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第18話 朝食


「彼はもうずっと前に亡くなったの。死人が人を傷つけるなんてありえない。有栖川さんの指を怪我させたのは別の誰か。その人が誰なのか、なぜそんなことをしたのか、私には本当に分からない」


羽菜の声は不思議なくらい落ち着いていたが、長いまつ毛の先には静かに涙が溜まり始めていた。


智也は黙って目の前の小さな墓を見つめていた。

それはどこにでもあるような、古びた土の墓だった。


墓の前にはしおれた野の花が一束置かれており、

土を盛っただけの簡素なお墓。墓碑すらなかった。


つまり、ここに誰が眠っているのか、全くわからない。


智也の口元がわずかに歪む。

以前「司って誰?」と聞いた時、羽菜は答えをはぐらかした。


監視カメラの映像から、司らしき背中が映った写真を見せた後、彼女は適当にこの墓を持ち出してごまかそうとしている。


彼女は知らないのだろう。

最初に夢の中で「司」と呼んだその時から、智也はもう人を使ってこの村を密かに調べていたことを。


村には九十八世帯があり、老若男女問わず、誰に聞いても返事は同じだった——村に「司」という人間はいない、と。


だから、この墓に司が眠っているはずがない。

いつもは誠実な羽菜が、司を守るために自分に嘘をついた。


智也の中に強い怒りが湧き上がる。

今にもその嘘を暴こうとした瞬間——


彼女は、いつの間にか涙で視界がぼやけていた。

濡れた大きな瞳で、悲しげに墓を見つめている。

野を吹き抜ける風で、細い体がかすかに揺れて、あまりにも儚く見えた。


その姿に、智也の中の怒りは一気に消えていった。

そっと腕を伸ばして、彼女を優しく抱き寄せる。


「もういいよ、これ以上は聞かないから、泣かないで」


羽菜は顔を彼の胸にうずめ、声もなく涙を流した。

涙はすぐに彼のシャツを濡らし、細い肩が小さく震えている。


智也は、優しく彼女の背中を撫でながら言った。


「今度から出かけるときはちゃんと一言言ってから行くんだよ。心配するから。分かった?」


羽菜は何も答えなかった。


その時——

静かな野原の中、「ぐぅ――」というお腹の音が突然響いた。


智也は苦笑し、今になって強い空腹を感じた。

羽菜も少し遅れて気づき、慌てて目元を拭い、智也の腕の中から離れる。

見上げて尋ねる。


「お腹空いてるの?」

「うん……昨日の昼から何も食べてないんだ」


少しだけ拗ねたような口調だった。


「え?どうして食べなかったの?」

「君がいなくなったから、探すのに必死で食事どころじゃなかった」


羽菜の胸の奥に、切ない気持ちが広がる。

彼のこんな態度は、どうしても「自分のことを大事に思ってくれている」と錯覚させてしまう。

でも、前にそう思った時、彼は玲奈の名前を理由に、彼女に別れを告げたのだった。


「帰ってご飯にしましょう。島田さんがもう食事を用意してるはず。食べ終わったら先に帰って」


羽菜は小さくそう言った。

智也は一瞬間をおいて、静かに頷いた。

二人は肩を並べて家へと歩き出す。


戻ると——

悠真は庭でテーブルを準備していて、島田はキッチンからお椀を運んできた。


悠真の姿を見て、智也はそっと羽菜の手を握った。

羽菜は手を引こうとしたが、智也はしっかりと握ったまま離さない。

悠真の視線が二人の手に注がれ、微かに目を伏せた。


島田は智也の姿を見ると、少し慌てて弁解する。


「社長、申し訳ございません。昨日は携帯の充電が切れて、ご連絡いただいたのに気づきませんでした」


智也は気にした様子もなく、軽く手を振った。


「もう気にしないで。さ、食べよう」


皆が席につく。

智也はゆで卵を一つ手に取り、丁寧に殻をむいて羽菜の皿の上に置いた。


「はい」


羽菜は卵を智也の方へ押し返す。


「あなたこそ、お腹空いてるんだから、先に食べて」


悠真は穏やかに微笑む。


「仲の良い兄妹ですね」


智也の目が一瞬冷たくなり、淡々と返す。


「俺たちは……」

「異母兄妹よ。田舎から来た貧乏な身内で、前は三年間彼の家で家政婦をしてたの。身の回りの世話を全部」


羽菜は彼の言葉をさえぎり、少し意地を張って言った。

悠真は少し残念そうに首を振る。


「へぇ……そんなに修復が上手なのに、家政婦だなんて、もったいないね」


羽菜は智也をちらりと見て、意味ありげに続ける。


「まあでも、給料は悪くなかったから」


その瞬間。

ふとももに、突然温かい手が乗った。

その手は、机の下でいたずらっぽく羽菜の足を軽くつねる。

くすぐったくて、思わず体がびくっとした。


