智也の顔色が、瞬間にして凍りついた。
手にしていたスマホを取り出し、保護担当のボディガードに直通で電話をかける。
「羽菜のことをきちんと見張っていろと言ったはずだ!今どこにいる」
電話口の男は慌てた様子ながらも、恭しく答えた。
「奥様が、“ずっと見守ってくれてご苦労様です。二日ほど休んできていいですよ”と。社長のお言葉だとも仰っていました…」
智也の口元がわずかに歪み、冷たい皮肉が滲む。
普段は従順な羽菜が、まさか自分の名で騙るなんて。
彼は冷ややかに問いただす。
「で、どこに行った?」
その不機嫌さを察したのか、ボディーガードはおずおずと答えた。
「それが……おっしゃいませんでした……」
智也はすぐに電話を切り、次に島田へコールを入れる。
——だが、繋がらない。電源が入っていなかった。
彼の眉間がピクリと動く。
「監視カメラを確認しろ」
「かしこまりました、社長」
アシスタントは早速スタッフを連れて病院の監視室へ向かった。
――十分後。
アシスタントから報告の電話が入る。
「社長、病院内で若奥様が映っている監視カメラの映像が、すべて消去されています。おそらく、意図的に削除された形跡があります」
智也は手にしていたスマホを強く握りしめ、指が白くなるほどだった。
しばし沈黙した後、立ち上がって腎臓内科の病室へ向かう。
羽菜の祖母の病室のドアをノックして入ると、
涼宮由美子が、ちょうど祖母の布団を整えていた。
智也の姿を見ると、彼女は顔を上げ、冷ややかに尋ねる。
「何か用?」
智也は淡々とした口調で話す。
「母さん、羽菜は退院しましたが、どこに行ったかご存じですか?」
由美子はその言葉にくすりと笑う。
「アンタが夫なのに、行き先も知らないの?母親の私が知るわけないでしょ」
「羽菜は俺に誤解があって、たぶん拗ねてます。どこかに行ってしまったが、手も怪我しているし……行き先を教えてくれませんか、迎えに行きますんで」
言葉は丁寧だが、その声には支配的な圧が滲んでいた。
由美子はすぐに察し、椅子を引いて腰を下ろし、足を組みながら軽く鼻で笑う。
「アンタ、二年前は足が悪くて、気も荒れてたね。うちの娘、逃げもせずに昼も夜も付き添って、世話して、献身してきたのに。そんな子が、今になって逃げ出すなんて、よっぽどのことがあったんでしょうね?」
智也は目を伏せ、沈黙する。
由美子は自嘲気味に笑った。
「どうせアンタにとって、うちの娘は家政婦みたいなもんでしょ。今は足も治ったし、もう必要ないってわけ」
智也は口元をゆがめる。
「そんなふうに思ったことは一度もありません」
由美子は冷たくにらむ。
「いいこと言うわね。だったらもっと大事にすればよかったじゃないの。いらないなら、さっさと離婚届に判を押してやって。うちの娘はきれいで、性格もいいし、頭も悪くない。おまけに料理も上手。まだ二十三だよ?離婚したって、いくらでも相手は見つかるわ。今どきバツイチなんて珍しくもないから」
智也は薄ら笑いを浮かべながらも、その目には一切の感情がなかった。
「お忙しいところ、失礼しました。もう少し探してみます」
背を向けて部屋を出て行き、ドアを強く閉めた。
由美子は、うとうとしている祖母に向かって舌打ちする。
「ねぇ?母さん。あの人の気の短さ、見たでしょ?ちょっと言っただけですぐドアを叩いて出て行くんだから。羽菜もどれだけ我慢してきたか……」
背中を向けて、そっと目元をぬぐいながら続ける。
「結婚したとき、親戚中から“お金のために娘を障害者に売った”って笑われたのよ。やっと彼が歩けるようになって、これから幸せになると思ってたのに、またこんなことになるなんて。釣り合わない結婚は、結局バカにされるだけ……」
祖母はため息混じりに呟いた。
「私があの子の足を引っ張ってしまったね…。」
「そんなこと言わないでよ。全部、私が不甲斐ないせいだよ」
——
智也は、その後も羽菜が行きそうな場所を片っ端から探し回った。
夜遅くまで捜索は続き、結局、手がかりも得られないまま深夜になった。
ベッドに横になっても、眠れずにいた。
