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冷徹公爵の契約妻 ~愛なき政略結婚のはずが、独占溺愛されております~
冷徹公爵の契約妻 ~愛なき政略結婚のはずが、独占溺愛されております~
ゆる
異世界恋愛ロマファン
2025年07月02日
公開日
2.2万字
連載中
「愛などいらない。ただ、公爵夫人として振る舞え」 冷酷と恐れられる公爵カスパルとの政略結婚―― それは、王家の庶子として生まれたキャサリンに課せられた“義務”だった。 契約結婚。感情は不要。ただの形式。 そう割り切っていたはずなのに、彼の不器用な優しさや、ふとした瞬間に向けられる熱い視線が、キャサリンの心を揺らしていく。 だが、彼女を蔑んできた異母姉や、かつての王太子婚約者たちが再び手を伸ばし始めたとき、 「ただの契約妻」としての立場は、揺らぎ始める。 王宮に渦巻く陰謀、暴かれる真実、そして―― 「契約なんて、とうにどうでもいい。お前はもう、俺のすべてだ」 これは、愛を知らなかった令嬢が、 氷の仮面をかぶった公爵に“ただ一人の妻”として愛されるまでの物語。 すれ違いから始まる、甘く切ない溺愛ラブロマンス。 すべてのざまぁを越えて、二人は本当の愛に辿り着く――

第1話 愛なき政略結婚

 目の前に広がる重厚な宮殿の造りを見つめながら、私は無意識に唇を噛みしめていた。何度見ても慣れることのない、その王宮の冷たくも威厳ある姿。

 父王の正室の血を引かぬ娘――私はそういう立場だ。母は平民出身で、王都の小さな店で働いていた女性だったという。母が私を産んですぐに亡くなり、父王は「自分の娘」であることこそ認めてはくれたものの、公的には私の存在を厄介者として扱っている。それでも、貴族の格式を与えられたのは王族の“体面”を守るため。異母姉であるメレディス王女や、王宮で私をよく思わない大臣たちは、いまだに私を「平民の娘」と蔑み続けてきた。


 その結果、私は王族に名を連ねるにもかかわらず、まるで影のように扱われてきた。王宮の様々な行事には声をかけられないことが多かったし、たまに呼ばれれば「飾り」「華やかさの脇役」として無理矢理参加させられる。何か問題が起これば、真っ先に責められるのは私――そんな扱いにはもう慣れてしまった。

 けれど、今日ばかりは慣れるわけにはいかない。私は今から、“政略結婚”の話を受け入れるかどうかを正式に問われるために、この王宮へ呼び出されたのだから。

 断るという選択肢は、おそらく存在しない。私に拒否する権利があればどれだけ楽だっただろう。だが、父王はすでに「明日の式典で婚約を発表する」と言っているらしい。私自身がその話を直接聞いたわけではない。けれど、信頼のおける侍女がそう耳打ちしてくれた以上、ほぼ間違いなく決定事項なのだろう。

 私は一度深呼吸をして、王宮の中へ足を踏み入れた。左右に控える衛兵たちは、私の姿をちらりと見るだけで何も言わない。そもそも私が来ることは、すでに連絡が行き届いているはずだ。大広間へ向かう廊下はいつにも増して静かだ。派手な装飾が施された窓から差し込む光のせいで、豪奢な赤い絨毯がやけに煌びやかに見える。


 私が大広間の扉に近づくと、護衛の騎士が慌てて扉を開いた。

「キャサリン様、お入りください」

 聞き慣れたその言葉に、私は微かにうなずく。まるで自分がまったく別の人間になったかのような気分で、静かに扉をくぐった。

 そこには、すでに父王と、私の異母姉であるメレディス王女、そして王太子アルノルト殿下の姿があった。王太子――つまり、正妻の血筋を継ぐ兄とも呼ぶべき存在だが、私には「兄」と呼べるほどの情など、どこにも感じられない。

