菜はスマホを手に取り、電話をかけた。


「月城さん……有栖川玲奈さんって、ご存知ですか?」


月城は少し考えてから答えた。


「名前だけなら……どこかで聞いたような気がするけど。どうかした?」

「昨夜、彼女が手を怪我しまして」

「……そうなんだ。それは大変だったね。

もしよかったら、腕のいい整形外科医を紹介するよ?」

「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」


羽菜はそう答えて、そっと通話を切った。

――やはり、彼じゃない。


誰なのだろう。

思い当たる知人も、友人もいない。

智也と結婚してから、外の世界との縁はどんどん薄れていった。


いくら考えても、この背中の人物が誰なのか思い出せなかった。


その頃。

外のベンチで、智也は無言のまま、煙草を立て続けに吸っていた。

火がつくたびに、胸の奥の苛立ちや焦燥が燃えるように感じる。

半箱を空にしてようやく、息を吐き出すように立ち上がる。


部屋に戻ると、羽菜はベッドの上で写真を握りしめ、何かを思い詰めたような顔をしていた。

智也はそっと隣に腰を下ろし、指先で羽菜の眉間に寄った皺をなぞる。


それから、黙ったまま彼女を強く、長く抱きしめた。

羽菜は、彼のスーツから漂うタバコの匂いに、少しだけ眉をひそめる。


「……たくさん吸ったの?」

「うん」

「せっかくやめたのに。体に悪いよ」

「……わかってる」


静かな間が流れたあと、智也がぽつりと呟く。


「……さっきは、ごめん。君を傷つけるつもりはなかったのに、あんな言い方をしてしまった」


羽菜はその言葉に返さず、

少しだけ視線をそらして、ぽつりと呟いた。


「お腹すいた。ご飯にしよう」


智也は羽菜をそっと腕から離し、ボディーガードに夕食を運ばせた。

食事の後、彼は会社へと向かった。


夕方になると、病室の扉が勢いよく開き、

大きな花束を抱えた桐谷南音が顔を出した。


「お姉ちゃんっ!」


羽菜が驚く間もなく、南音は怒り気味にまくしたてた。


「怪我したのに、なんで教えてくれなかったの!?輝がたまたま話してくれなかったら、入院してることすら知らなかったんだよ!」


羽菜は微笑んで、ベッドの上で体を少し起こす。


「だって南音ちゃん学校があるでしょ?迷惑かけたくなかったの」

「もうすぐ卒業だし、就活もないし毎日ヒマだもん!早く言ってくれれば、ずっとそばにいられたのに!……うるさいと思われない限り!」


「そんなの思わないよ~」


羽菜の笑顔に少し安心したようで、南音はギプスをした手を見てまたぷんすか怒り始める。


「……誰よ、こんなひどいことしたの!?」


羽菜は、できるだけ簡潔に答えた。


「前にトラブルになった墓荒らしのグループがいてね。その男の妹が仕返しに来たの」



南音はますます怒りをあらわにする。


話しているうちに、外はすっかり暗くなっていた。

南音が腕時計を見て、ふと思い出したようにスマホを取り出す。


「もしもし、お兄ちゃん?今お姉ちゃんの病室にいるの。帰りにタピオカ買ってきて!私の好きなのわかってるよね?お姉ちゃんの分もちゃんと!」


電話口の智也は、相変わらず落ち着いた声で答えた。


『今病院にいるんだ。飲みたければボディーガードに頼んでくれ』

「えっ、病院……?今、私お姉ちゃんの病室にいるんだけど?」

『俺は玲奈の方の病院にいる。三十分後には戻る』


南音は目を見開いて、立ち上がり、窓辺に駆け寄る。


「……お兄ちゃん、ほんとガッカリだよ!

お姉ちゃん、ケガして気持ちも落ちてるのに、なんであんな女と一緒にいんの!?

