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第19話 あの日

羽菜はふいに後ろへ一歩退いた。

その拍子に、智也の唇が彼女の顎先に触れた。


彼の気配が一瞬で変わるのが、肌を通して伝わってくる。

顎を掴んでいた手が、するりと彼女の背中をなぞり、細い腰をしっかりと引き寄せた。


「どうして月城に、俺が兄だなんて言ったんだ?」


低く絞り出すような声には、明らかな苛立ちが滲んでいた。

羽菜は伏し目がちに睫を震わせ、小さな声で答えた。


「どうせすぐ離婚するんだし、わざわざ関係を広める必要もないでしょ。それに、あなたの家柄を考えて、離婚後に同僚たちに知られたら……私きっと変な目で見られる。

『御曹司に捨てられた女』と思われるのが嫌。だから兄だってことにした方が楽なの」


智也はじっと彼女を見つめ、ふっと口元をゆがめた。


「……抜け目ないな」

「小物の処世術よ」


羽菜は自嘲気味に笑った。


「小物、ね」


智也は口元をゆるめ、少しからかうように言った。


「俺をこんなにも振り回す小物なんて、東京中探しても滅多にいないけどな」


羽菜の耳がほんのり赤くなったが、彼女はくるりと背を向け、もう何も言わなかった。


そのとき、智也のスマホが鳴った。

スーツのポケットから取り出して画面を見ると、表情がかすかに変わる。

“有栖川玲奈”——その名前をちらりと見た羽菜の胸に、冷たいものが広がる。


「……出たら?」


羽菜は淡々と告げる。


「怒らないのか?」


彼は眉を片方だけ上げた。


(怒ったところで、あなたが出ないわけじゃないでしょう?)


羽菜は心の中でそう思いながら、無理に明るく促した。


「……ほら、急がないと待たせちゃうわよ?」


智也は彼女をしばし見つめた後、通話ボタンを押した。


「何かあった?」


電話越しに有栖川玲奈のか弱い声が聞こえる。


「智也……どこに行ったの? 昨日は一度も顔を見せてくれなかったし……今日も無理なの……? 智也が来てくれないと、ご飯も喉を通らなくて……」


嫌悪感がこみ上げてきた羽菜は、突然背伸びして智也のスマホに顔を近づけた。

そして、玲奈の真似をして甘えた声でささやく。


「ねぇ、あなた。準備できたわよ? まだなの?」


——沈黙。

電話の向こう側は、水を打ったように静まり返った。


智也は笑みを浮かべる。

二人が見つめ合っていると、ようやく玲奈がしぼりだすような声で言った。


「……そう、ならいいの。……忙しいそうだし、ごめん」


電話が切れると、羽菜の表情は無表情に戻る。


「早く行ってあげなよ。重度のうつ病なんでしょ?もしまた睡眠薬でも飲まれたら、私、責任取れないよ」


智也は彼女の頭を優しく撫でる。


「ちょっと電話してくる」


そう言い残して部屋を出ていくと、すぐに別の番号に発信した。


「玲奈の様子を見てて。さっきちょっと刺激を受けたみたいだ」


しばらく沈黙が続いた後、有栖川輝が答える。


『……玲奈は昔から甘やかされて育ったからな。迷惑をおかけしました』

「気にするな」


智也の声は乾いていた。


『奥さん、怒ったりしないんです?』


「大丈夫。彼女はそんなの気にしないから」


智也は少し間を置き、続けることはなかった――

……本当は、俺のこともあまり気にしていないんだ。


通話を切って部屋に戻ると、羽菜が枕元で静かに本を読んでいた。

智也は彼女の傍に腰を下ろし、指先でそっと頬をなぞった。


「……行ってくる」

「……うん」

「夜、また来るよ」

「遠いから……来なくていいわ」

「だったら、早く一緒に戻ろうよ。こんな山奥に、ひとりでいて心配なんだよ。まだ手だって完治してないんだから」


一瞬、胸が詰まるような感情が押し寄せた。

彼はいつもそうだった。

彼女が離れようとすると、優しく引き止める。


その優しさに心が揺れると——すぐに、また傷つけてくる。


羽菜は手を引き抜き、冷たい声で言った。


「ここでずっと育ってたし、あなたがいない時だって、私はちゃんと生きてきた」

「……そうだな」


智也は彼女の指先をそっと摘む。


「見た目は弱そうなのに、心は俺よりずっと強い」


羽菜は何も答えなかった。

彼はゆっくりと立ち上がる。


「じゃあ……ほんとに行くよ。見送りは?」


彼女は顔を背けたまま、返事をしない。

智也はしばらく立ち止まり、やがて静かに踵を返した。


外に出ると、月城がまだ庭で待っていた。

智也の目が冷たくなる。


「いつ帰るんだ?」

「休暇だから、明後日には帰りますよ。羽菜さんの手の薬も替えないといけませんし、僕がいる方が便利かもしれません」


智也は顔をしかめ、近くでカップラーメンを食べている警備員に声をかける。


「お前たちはここに残れ。羽菜をしっかり守るんだ」


さらに、皿洗い中の島田にも言う。


「島田、車に乗れ」


島田は緊張した面持ちで助手席に滑り込み、手をぎゅっと握りしめながら、おずおずと口を開いた。


「社長、昨日奥様に携帯を切れって言われて……断れませんでした」

「気にするな」


智也はすぐに話題を変える。


「羽菜は……月城悠真にどう接していた?」

「とても丁寧に接していましたが、一定の距離は保っています。でも……月城さんは少し距離を詰めように見えまして……」


島田は少し迷いながら続けた。


「……奥様との関係、月城さんに伝えたほうがいいのでしょうか?」

「いや、必要ない」


智也は小切手を差し出す。


「二人きりにさせるな」


島田は目を丸くしながらも、何度も頷いた。


車がゆっくりと走り出す。

智也は窓を少し下げ、ちらりと後方を振り返った。

だが、羽菜の姿は見えなかった。

胸の奥が、ぽっかりと空いたような感覚。


……まったく。

あれだけ探して、ようやく見つけたというのに、見送りすらないのか。


車が角を曲がろうとしたとき、ふと振り返ると、道端に白いニットをまとった細い影が立っていた。

――羽菜だった。


智也の唇が、わずかに弧を描く。そっと窓を閉めた。


――初めて彼女と出会った日の情景が、脳裏によみがえる。

あれは三年前の、冬のことだった。


彼女はまだ二十歳で、大学を出たばかり。

色白で繊細な顔立ち、微笑んでもどこか距離を感じさせる表情だった。


あの日も今日と同じくらい寒くて、羽菜は手土産を持つ指が真っ赤に冷えていた。


そして、その日。

ふたりは婚姻届を出し、夫婦になったのだった。


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