 父王は私を見下すように視線を送る。メレディス王女とアルノルト王太子は、私を見るや否や鼻を鳴らし、蔑むような眼差しを隠そうともしなかった。

「キャサリン、遅かったな。何をしておった?」

 と、父王が低い声で言う。

「特にお待たせしたつもりはございませんが……早朝に通達を受け、急いで参りました」

 私がそう答えると、メレディスがふっと嘲るように笑みを浮かべた。

「あなたのような者が少々遅れたところで、誰も気にしないわ」

「メレディス、おやめなさい。今日呼んだのはそのようなことを言うためではない」

 父王が視線だけでメレディスを黙らせる。だが、その言葉には娘をいさめる愛情など欠片も感じない。ただ、無駄口をたたくなと言わんばかりだ。

「キャサリン、お前には今から大事な話をする。すでに耳にしたかもしれんが、お前は公爵――カスパル・フォン・アイゼンハルトと婚約することが決まった」

 予想していた言葉ではあった。が、胸が押しつぶされそうな苦しみを覚えるのを止められない。この国で「フォン・アイゼンハルト」の名を知らない者はまずいない。

 大国アデリシアの領主にして、軍事・政治ともに強大な力を持つ一族。その現公爵カスパル・フォン・アイゼンハルトは特に“冷酷無慈悲”と噂されている人物だ。若くして公爵家を継ぎ、数多の戦功を挙げ、王国内で絶大な影響力を持つ――そんな男と、私が政略結婚をする。

「公爵はわが国にとって重要な存在だ。お前も理解しておるだろう? そして公爵は、後ろ盾として王家の血筋を求めている。……それがお前の役目だ」

 父王が淡々と続ける。私はただ俯くしかできない。

 役目――つまり、私は形だけの「王家の娘」として、彼の妻という地位を提供する役目なのだ。血統証明書のようなものであることは、いやというほど分かっている。私自身に思い通りの生き方など、もとより許されてはいない。

 だからと言って、まさか“あの冷酷公爵”に嫁がされるとは……。もちろん、彼との婚姻によって私が得られるものなど何もない。むしろ、私の存在が公爵の名声に見合わないと反発する貴族は多いだろう。実際、周囲の目は厳しい。

「ふふ、よかったじゃない、キャサリン。あなたなんて誰も欲しがらないかと思っていたけれど。公爵家は少し物好きね」

 メレディスが耳障りな声で言う。横でアルノルト王太子も皮肉げに笑った。

「まったく、驚きだよ。あの公爵が、平民の血を引く者を妻に迎えるとはな」

 まるで彼らは私がここにいないかのような口ぶりだ。何を言われても、反論する権利も許されないのはいつものことで、慣れているはずなのに、どうしようもなく悔しさがこみ上げる。

 それでも、私は歯を食いしばって耐えなければならない。ここで口を挟めば、即座に「無礼者」と罵られ、さらに立場が悪くなるだけだ。父王が口を開く。

「明日の夜会で正式に発表する。その場にカスパル公爵も出席することになっている。――いいな?」

「……はい」

 そう答えるよりほかに手立てはない。私がそっと視線を上げると、王太子とメレディスは明らかに「どうせすぐ離縁されるだろう」などと言いたげな表情で、私を見下ろしていた。

 その冷たい視線を浴びながら、私は大広間を後にする。なるべく足音を立てないよう、しかし急ぎ足で――この場に長居すれば、さらなる侮蔑の言葉を浴びせられるに違いないからだ。


 王宮の廊下を抜け、私が自室へ戻ろうとすると、待ち伏せをしていたのは侍女のエミリーだった。

「キャサリン様、大丈夫ですか? 皆様がお集まりだと聞いたので、きっと――」

「ありがとう、エミリー。……予想はしていたけれど、やはり政略結婚の話だったわ」

 とぼとぼと歩きながら答えると、エミリーが申し訳なさそうに目を伏せる。

「やはり決まってしまったのですね。あの冷酷公爵とのご結婚……。噂では、とてもお優しい方ではないと……」

「ええ、私も噂程度しか知らないけれど。こうして決まったからには、覚悟するしかないわ」

 強がりでなく、本当にそう思うしかないのだ。慌てて荷造りをして逃げ出したところで、行き場などないに等しい。王家があれほど強大な公爵家に自分の娘を嫁がせるという意思を示した以上、私には逆らえる道はない。

