羽菜はふいに後ろへ一歩退いた。
その拍子に、智也の唇が彼女の顎先に触れた。
彼の気配が一瞬で変わるのが、肌を通して伝わってくる。
顎を掴んでいた手が、するりと彼女の背中をなぞり、細い腰をしっかりと引き寄せた。
「どうして月城に、俺が兄だなんて言ったんだ?」
低く絞り出すような声には、明らかな苛立ちが滲んでいた。
羽菜は伏し目がちに睫を震わせ、小さな声で答えた。
「どうせすぐ離婚するんだし、わざわざ関係を広める必要もないでしょ。それに、あなたの家柄を考えて、離婚後に同僚たちに知られたら……私きっと変な目で見られる。
『御曹司に捨てられた女』と思われるのが嫌。だから兄だってことにした方が楽なの」
智也はじっと彼女を見つめ、ふっと口元をゆがめた。
「……抜け目ないな」
「小物の処世術よ」
羽菜は自嘲気味に笑った。
「小物、ね」
智也は口元をゆるめ、少しからかうように言った。
「俺をこんなにも振り回す小物なんて、東京中探しても滅多にいないけどな」
羽菜の耳がほんのり赤くなったが、彼女はくるりと背を向け、もう何も言わなかった。
そのとき、智也のスマホが鳴った。
スーツのポケットから取り出して画面を見ると、表情がかすかに変わる。
“有栖川玲奈”——その名前をちらりと見た羽菜の胸に、冷たいものが広がる。
「……出たら?」
羽菜は淡々と告げる。
「怒らないのか?」
彼は眉を片方だけ上げた。
(怒ったところで、あなたが出ないわけじゃないでしょう?)
羽菜は心の中でそう思いながら、無理に明るく促した。
「……ほら、急がないと待たせちゃうわよ?」
智也は彼女をしばし見つめた後、通話ボタンを押した。
「何かあった?」
電話越しに有栖川玲奈のか弱い声が聞こえる。
「智也……どこに行ったの? 昨日は一度も顔を見せてくれなかったし……今日も無理なの……? 智也が来てくれないと、ご飯も喉を通らなくて……」
嫌悪感がこみ上げてきた羽菜は、突然背伸びして智也のスマホに顔を近づけた。
そして、玲奈の真似をして甘えた声でささやく。
「ねぇ、あなた。準備できたわよ? まだなの?」
——沈黙。
電話の向こう側は、水を打ったように静まり返った。
智也は笑みを浮かべる。
二人が見つめ合っていると、ようやく玲奈がしぼりだすような声で言った。
「……そう、ならいいの。……忙しいそうだし、ごめん」
電話が切れると、羽菜の表情は無表情に戻る。
「早く行ってあげなよ。重度のうつ病なんでしょ?もしまた睡眠薬でも飲まれたら、私、責任取れないよ」
智也は彼女の頭を優しく撫でる。
「ちょっと電話してくる」
そう言い残して部屋を出ていくと、すぐに別の番号に発信した。
「玲奈の様子を見てて。さっきちょっと刺激を受けたみたいだ」
しばらく沈黙が続いた後、有栖川輝が答える。
『……玲奈は昔から甘やかされて育ったからな。迷惑をおかけしました』
「気にするな」
智也の声は乾いていた。
『奥さん、怒ったりしないんです?』
「大丈夫。彼女はそんなの気にしないから」
智也は少し間を置き、続けることはなかった――
……本当は、俺のこともあまり気にしていないんだ。
通話を切って部屋に戻ると、羽菜が枕元で静かに本を読んでいた。
智也は彼女の傍に腰を下ろし、指先でそっと頬をなぞった。
「……行ってくる」
「……うん」
「夜、また来るよ」
「遠いから……来なくていいわ」
「だったら、早く一緒に戻ろうよ。こんな山奥に、ひとりでいて心配なんだよ。まだ手だって完治してないんだから」
一瞬、胸が詰まるような感情が押し寄せた。
彼はいつもそうだった。
彼女が離れようとすると、優しく引き止める。
その優しさに心が揺れると——すぐに、また傷つけてくる。
羽菜は手を引き抜き、冷たい声で言った。
「ここでずっと育ってたし、あなたがいない時だって、私はちゃんと生きてきた」
「……そうだな」
智也は彼女の指先をそっと摘む。
「見た目は弱そうなのに、心は俺よりずっと強い」
羽菜は何も答えなかった。
彼はゆっくりと立ち上がる。
「じゃあ……ほんとに行くよ。見送りは?」
彼女は顔を背けたまま、返事をしない。
智也はしばらく立ち止まり、やがて静かに踵を返した。
外に出ると、月城がまだ庭で待っていた。
智也の目が冷たくなる。
「いつ帰るんだ?」
「休暇だから、明後日には帰りますよ。羽菜さんの手の薬も替えないといけませんし、僕がいる方が便利かもしれません」
智也は顔をしかめ、近くでカップラーメンを食べている警備員に声をかける。
「お前たちはここに残れ。羽菜をしっかり守るんだ」
さらに、皿洗い中の島田にも言う。
「島田、車に乗れ」
島田は緊張した面持ちで助手席に滑り込み、手をぎゅっと握りしめながら、おずおずと口を開いた。
「社長、昨日奥様に携帯を切れって言われて……断れませんでした」
「気にするな」
智也はすぐに話題を変える。
「羽菜は……月城悠真にどう接していた?」
「とても丁寧に接していましたが、一定の距離は保っています。でも……月城さんは少し距離を詰めように見えまして……」
島田は少し迷いながら続けた。
「……奥様との関係、月城さんに伝えたほうがいいのでしょうか?」
「いや、必要ない」
智也は小切手を差し出す。
「二人きりにさせるな」
島田は目を丸くしながらも、何度も頷いた。
車がゆっくりと走り出す。
智也は窓を少し下げ、ちらりと後方を振り返った。
だが、羽菜の姿は見えなかった。
胸の奥が、ぽっかりと空いたような感覚。
……まったく。
あれだけ探して、ようやく見つけたというのに、見送りすらないのか。
車が角を曲がろうとしたとき、ふと振り返ると、道端に白いニットをまとった細い影が立っていた。
――羽菜だった。
智也の唇が、わずかに弧を描く。そっと窓を閉めた。
――初めて彼女と出会った日の情景が、脳裏によみがえる。
あれは三年前の、冬のことだった。
彼女はまだ二十歳で、大学を出たばかり。
色白で繊細な顔立ち、微笑んでもどこか距離を感じさせる表情だった。
あの日も今日と同じくらい寒くて、羽菜は手土産を持つ指が真っ赤に冷えていた。
そして、その日。
ふたりは婚姻届を出し、夫婦になったのだった。