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第20話 駒にされた


智也の車が角を曲がって見えなくなるまで、羽菜はその場に立ち尽くしていた。

目の前の空っぽな道をじっと見つめ、心にもぽっかりと穴が開いたような感覚が残る。


風が落ち葉を巻き上げ、彼女の足元でくるくると舞っていた。

しばらくそのまま佇んでから、羽菜は祖父の家へと戻った。


東側の離れにある扉を鍵で開ける。

そこは祖父が絵画を修復していた部屋であり、幼い頃の羽菜が一番長く過ごした場所でもある。


部屋の調度品は昔のまま、中央には腰の高さほどある朱色の木のテーブルが二つ並び、筆やナイフ、タオルなどの道具がきちんと揃えられていた。

テーブルの上にはうっすらと埃が積もっている。


胃がんで亡くなった祖父を思い出し、羽菜の鼻の奥がつんと痛み、目の縁がじんわりと熱くなる。


「ここが、君が修復の技術を学んだ場所なんだね?」


背後から月城の声がした。


羽菜はうなずく。


「はい」


月城が近づき、指先でテーブルをなぞる。


「すごいなー。俺も小さい頃、祖父に教えてもらおうとしたけど、一ヶ月も続かなかった。地味で根気がいるし、俺には無理だったよお」


彼の祖父もまた、古美術品修復の名匠だった。

羽菜は微笑む。


「昔、おじいちゃんは母に継がせたかったんですけど、母もじっとしていられなかったみたいで。けど、この技術は誰かが継がなきゃいけないもの」


「そっか……。でも本当にハードル高い技術だよ。集中力も根気も必要だし、なにより我慢強さが問われる」


「そうなんですよ。特に焦りは禁物。絵を剥がすときなんか、ちょっとずつ進めないと……。早くやろうとしたら、絵画を傷つけるかもしれませんのでね」


月城は横顔を向けて、優しい目で羽菜を見つめる。

「子供の頃、苦労したんだろう?」


羽菜は薄く微笑む。

「子供時代なんてなかったよ。他の子は遊んでるのに、私はずっと古い絵と向き合ってた」

「それは大変だったろうな……」

「まぁ、少しはね」


そんな会話をしていると、島田が雑巾を手に部屋へ入ってきた。

あちこち拭きながら、警戒した様子で月城の背中を見張っている。


月城はそっと羽菜の隣に半歩近づき、彼女の垂れ下がった手に自分の手をそっと近づける。


すると島田が、急に扉の後ろにあった箒を取り上げて月城の後ろに駆け寄り、彼の足元を勢いよく叩いた。


「月城さん、どいてください!今ネズミが走っていきましたから!」


月城は慌てて身をかわす。


羽菜は不思議そうに島田を見る。この部屋は祖父が特別に密閉していて、ゴキブリすら入れない。ネズミなんているはずもない。


すぐに悟った。

きっと智也が出発前に何か言い含めていったのだろう。

今まで気づかなかったが、彼の独占欲はこんなに強かったのか。月城と少し話すだけでも許せないらしい。


夕食後、羽菜は身支度を整え、ベッドにもたれて本を読んでいた。

そこへ島田がスマホを手に足早に入ってくる。


「奥様、社長からお電話です。急用とのことです」


羽菜は受話器を取る。


「どうしたの?」


電話の向こうで、智也の低い声が響く。


「おばあちゃんが入院した。君に会いたいと言っている。迎えの車が下で待っているから、すぐ戻ってきてくれ」


羽菜の胸がざわめき、急いで服を着る。

桐谷静江は高齢で、ちょっとした病気でも危険だ。すぐに準備を終えて部屋を出た。


月城は中庭でタバコを吸っていた。


「申し訳ありません!お先に戻らないと。おばあちゃんが入院したの」


月城はタバコをもみ消し、「わかった。一緒に行こう」と返す。


数時間後、車は市内へ到着。

月城と別れて、羽菜は島田とボディーガードを連れて病院の最上階のVIP病室へ急ぐ。


エレベーターを降りて角を曲がると、窓辺でタバコを吸っている智也の姿が目に入った。

背筋がすっと伸び、群衆の中でもひときわ目立つ存在感だ。


羽菜が声をかけようとしたとき、甲高い「智也!」という声が響く。

非常階段から女性が駆け寄り、智也の腰に抱きつき、頬を背中に押し当てる。


「おばあさまが入院したって聞いたから、急いで様子を見に来たの!」


華やかで、どこか甘やかされた雰囲気の美しい女性――有栖川玲奈だ。


羽菜の胸に重い痛みが広がり、足が床に根を張ったように動けなくなる。


島田が慌てて叫ぶ。「社長、奥様が戻られました!」


智也は玲奈の手を自分の腰からそっと離し、羽菜の方へ歩み寄る。

「着いたなら一報してくれればよかったのに。迎えに行けたのに。」


羽菜は何も言わず、冷たい視線を一瞬だけ彼に向け、重い足取りで病室へ向かう。


部屋の中では静江がツバメの巣を食べていた。

羽菜の姿を見つけて、目を輝かせる。「羽菜、久しぶりね。智也が出張だと言っていたけど?」


きっと智也が作った言い訳だろう。

羽菜は微笑み、痛む心を抑えて怪我した手を背中に隠す。「お祖母様、体調は少し良くなりましたか?」


静江はため息をつく。「もう歳だからね、少し風に当たっただけでもすぐダメになっちゃう。こっちに来て顔を見せて。」


羽菜はベッドのそばに腰掛ける。

静江は彼女が手を後ろに隠しているのに気づき、手を引っ張る。

「どうして手を隠してるの?」


「大丈夫です。」羽菜は思わず手を引っ込めるが、結局引き出されてしまう。


静江は羽菜の左手に添え木が巻かれ、四本の爪が紫色に変色しているのを見て、息を呑む。

「一体どうしたの、その手は?」


羽菜は落ち着いた口調で答える。「少し前に盗掘師と揉めて、その男は捕まったけど、妹が復讐に来たんです。」


静江は怒りに震えた。「盗掘師ごときが、桐谷の家の人間に手を出すなんて、命知らずもいいところよ。どういうことか、きちんと話して。」


羽菜は事の経緯を説明した。


静江はしばらく考え込み、やがて口を開く。

「その日、智也も現場にいたわよね。相手はあなたのことを知らないはず。でも、智也のことは調べられる。普通の盗掘師の妹が、こんな大胆に仕返しに来るなんておかしいわ。」

静江はふと扉の方を見やって、意味ありげに言葉を続ける。

「きっと誰かにそそのかされて、駒にされたのよ。」


羽菜は静江の視線を追い、有栖川玲奈がそこに立っているのを見つめた。



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