「それに……明日の夜会で正式に発表するそうよ。どうにか準備をしなくてはいけないわね」

「はい。ドレスなど、急ぎで仕立てをやり直します。キャサリン様にはもっと華やかに――」

「そこまで派手でなくていいわ。きっと私は、ただ場を繋ぐための背景装飾に過ぎないもの。ドレスはあるもので十分よ」

「ですが、キャサリン様……」

「大丈夫よ。ありがとう、エミリー。気持ちは嬉しいわ」

 そう微笑むしかなかった。実際、豪華絢爛なドレスを身にまとったところで、王太子やメレディスはまた鼻で笑うに違いない。もともと母の血を引く私など、どれだけ着飾ろうと「偽物の王女」扱いなのだ。それに、何よりも出費に見合うだけの効果があるとも思えない。

 私は自室に戻り、エミリーにお茶を淹れてもらうと、深く椅子に腰を下ろした。頭を抱えるようにして、しばし目を閉じる。たかが政略結婚――されど、一度結婚すれば人生が大きく変わるのは自明だ。

 カスパル・フォン・アイゼンハルト公爵。私はその名を何度か耳にしたことがある。厳格、冷酷、無慈悲……とにかく怖ろしい噂ばかりだ。戦場においては天才的な指揮能力で数々の勝利を収め、周辺諸国からは「闇の公爵」とさえ呼ばれる。

 そして、容赦なく敵を粛清するのみならず、味方であっても不正を働けば手加減しないという。彼は王家に忠誠を誓っているわけではなく、どちらかと言えば自国を護ることを優先する――そんな姿勢であるらしい。

 なぜそのような人物が、私のような半端な王族を選ぶのだろう。……まさかとは思うが、何か別の企みがあるのではないか、と考えてしまう。私を王家の正統なる子女と見なすためには、かなり強引な手続きも必要だろうし、私に“絶対的な権威”など備わってはいない。

 しかし、だからこそ利用価値があるのかもしれない。たとえば、王家の本流を妻としたなら、かえって公爵家としても息苦しい立場になる可能性がある。けれど私のような庶子――いわば「立場の弱い王女」を迎えれば、公爵は私を完全にコントロールできるかもしれない。

「……馬鹿らしい」

 自嘲するように呟いた。どんな思惑があろうと、私はただ従うしかない。だからこそ、こうして父王や王太子の命令に逆らわずにいるのだ。

 エミリーが心配そうに私の表情をうかがっているのに気づき、私は慌てて笑みを作った。

「ごめんなさい、考え事をしていただけよ。……それよりも、夜会の準備をしましょう。ドレスは前に作った淡いブルーのあれを使うわ。アクセサリーだけは少しだけ華やかにして、それで十分よ」

「かしこまりました。……キャサリン様、あまり無理をなさらないでくださいね」

 エミリーはそう言って一礼すると、部屋を出ていった。私は残された部屋の静寂に耐えかねるように、そっと立ち上がる。

 今夜は眠れるだろうか。明日の夜会が、私にとっての運命を決定づけるのだと思うと、胸の奥がずきりと痛む。薄暗い夕闇が窓外に広がり始めるのを眺めながら、私はただ、自分の人生が大きく動き始めたことを予感していた。


夜会の幕開け


 そして翌日――。

 王宮の広大な舞踏会場には、これでもかというほどきらびやかな装飾が施され、人々の華やかな笑い声が響いていた。王宮主催の夜会は貴族にとって一大イベント。特に今日は「新たな縁組の発表」があるらしく、多くの貴族や外交官が招かれている。

 私は、淡いブルーのドレスに身を包み、エミリーに整えてもらった髪型を何度も手鏡で確かめる。華美すぎず、かと言って質素すぎもしないように――その絶妙なバランスは、エミリーのセンスに助けられている。少なくとも、恥をかくような格好ではないと思いたい。

「キャサリン様、お綺麗ですよ。すごくよくお似合いです」

「ありがとう」

 エミリーの言葉に、私はぎこちなく微笑む。綺麗かどうかはともかく、この夜会で私は「公爵の婚約者」として正式に紹介される予定だ。もともと注目度の高いイベントだから、きっと多くの視線が私に向けられるだろう。嬉しいよりも、怖いという気持ちが大きい。

