羽菜がその司をこれほどまでにかばうとは――
その様子を見た智也の胸には、複雑な感情が渦巻いていた。
表情には出さない。
けれど、その目の奥には、どうしようもない感情が確かに揺れている。
「…ちょっとタバコ吸ってくる」
低く、冷たい声。
そう言い残して、智也は部屋を出て行った。
扉が閉まる音は、いつもよりわずかに強く響いた。
羽菜は、その微かな異変に気づかない。
頭の中は――
十三年前の、あの悪夢の夜でいっぱいだった。
激しい風、燃え盛る炎、焼けつくような痛み、
そして、耳を裂く絶望の叫び声――
司は、その夜の記憶と共に封じ込めた名前だった。
その名を口にするだけで、胸が締めつけられ、心がざわつく。
一粒の涙が、音もなく頬を伝い、手の中の写真へと落ちた。
しばらくして、羽菜はようやく呼吸を整え、
震える指で涙を拭いながら、もう一度写真を見つめた。
――一体、誰が私を守ろうとしているの?
手の怪我のことは、実母にさえ話していない。
知っている人間は、ごく僅か。
智也は除外できる。彼が有栖川玲奈を傷つけるはずがない。
もしかして、月城悠真……?
羽菜はスマホを手に取り、電話をかけた。
「月城さん……有栖川玲奈さんって、ご存知ですか?」
月城は少し考えてから答えた。
「名前だけなら……どこかで聞いたような気がするけど。どうかした?」
「昨夜、彼女が手を怪我しまして」
「……そうなんだ。それは大変だったね。
もしよかったら、腕のいい整形外科医を紹介するよ?」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
羽菜はそう答えて、そっと通話を切った。
――やはり、彼じゃない。
誰なのだろう。
思い当たる知人も、友人もいない。
智也と結婚してから、外の世界との縁はどんどん薄れていった。
いくら考えても、この背中の人物が誰なのか思い出せなかった。
その頃。
外のベンチで、智也は無言のまま、煙草を立て続けに吸っていた。
火がつくたびに、胸の奥の苛立ちや焦燥が燃えるように感じる。
半箱を空にしてようやく、息を吐き出すように立ち上がる。
部屋に戻ると、羽菜はベッドの上で写真を握りしめ、何かを思い詰めたような顔をしていた。
智也はそっと隣に腰を下ろし、指先で羽菜の眉間に寄った皺をなぞる。
それから、黙ったまま彼女を強く、長く抱きしめた。
羽菜は、彼のスーツから漂うタバコの匂いに、少しだけ眉をひそめる。
「……たくさん吸ったの?」
「うん」
「せっかくやめたのに。体に悪いよ」
「……わかってる」
静かな間が流れたあと、智也がぽつりと呟く。
「……さっきは、ごめん。君を傷つけるつもりはなかったのに、あんな言い方をしてしまった」
羽菜はその言葉に返さず、
少しだけ視線をそらして、ぽつりと呟いた。
「お腹すいた。ご飯にしよう」
智也は羽菜をそっと腕から離し、ボディーガードに夕食を運ばせた。
食事の後、彼は会社へと向かった。
夕方になると、病室の扉が勢いよく開き、
大きな花束を抱えた桐谷南音が顔を出した。
「お姉ちゃんっ!」
羽菜が驚く間もなく、南音は怒り気味にまくしたてた。
「怪我したのに、なんで教えてくれなかったの!?輝がたまたま話してくれなかったら、入院してることすら知らなかったんだよ!」
羽菜は微笑んで、ベッドの上で体を少し起こす。
「だって南音ちゃん学校があるでしょ?迷惑かけたくなかったの」
「もうすぐ卒業だし、就活もないし毎日ヒマだもん!早く言ってくれれば、ずっとそばにいられたのに!……うるさいと思われない限り!」
「そんなの思わないよ~」
羽菜の笑顔に少し安心したようで、南音はギプスをした手を見てまたぷんすか怒り始める。
「……誰よ、こんなひどいことしたの!?」
羽菜は、できるだけ簡潔に答えた。
「前にトラブルになった墓荒らしのグループがいてね。その男の妹が仕返しに来たの」
南音はますます怒りをあらわにする。
話しているうちに、外はすっかり暗くなっていた。
南音が腕時計を見て、ふと思い出したようにスマホを取り出す。
「もしもし、お兄ちゃん?今お姉ちゃんの病室にいるの。帰りにタピオカ買ってきて!私の好きなのわかってるよね?お姉ちゃんの分もちゃんと!」
電話口の智也は、相変わらず落ち着いた声で答えた。
『今病院にいるんだ。飲みたければボディーガードに頼んでくれ』
「えっ、病院……?今、私お姉ちゃんの病室にいるんだけど?」
『俺は玲奈の方の病院にいる。三十分後には戻る』
南音は目を見開いて、立ち上がり、窓辺に駆け寄る。
「……お兄ちゃん、ほんとガッカリだよ!
お姉ちゃん、ケガして気持ちも落ちてるのに、なんであんな女と一緒にいんの!?