何度も考えを巡らせるうち、ふと一つの場所が頭に浮かぶ。
すぐに起き上がって服を着替え、スタッフを連れて車で軽井沢へと向かった。
軽井沢は羽菜の祖父の故郷であり、彼女が幼少期を過ごした土地でもある。
一行は夜を徹して車を走らせる。
到着したのは、すでに午前三時過ぎだった。
智也は車を降り、一軒家のドアを押してみたが、びくともしない。
羽菜はまだ眠っているだろうと考え、彼女を起こさぬよう、車に戻ってシートを倒し、少しだけ目を閉じた。
連日の捜索で疲労困憊だったこともあり、そのまま眠り込んでしまう。
目を覚ました時には、すでに朝日が差し込んでいた。
彼は再び車を降りた。
そこへボディーガードが駆け寄ってくる。
「社長、中から奥様の声がします」
智也は軽く頷き、ドアへと向かう。
今度は簡単に開いた。
視線を巡らせると、広い庭は長く人の気配がなく、隅には雑草が生い茂っている。
東の隅には真っ白な花を咲かせた梨の木が一本。
その下に、静かでやわらかな雰囲気の女性が座っていた。
白いロングニットが細く美しい体を引き立て、長い黒髪は雪のような肌に映え、整った顔立ちに柔らかな微笑みを浮かべている。
風が吹き抜け、梨の花びらが舞い落ち、髪にそっと絡んだ。
まるで一枚の絵のような美しさだった。
隣には淡いブルーのシャツを着た背の高い男性がいて、彼女の手に薬を塗っていた。
二人は楽しそうに小声で話し、誰かが庭に入ってきたことにも気づいていない。
その女性こそ、智也が必死で探し続けた羽菜だった。
そして男性は、医師であり古美術修復工房のオーナー、月城悠真だった。
智也の目が冷たくなり、唇に皮肉な笑みが浮かぶ。
しばらく、じっとその二人を見つめ続けた。
やがて、感情を抑えて声を発する。
「羽菜、祖父の家に帰るなら、一言くらい言ってくれてもいいだろう」
羽菜は、その時になってようやくこちらに気づいた様子で、遠くから静かに答えた。
「お忙しいでしょうから、ご迷惑かと思いまして」
よそよそしい。
悠真も振り返り、少し驚いた表情を見せたが、すぐに笑顔で声をかける。
「お兄さん!どうぞ中へ」
智也は悠真を一瞥し、無言で羽菜のもとへ歩み寄る。
彼女の前に立ち、見下ろして語る。
「昨日の昼からずっと探してたんだ」
「あら、お気遣いなく」
羽菜は冷たく、少し距離を取るような笑みを浮かべ、その瞳には強い意志が宿っていた。
「この間、玲奈がベッドからトイレに行こうとして転びそうになったから、支えただけだ。たぶんその時リップがシャツについただけで、夜着替えるとき初めて気づいた」
そう説明する智也。
「説明していただく必要はありません」
羽菜はどこか投げやりな口調だ。
そんな細かい話を聞かされるほど、心はもう限界だった。
いなくなったのはリップの痕だけが理由じゃない、積み重なった感情のせい。
三年の結婚生活、ずっと互いに気を使い合い、言い争うこともせず、でも心のわだかまりは解けないまま。
だから、離れるしかなかった。
見なければ、少しは楽になると思った。
智也は一度言葉を切り、続けた。
「玲奈の手は、あの司という男にハンマーで傷つけられた。もともとうつ病が重くて、今回の怪我でさらに悪化した。自殺を心配して、様子を見に何度か足を運んでいただけだ」
羽菜はしばらく沈黙していたが、やがて静かに立ち上がる。
「ちょっと来てください」
智也は淡々と返事をし、彼女の後ろについて歩き出す。
二人は大きな庭を出て、村の裏手にある土の小道を進む。
春の風が強く、道には砂埃が舞っていた。
十分ほど歩いた先に、柳の木が生い茂る一角がある。
太い幹から、細い枝が風に揺れている。
その下には、無数の古い墓が並んでいた。
昼間だというのに、あたりはひんやりとし、空気も重い。
時折カラスが木々をかすめて、かすかな鳴き声を残していく。
羽菜は少しも怖がる様子はなく、慣れた足取りで小さな古い墓の前に立つ。
じっとその墓を見つめ、目には深い悲しみが宿る。
しばらくして、静かに口を開いた。
「司は、ここに眠っています」