 舞踏会場の扉が開け放たれ、私の名前が呼ばれる。宦官が恭しく私を招き入れ、私はまるで突き刺さるような人々の視線を感じながら、静かに歩みを進めた。

 会場中央では、すでに王太子アルノルトとメレディスが私を待ち構えている。父王はまだ姿を見せないようだ。どの道、形式上の主催者である王太子が采配を振るうのだろう。

「キャサリン・モンロー殿下のご入場!」

 宦官の声が響き渡る。私に殿下という敬称が使われるのは、王族としての体面を保つためだけ。多くの貴族たちが、形ばかりの敬意をこめて礼をしてくる。私は浅く会釈で返す。

 すると、一瞬だけ場がざわついた。何事かと思えば、会場の奥に見慣れぬ姿があったのだ。いや、実際には“見たことがある”気がする。黒髪を短く整えたその男は、理知的な顔立ちをしているがどこか冷たく、鋭い眼光を放っていた。

 私の視線に気づいたのか、男はほんの少しだけ頭を下げる。それは他の貴族たちがこちらへ示す礼儀というより、もっと端的に言えば「軽い挨拶」に近い仕草だった。

(……もしかして、あの人が……)

 そう、彼こそがカスパル・フォン・アイゼンハルト公爵なのだろう。黒を基調とした装いは地味と言えば地味だが、それでも圧倒的な存在感がある。その長身と鋭い眼差しだけで周囲を威圧するような雰囲気。

 一瞬にして空気が変わった。会場の誰もが息を呑み、道を開ける。――彼がゆっくりと歩み寄って来るのを、私は身動きひとつ取れないまま見つめることしかできない。

 ようやく私の目の前で彼が足を止めると、その場において最低限の礼をとる。

「はじめまして、カスパル・フォン・アイゼンハルトです。あなたがキャサリン・モンロー殿下――でよろしいですね」

 低く落ち着いた声。その語尾には、微かな冷たさを感じる。でも、その冷たさが嫌味に感じるわけでもなかった。ただ、近寄りがたい印象を一層際立たせているように思える。

 私は慌てて答える。

「はい……キャサリン・モンローと申します。本日はお目にかかれて、光栄です」

 震えを隠しきれずに頭を下げると、「そうですか」と短い返事が返ってきた。まるで定型文のように無機質な響きだった。

 だが、その直後――。

「……あなたの噂は、いくつも耳にしていましたが」

 そう口火を切ったのは、すぐ隣に立ったアルノルト王太子だ。にやりとしたその表情には、明らかな悪意が滲んでいる。

「公爵ともあろう方が、わざわざ王家の庶子を妻に迎えようとは驚きです。――本当にそれでよろしいのですか?」

 まるで私など“まともな価値を持たない存在”だと公の場で宣言するかのような、その言い方。私は内心で怒りと屈辱を覚えながら、ぎゅっと手を握り締める。

 けれどカスパル公爵は、まるで気にしていないように見えた。ただ淡々と、「問題はない」と言わんばかりの口調で告げる。

「お言葉ですが、殿下。私は王家の正統性だとか、血統の濃さだとか、そういったものに左右されるつもりはありません。私にとって最も重要なのは、私が必要とする“契約”を満たせる相手かどうか。――そういうことです」

「契約、ですか。なるほど、公爵らしい表現ですね」

 王太子は皮肉たっぷりに笑うと、ちらりと私の顔を見下ろす。まるで、これから起こることを楽しむかのような表情だ。

 王太子は続ける。

「しかし、公爵。私どもとしては、あなたの求める条件が本当にキャサリンで満たされるのかどうか、非常に疑問です。なにせ“庶子”ですからね。王家とは名ばかりで、活用できるものがあるのか、私にも分かりかねますが」

 嫌な沈黙が落ちる。私は必死に下を向いてやり過ごす。だが、その静寂を破ったのは意外にもカスパル公爵の落ち着いた声だった。

「殿下は余計なご心配をされるのですね。しかし、すでに私と王家の間で取り決めは成立していると伺っております。それとも、今になって“やはりこの縁談は取り消し”と仰るおつもりですか?」

「いえ、そんなことは。父上――国王陛下が決めたこと、私が覆す権限はありません。私はただ、公爵のためを思ってアドバイスを差し上げているだけですよ」

 王太子が白々しく首を振る。メレディス王女は隣で口元に扇を当て、楽しそうにくすくす笑っている。

(本当に最悪……)