男が元カノとベタベタしてるの、女が一番嫌がることだって知らないの!?」


智也はしばらく黙ったままだった。

やがて、低い声でひとことだけ答えた。


『……すぐ戻る』

「今すぐ!は・や・く!!」


南音は一方的に電話を切って、ぷんぷんしながらベッドの脇に戻ってきた。

羽菜を見て、しばらく迷っているようだったが、結局我慢できずに口を開く。


「ねえお姉ちゃん……お兄ちゃん、最近ずっとあの女と一緒にいない?」


羽菜は、視線を落としたまま、小さく頷いた。

南音はふーっとため息をついた。


「……お姉ちゃんってほんと正直すぎる。あの女、真っ向勝負じゃ勝てないよ。

ちっちゃい頃から、腹黒くてあざとくて……私だって勝てないくらいだったもん」


羽菜がわずかに顔を上げると、南音は少し声を落として語り始めた。


「小さい頃からずっと、お兄ちゃんのこと取りたがってた。うちとあの家って、昔から商売の付き合いあってさ、よく一緒にご飯食べてたんだけど……

そのたびに『智也兄ちゃ~ん♡』って猫なで声で甘えて、料理取ってーだの、エビの殻剥いてーだの……もう見てるだけでイライラしてた」


「……」


「でね、お兄ちゃんもお兄ちゃんで、なんか魔法にかかったみたいに全部聞いちゃうの。

完全に甘やかしてた」


羽菜の胸が、きゅっと痛んだ。

けれど、それを顔に出すことはなかった。

表情を静かに保ち、黙って南音の話に耳を傾ける。


南音は無邪気な顔で、悪びれもせず続けた。


「でね、私もムカついたから、今度は逆に玲奈の兄を狙ってみたの。『輝~』って呼び捨てにして、いろいろこき使ってやったら、玲奈めちゃくちゃ怒っててさ!ざまぁみろって感じだよね!」


羽菜は、その輝に対してはむしろ好印象を持っていた。


「兄妹なのに……あんまり似ないね」

「うん。父親は同じだけど、母親が違うの。玲奈の母親って、輝のお母さんの妹で……不倫で今の地位を手に入れたって噂」


南音は少し肩をすくめ、目をそらすようにして続ける。


「輝も可哀想だよ。

実の妹は生まれてすぐ事故で亡くなって……お母さんもそれが原因で精神的に壊れちゃった。

本当は、お兄ちゃんと許嫁してたの、その妹。今も生きてたら、お姉ちゃんと同じ年くらいのはずなんだよね」


羽菜は、何と返していいかわからず、ただうっすらと微笑んだ。


しばらくして、智也が戻ってきた。

二人分のタピオカドリンクと、デザートを手にして。


羽菜の好きなブラックミルクティー、南音にはいちごミルク。

智也はストローを差し、羽菜の手元にカップを差し出す。


「君がよく飲んでるお店のだよ」


羽菜は手を伸ばして受け取る――

その瞬間、彼のスーツの袖から、かすかな甘い香りが漂ってきた。

その香りは、有栖川玲奈が好んで使っていた香水の匂いだった。


自然と視線が、彼のシャツの襟元をかすめる。

そこには、小さなチェリーレッドの跡がついていた。

それは、つい最近、玲奈がつけていたリップの色。


羽菜の心臓が、猫の爪で引っかかれたように痛んだ。

何度経験しても慣れないその感覚に、呼吸が詰まりそうになる。

彼女は震える手でカップを握りしめ、かすかに笑った。


「……お忙しいのに、わざわざありがとう」


智也は軽く答える。


「運転手に頼んだだけだから」


南音はタピオカを受け取って一口飲み、兄をにらむように見つめた。


「お兄ちゃん、そんなことしてたら奥さんいなくなるよ!お姉ちゃんみたいな人、二度と出会えないんだからね!」


智也はちらりと羽菜を見た。

けれど彼女は、うつむいたまま、ゆっくりとタピオカを飲んでいる。

表情は、何も語っていなかった。


彼は短く吐き捨てるように言った。


「大人のことに、子どもが口出すな」


南音は呆れたように言い返す。


「お兄ちゃんのために言ってるのに…後悔しても、知らないからね!」


 * * *


――十日後。昼。

智也は系列会社の視察を終え、その足で病院へと急いで戻ってきた。


だが、病室前にいるはずのボディーガードの姿が見えない。

嫌な予感が胸をかすめ、早足で扉を開ける。


ベッドの上には――

見知らぬ女性が座っていた。


智也は目を見開き、近くの看護師に声をかける。


「ここにいた……桐谷羽菜は?」


看護師は少し考えたあと、あっさりと答える。


「ああ、朝一番で退院されましたよ」


智也の顔から、瞬時に血の気が引いた。

――迎えに来ると、たしかに約束していた。

なのに、何も言わずに……?


慌ててスマホを取り出し、羽菜の番号を押す。

しかし、受話器の向こうから聞こえてきたのは――


『おかけになった電話は、現在電源が入っていないか――』

耳障りな自動音声だった。


LINEを開き、メッセージを送ろうとする。

けれど、既読どころか未読にもならない。


智也は、ブロックされたことに気付いた。


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