羽菜の耳がたちまち赤くなり、横目で智也をにらみつけ、「やめて」と目で訴える。

だが、智也は何もなかったように、真面目な顔で品良くパンを食べている。


羽菜は、その手をつかんでどかそうとしたが、逆に指をしっかり絡められてしまう。

彼は羽菜の手を握りつつ、親指の腹で手のひらをそっとなぞる。

それがくすぐったくて、羽菜の手のひらにはじんわり汗が滲んできた。


片手はケガでギプスをして動かせず、もう片方の手は智也に握られているため、食事もできない。


ただじっと座っているしかなかった。

智也は横顔に笑みを浮かべ、わざと聞く。


「食べないの?はーちゃん」


普段は「羽菜」と呼ぶ彼が、わざと「はーちゃん」とだけ呼ぶ。

羽菜は彼を睨み返した。


智也は微笑んだ。


「もしかして、食べさせてもらいたいのかな?」


そう言いながら、自分のスプーンでスープをすくい、わざわざ唇で温度を確かめてから、羽菜の口元に差し出した。


「ほんと甘えん坊だな……ほら、あーん」


その声には、どこかからかうような響きと、甘い誘惑、そして茶化す気持ちが混じっていた。

羽菜の顔は一瞬で真っ赤になった。


彼女は口をしっかり閉じて、どうしても開けようとしない。

智也はさらに面白そうに笑みを深めた。


「スプーンがいやなら、口移しでも……」


羽菜は彼がそこまで言うと思っていなかったので、思わず睨みつけた。


「そのスプーン、あなたが使ったでしょ。別のにっ――」


彼女が口を開いてそう言った瞬間、智也は素早くスプーンを彼女の口に押し込んだ。


「昔はよく一緒に同じスプーン使ってたのに、全然気にもしなかったよね。今日は他の人がいるからって、気にするようになった?そんなの、あまりよくない癖だよ」


不意にスープを口に入れられた羽菜は、驚きで目を見開きながらも、仕方なく飲み始めた。

悠真は肩をすくめて、苦笑交じりに言った。


「羽菜さんって、本当にお兄さんに大事にされてるんだね」


その下で、智也はそっと羽菜の手を強く握り、微笑みながら言った。


「当たり前だよ。唯一の妹だし、しっかり可愛がらないと」


島田は顔を器に隠すようにして、「やっぱりお金持ちは遊び方が違うな……本当は夫婦なのに、わざわざ兄妹ごっこするなんて……」と心の中で呟いた。


やっとの思いで食事が終わる。

島田は席を立ち、食器を片付け始めた。

羽菜は礼儀正しく、しかし少し距離を置いた口調で智也に言った。


「お仕事もお忙しいでしょうし、ご飯も食べ終わったら、早めにお帰りください」


智也は優しい眼差しで彼女を見つめた。


「一緒に帰ろうよ。こんな山奥、何もなくて不便だし。お兄ちゃんは一日でもはーちゃんに会えないと、寂しくて仕方ないんだ」


彼の言葉に、羽菜の耳はますます熱くなる。

まさか自分のせいでこんなことになるとは思わなかった。


少し間を置いて、ギプスをつけた左手を上げて見せる。


「三ヶ月は手を動かせないし、帰ってもやることありませんから、こっちで療養します」

「そっか……。それなら、夜…にまた来るよ」


智也は「夜」と「来る」という言葉に特に強調を込めて言った。

まるで夜になったら、羽菜のところに何か特別なことをしに来るかのような言い方だった。


羽菜は慌てて言った。


「そんなことしなくていいです。遠くて車で何時間もかかるし、ご迷惑でしょう」


智也は羽菜の鼻先を優しくつまみ、愛しげに言った。


「ほんと、どんどん頑固になったな」


羽菜は顔をそむけ、小声で警告した。


「触らないでください」

「兄妹だし、これくらい普通だろ?」


そう言いながら、彼は羽菜の頬に手を伸ばし、指先でほんのり赤くなった唇を優しくなぞった。

その笑みにはどこか危うさがあった。

普段は真面目で近寄りがたい彼の顔が、今はどこか悪戯っぽく、妙に色っぽく見える。


三年間、羽菜と智也は表面的には礼儀正しい関係を保ってきた。


彼はいつも落ち着いていて、どんな時でも節度を崩さなかった。

最も親密な時ですら、距離を感じさせた。


こんな遊び人みたいな表情は、初めてだった。


羽菜の顔はますます赤くなり、心臓が高鳴る。

慌てて体をそらし、彼の手から逃れた。


月城悠真はもう我慢できない様子で、無言で立ち上がり、その場を去っていった。

羽菜も落ち着いていられず、すぐに席を立ち、足早に部屋に戻った。


智也もその後を追う。


寝室に入ると、

智也は後ろから羽菜を抱きしめ、彼女の体をそっと向かせた。

ケガをした手に気を配りながら、もう一方の手で顎を支え、顔を寄せてキスしようとした。

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