 その場に立ち尽くす私には、どうすることもできない。皆の視線が突き刺さるようで、居たたまれなくなる。それでも、私にはこの場で取り乱すわけにはいかない――王家の娘として最低限の体面を守らねばならないのだ。

 すると、カスパル公爵は静かに私の方へ向き直った。そして、ごく自然な動作で私の手を取り、すっと持ち上げる。驚いて顔を上げると、カスパル公爵がその冷たげな瞳をわずかに伏せて、手の甲に口づけを落とした。

 その場の貴族たちが、どよめきにも似た小さな息を飲む気配を見せる。こんなにも人前で丁重に振る舞う公爵の姿は、滅多にないということかもしれない。

「キャサリン、だね。私の“契約相手”として迎えるのに、相応しい女性だと確信しているよ」

 彼がそう言ったかと思うと、その言葉はまるで場の空気を凍らせたかのように響く。私は唇をきゅっと噛み、自分でもどう応じればいいのか分からずにいた。

「……よろしくお願いいたします」

 どうにかそう答えると、公爵は私の手を離し、再び王太子へ向き直る。

「ご心配なく。私は、自ら選んだこの縁談を後悔するつもりはありません。――では、失礼」

 短く言い放ち、そのまま場の隅へと去っていく公爵。その冷徹な横顔には、私への興味が感じられないほどの静けさがあった。

 しかし、不思議と私は、その手の温もりをまだ感じていた。ほんの一瞬触れたわずかな時間だったが、あの冷酷公爵も人肌の温かさを持っているのだと知り、心のどこかがざわつく。

(あれはただの礼儀……それとも、王太子への牽制?)

 考えたところで答えは出ない。少なくとも、彼が私に特別な感情を抱いているわけではないのだろう。私は心の中でそう言い聞かせる。けれど、あのわずかな仕草に救われた気持ちがあった。どうしようもない侮蔑の視線を浴び続ける中で、ああいう形でも“妻として扱われた”という事実は、私の中で小さな安堵をもたらしたのかもしれない。


孤立と戸惑い


 夜会はその後、いつものように音楽と舞踏で続いていった。多くの貴族たちが社交に興じる一方、私はアルノルト王太子やメレディスがいる中心からは少し離れた場所で、ぽつんと立ち尽くしていた。

 誰も私に近づいてこない。あるいは、好奇の視線を遠巻きに投げかけては、ひそひそ話をしている貴婦人たちもいる。

「おや、あなたが噂の“庶子の王女様”かしら? 公爵さまも物好きねえ」

 聞こえるように言われても、私は抗議できない。口ごたえなどすれば「平民の血が騒いだのか」などと侮蔑されるのは目に見えている。これまでもずっとそうだった。今日からも、きっと変わらないのだろう。