男が元カノとベタベタしてるの、女が一番嫌がることだって知らないの!?」
智也はしばらく黙ったままだった。
やがて、低い声でひとことだけ答えた。
『……すぐ戻る』
「今すぐ!は・や・く!!」
南音は一方的に電話を切って、ぷんぷんしながらベッドの脇に戻ってきた。
羽菜を見て、しばらく迷っているようだったが、結局我慢できずに口を開く。
「ねえお姉ちゃん……お兄ちゃん、最近ずっとあの女と一緒にいない?」
羽菜は、視線を落としたまま、小さく頷いた。
南音はふーっとため息をついた。
「……お姉ちゃんってほんと正直すぎる。あの女、真っ向勝負じゃ勝てないよ。
ちっちゃい頃から、腹黒くてあざとくて……私だって勝てないくらいだったもん」
羽菜がわずかに顔を上げると、南音は少し声を落として語り始めた。
「小さい頃からずっと、お兄ちゃんのこと取りたがってた。うちとあの家って、昔から商売の付き合いあってさ、よく一緒にご飯食べてたんだけど……
そのたびに『智也兄ちゃ~ん♡』って猫なで声で甘えて、料理取ってーだの、エビの殻剥いてーだの……もう見てるだけでイライラしてた」
「……」
「でね、お兄ちゃんもお兄ちゃんで、なんか魔法にかかったみたいに全部聞いちゃうの。
完全に甘やかしてた」
羽菜の胸が、きゅっと痛んだ。
けれど、それを顔に出すことはなかった。
表情を静かに保ち、黙って南音の話に耳を傾ける。
南音は無邪気な顔で、悪びれもせず続けた。
「でね、私もムカついたから、今度は逆に玲奈の兄を狙ってみたの。『輝~』って呼び捨てにして、いろいろこき使ってやったら、玲奈めちゃくちゃ怒っててさ!ざまぁみろって感じだよね!」
羽菜は、その輝に対してはむしろ好印象を持っていた。
「兄妹なのに……あんまり似ないね」
「うん。父親は同じだけど、母親が違うの。玲奈の母親って、輝のお母さんの妹で……不倫で今の地位を手に入れたって噂」
南音は少し肩をすくめ、目をそらすようにして続ける。
「輝も可哀想だよ。
実の妹は生まれてすぐ事故で亡くなって……お母さんもそれが原因で精神的に壊れちゃった。
本当は、お兄ちゃんと許嫁してたの、その妹。今も生きてたら、お姉ちゃんと同じ年くらいのはずなんだよね」
羽菜は、何と返していいかわからず、ただうっすらと微笑んだ。
しばらくして、智也が戻ってきた。
二人分のタピオカドリンクと、デザートを手にして。
羽菜の好きなブラックミルクティー、南音にはいちごミルク。
智也はストローを差し、羽菜の手元にカップを差し出す。
「君がよく飲んでるお店のだよ」
羽菜は手を伸ばして受け取る――
その瞬間、彼のスーツの袖から、かすかな甘い香りが漂ってきた。
その香りは、有栖川玲奈が好んで使っていた香水の匂いだった。
自然と視線が、彼のシャツの襟元をかすめる。
そこには、小さなチェリーレッドの跡がついていた。
それは、つい最近、玲奈がつけていたリップの色。
羽菜の心臓が、猫の爪で引っかかれたように痛んだ。
何度経験しても慣れないその感覚に、呼吸が詰まりそうになる。
彼女は震える手でカップを握りしめ、かすかに笑った。
「……お忙しいのに、わざわざありがとう」
智也は軽く答える。
「運転手に頼んだだけだから」
南音はタピオカを受け取って一口飲み、兄をにらむように見つめた。
「お兄ちゃん、そんなことしてたら奥さんいなくなるよ!お姉ちゃんみたいな人、二度と出会えないんだからね!」
智也はちらりと羽菜を見た。
けれど彼女は、うつむいたまま、ゆっくりとタピオカを飲んでいる。
表情は、何も語っていなかった。
彼は短く吐き捨てるように言った。
「大人のことに、子どもが口出すな」
南音は呆れたように言い返す。
「お兄ちゃんのために言ってるのに…後悔しても、知らないからね!」
* * *
――十日後。昼。
智也は系列会社の視察を終え、その足で病院へと急いで戻ってきた。
だが、病室前にいるはずのボディーガードの姿が見えない。
嫌な予感が胸をかすめ、早足で扉を開ける。
ベッドの上には――
見知らぬ女性が座っていた。
智也は目を見開き、近くの看護師に声をかける。
「ここにいた……桐谷羽菜は?」
看護師は少し考えたあと、あっさりと答える。
「ああ、朝一番で退院されましたよ」
智也の顔から、瞬時に血の気が引いた。
――迎えに来ると、たしかに約束していた。
なのに、何も言わずに……?
慌ててスマホを取り出し、羽菜の番号を押す。
しかし、受話器の向こうから聞こえてきたのは――
『おかけになった電話は、現在電源が入っていないか――』
耳障りな自動音声だった。
LINEを開き、メッセージを送ろうとする。
けれど、既読どころか未読にもならない。
智也は、ブロックされたことに気付いた。