「キャサリン様……」

 そっと近づいてきたのはエミリーだ。私が休憩用の椅子に腰かけると、小声で心配そうに話しかけてくる。

「公爵様は、あれからずっと別室にいらっしゃるようですわ。誰ともほとんど話しておられないみたいで……」

「そうなの……? まあ、あの方らしいわね。あまり華やかな場は好かないのかしら」

 私は息を吐く。彼が私の夫になるのだと思うと、何もかもが遠い出来事のように感じられる。

 そのとき、メレディスと目が合った。彼女は王太子と連れ立ってこちらへ歩み寄ってくる。あからさまに悪意を含んだ笑みを浮かべたまま、私を見下ろすようにして言った。

「おめでとう、キャサリン。あなたもようやく嫁の貰い手が見つかったのね。これで王宮から出て行ってくれるなら、私たちも助かるわ」

「……ええ。私も心からそう思います」

 波風を立てないように、私は静かに返事をする。

「まあ、口答えひとつしないなんて。やっぱり平民の娘は従順なのね」

 彼女が嘲るように笑うと、隣のアルノルト王太子が続けた。

「ひとまずは祝福しておくよ。――だが、あの公爵もいつまでお前と添い遂げるか分からない。万が一、離縁されて泣きついてきても、我々には関係のない話だ」

 わざわざそんなことを言うために来たのだろうか。私は胸の奥に怒りが燃え上がるのを感じるが、何とかそれを押し殺す。

「ご心配なく。私は離縁されないよう精一杯努めるつもりです。――あの方が何を望んでいるのかは、まだ分かりませんが」

 ひどく皮肉めいた言い方になってしまったが、メレディスは「ふん」と鼻を鳴らして踵を返した。王太子も私を忌々しげに一瞥して、何も言わずに去っていく。

 その背中を見つめながら、私は思わず悔しさに唇を噛む。いつもながら、彼らの高慢さには慣れたはずなのに、どうしてこんなに胸が痛むのだろう。

 自分の心が弱いせいなのか、それとも、今後の人生をさらに厳しい環境で生き抜かなければならないからか。分からない。ただ一つ言えるのは、私にはもう帰る場所が王宮以外になく、そして王宮からも実質的に追い出される形で公爵家へ嫁ぐのだということ。

 この夜会が終われば、私の生活は大きく変わる。そう思うと、ただでさえ辛いこの場所が、ほんの少しだけ懐かしくも感じられた。


予想外のエスコート


 しばらくして、夜会は舞踏の時間に入った。貴族の男女がペアを組み、優雅に舞台中央を旋回している。私にはまったく縁のない時間――そう思い、会場の隅でじっとしていた。

 ところが不意に、低い声が耳元で聞こえた。

「踊らないのか?」

 驚いて振り向くと、そこにはいつの間に戻ってきたのかカスパル公爵が立っている。近くで見ると、やはり大柄で、その端正な顔立ちがさらに鋭利さを際立たせているように見えた。

「公爵様……。いえ、私はその……」

 まさか踊りましょうと誘われているのだろうか。だが、私のような者が公爵と踊るなど、皆の噂の種になるに違いない。いや、もうすでに婚約者である以上、その程度は仕方のないことかもしれないが――。

「一度くらいは踊っておけ。――公爵夫人になるのだろう?」

 淡々とした声に、私は思わず胸が高鳴る。嫌だとか嫌いだとか、そういう否定的な感情ではなく、ただ彼の存在に圧倒されているのを自覚してしまう。

「……はい。わかりました」

 私は小さく頷き、彼の差し出す手を取った。

 そうして、私たちは多くの貴族が踊る舞踏の輪の中へゆっくりと入っていく。周囲の視線が集中しているのを、ひしひしと感じた。私は舞踏のステップを覚えてはいるが、王宮の舞踏会へ積極的に参加してこなかったから、うまく踊れるかどうか不安でいっぱいだ。

 しかし、カスパル公爵は私をリードする手つきが非常に自然で、私はつまずくことなく彼の動きに合わせられた。静かな旋律に合わせて、優雅にステップを刻む。

 公爵と目が合うたびに、私は自分でも分かるほど胸が高鳴る。無表情に近い彼の顔にはほとんど感情が浮かばないが、時折、ほんの一瞬だけ視線が優しげに揺れたような気がして、心臓がドキリとする。

「あなたは……どうして私を選んだのですか?」

 思わず口をついて出た言葉に、公爵は薄く眉を上げた。

「“選んだ”とは?」

「だって、王家にはメレディス王女やアルノルト王太子の妹君もいらっしゃるし、貴族の令嬢だってたくさんいるのに。わざわざ庶子の私を妻に望むなんて、普通に考えれば不自然だと思います」

 私がそう言うと、公爵は小さく息をつく。

「それは……そうだな。おそらく、あなたは王家にとっての正当な“宝”ではない。その分、余計な争いを生まなくて済む」

「争い、ですか?」

「ええ。私は王家そのものに深く取り込まれるつもりはない。かと言って、公爵家の正当性を疑われるのも望ましくない。――要するに、あなたが一番“都合がいい”立場だということだ」

 やはり。私が思っていた通り、私は“契約”のための駒なのだ。薄々分かってはいたが、面と向かって聞かされると、胸が痛む。

 だが、彼の口調はどこか淡々としすぎていて、私への侮辱というよりは、単純な事実として受け止めろと言わんばかりの冷静さだった。

「それでも構いませんか?」と、私は重ねて問いかける。

 彼は踊りのステップを続けながら、視線を私の瞳に絡めて答えた。

「構わないさ。お互いに、それしか道がないのだから。あなたと私――どちらも、妥協するしかない立場だろう?」

 言い返せない。その通りなのだから。私は王家から“お荷物”扱いされる存在で、行き場がない。彼は彼で、自分の権力を守り通すために、王家を適度に牽制する必要がある――そんな思惑が一致したからこそ、こうして婚約が成立したのだ。

 少なくとも、私は彼の言葉からわずかな誠実さを感じた。下手に「愛している」「あなたが欲しい」と甘い言葉を囁かれるよりも、よほどましだ。偽りの愛情をちらつかせて私を利用するより、はじめから「契約」だと明言している分だけ正直と言える。

 曲が終わり、私たちはそっと距離を離す。周囲からは拍手が起こったが、その多くは公爵への畏敬や好奇心からだろう。私に向けられた賞賛ではない。

 彼は私から手を離し、短く言う。

「そろそろ失礼する。……あなたも早めにお引きあげを」

「ええ。お疲れさまでした」

 そのまま私を置いて、足早に会場の外へ向かう公爵。まるで、義務を果たしたからもう十分だと言わんばかりだ。

 私はその背中を見送りながら、複雑な思いを抱いた。どこか冷ややかでありながら、不思議と不快ではない。あれほど怖ろしく思えていた公爵の存在が、こうして少しだけ身近に感じられたような、そんな錯覚にも似た感情。

「キャサリン様……」

 近づいてきたエミリーが、さきほどの二人の舞踏を見ていたのか、うっすらと涙を浮かべて私に微笑んだ。

「とてもお美しかったです。公爵様も、思ったよりお優しそうに見えました」

「そうかしら……。ありがとう、エミリー」

 優しいと言い切れるかは分からないが、少なくとも私に暴言を浴びせるような人ではなさそうだ。

(――この結婚で、私は幸せになれるのだろうか)

 自問自答するも、答えは見つからない。

 ただ、私はもうすぐ公爵家へ嫁ぎ、彼の妻という立場を与えられることになる。そこに愛情はなくとも、少なくとも彼は私を“契約相手”として扱ってくれるだろう。

 愛など求めない――そう自分に言い聞かせていたはずなのに、さきほどの手の温かみや、一瞬だけ見せた視線の柔らかさが、私の胸を締め付ける。

 私は目を伏せ、胸の奥に芽生えそうな小さな期待を、必死に押し殺した。


この夜が明けるとき


 夜会はその後も続いたが、私はエミリーとともに早々に退席することにした。公爵も姿を消しているし、私がこれ以上ここにいても、王太子やメレディスに嘲笑されるだけだ。

 廊下を歩きながら、ふと窓の外を見ると、夜空に浮かぶ月があまりにも静かで、そして美しかった。これまで何度も見てきた夜の風景と同じはずなのに、今日はどこか違って感じる。

 私の人生は、これから否応なしに変わっていく。今までは王家の庶子として、半ば放置されながらも、なんとかここで生きてきた。けれど、近いうちに私は“公爵夫人”として、まったく異なる世界に足を踏み入れるのだ。

 王宮を出れば、もう戻ってくることはないだろう。父王や王太子、メレディスも私を歓迎はしないし、私も戻りたいとは思わない。

 ……それで、本当にいいのだろうか?

「キャサリン様、足元がおぼつかないですよ……大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫。少し考え事をしていただけ」

 私は自分を支えるようにしてくれるエミリーに微笑む。この子だけが私の理解者だ。私が公爵家へ行くときも、一緒に連れていけるよう願うばかりだ。

 その晩、私が部屋へ戻った後も、頭の中はカスパル公爵のことばかりだった。冷たい瞳に潜む何か、淡々とした言動の裏にある真意。彼が「王家に忠誠を誓うため」などではなく、あくまで自分の“契約”のために私を選んだという事実。そして、手を取ったときに感じた、思いのほか優しいリード。

(どうか、私をあなたの都合だけで切り捨てたりしないでほしい。私はもう、逃げ場がないのだから……)

 そんな弱々しい祈りを胸に抱きながら、私は重い瞼を閉じる。寝台に横たわっても、しばらくは眠れなかった。

 王宮での最後の夜。まるでこれが静かな別れの前夜であるかのように、月の光だけが私を照らしていた。





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