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第2話 夫の秘密と周囲の裏切り

一、新たな住まいと孤独


 王宮での夜会からほどなくして、私は正式に公爵家へ移り住むことになった。大々的な式典は行われず、最低限の婚礼の儀式を終えただけ。それでも、それは私が「カスパル・フォン・アイゼンハルト公爵の妻」という新たな立場を得たことを示す、大きな転機だった。


 公爵邸はその名に違わぬ広大な屋敷で、敷地には広い中庭や厩舎、離れの建物までが整然と配置されている。石造りの主館に足を踏み入れたときは、その重厚な雰囲気に圧倒されるばかりだった。

 私が目にしてきた王宮も華麗で立派だったけれど、こちらにはまた別の威圧感がある。館の色調はやや暗めで、壁の至るところに先祖代々の肖像画や、戦勝を記念した絵画・紋章が飾られていた。吹き抜けの大広間は天井が高く、窓から差し込む陽光が床を照らしているものの、どうしてか少し寒々しく感じる。

 「公爵夫人の部屋」として与えられたのは、館の中央部に位置する、広々としたスイートルームだ。大理石の暖炉に、薄紫色のカーテン、柔らかな絨毯。豪華すぎて畏れ多い気持ちになるが、妙に生活感が薄い。以前にも公爵に妻がいたわけではないはずだから、この部屋はずっと空き部屋だったのだろうか。

 そう思うと、私は自然と心細い思いに襲われた。王宮で暮らしていたころは「庶子」である私を見下す者も多かったけれど、同時に世間話くらいは交わす侍女や女官がいた。何より、毎日の生活サイクルには慣れていた。

 しかし、公爵邸での暮らしは勝手がまるで分からない。使用人の数は相当いるはずなのに、皆どこか遠慮がちで、私に必要最低限のことしか話してこない。誰もが「公爵様の意向」を気にしているのだろう。私はその理由を聞くこともできず、長い廊下を歩き回りながら、中庭に面した窓辺でぼんやりと外を眺める時間が増えていった。


 とりわけ、いちばん心細く感じるのは――私の夫であるカスパル・フォン・アイゼンハルト公爵と、ほとんど顔を合わせる機会がないことだ。

 あの夜会の日、彼は社交の場でも極力人と交わらないように見えたし、私に対しても「必要なとき以外は出席しなくていい」と言い放った。実際、婚礼の日も儀式が終わればそれで充分と言わんばかりに書斎へ引きこもり、それきり。

 「そんなに忙しいのだろうか」

 私が侍女のエミリーに小声で漏らしても、彼女は申し訳なさそうに目を伏せるばかり。

「公爵様は軍務や外交、領地経営にも携わっておられると聞きます。ご先祖様が築き上げた広大な領地を支えるお仕事は、想像以上に大変なのでしょう。……でも、もう少しだけ奥様とお話ししてくださってもいいのに、ですね」

 言いながら、エミリーは私の新しいドレスの裾を整えてくれる。そう、ドレスや装飾品など、“夫人としての体裁”を取り繕うための準備だけはやたらと念入りにされるのだ。公爵が出費を惜しんでいないのは分かる。けれど――

(きっと、公爵にとって私は“必要な駒”に過ぎないのだろう)

 そう自嘲するように考える。まだ新婚のはずなのに、夫婦の会話は皆無に等しい。いくら政略結婚とはいえ、この扱いはどこか異様だ。

 だが、私は王家の庶子。生まれてからずっと、自分の意思など尊重されない人生を歩んできた。ここで公爵に文句を言ったところで、どうにもならない――そう諦めに似た気持ちで自分を納得させるしかなかった。



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二、不可解な束縛


 そんなある日、珍しく公爵の執事から「奥様に、公爵様がお話をしたいと仰せです」と伝えられた。公爵がわざわざ私を呼び出すなんて、初めてのことに等しい。

 緊張混じりの期待と不安を抱えながら、私はエミリーとともに執事の案内で書斎へ向かった。だが、部屋の前まで来ると、エミリーはそこで待機しろと言われる。公爵が「二人きりで話がしたい」と望んだのだろうか。

 重厚な扉をノックすると、低く通る声が返ってきた。

「――入れ」

 失礼します、と言って中へ入ると、部屋には山積みの書類があり、大きな机の向こうで公爵が椅子に深く腰かけていた。棚には法典や地図がずらりと並び、その隣には剣や軍装品まで置いてある。公爵家の“戦の歴史”を象徴するような、無骨な飾り方だ。

 私に気づいた公爵は書類から視線を外し、少しだけ首を傾げる。

「座れ」

 促されるまま、部屋の中央に置かれた応接用のソファーに腰を下ろす。対面には公爵用の椅子があり、彼はそこへ来て手を組んだ。あらためて彼と向き合う形になり、その鋭い眼差しに胸がどきりとする。

「……お話とは?」

 なるべく丁寧に問いかけると、公爵は特に表情を変えず、静かに切り出した。

「王宮との付き合いだが、なるべく必要最低限にしてもらいたい。あなたには私の領地のこと、私の家のことでやってもらうことがある」

「え、ええ。かしこまりました」

 私は頷くが、そもそも王宮との交流など、こちらから積極的に求めるものでもない。メレディスや王太子、あるいは父王の意向で呼び出されることはあっても、私が好んで連絡を取るはずなどないのだから。

 だが、公爵はさらに続ける。

「茶会や夜会への出席の要望が来たとしても、私の許可がなければ行く必要はない。……むしろ、行ってもらっては困る」

「困る……? それは……どうしてでしょう」

 私は素朴な疑問を口にする。すると、公爵の瞳が冷ややかに細められた。

「あなたは王家の娘――とはいえ、庶子だ。私としては“王家に肩入れする意図はない”という立場を示す必要がある。そのためにも、あなたが王宮で余計な動きをしないことが重要だ」

 あまりにも率直な言い方に、私は言葉を失う。確かに私は庶子だが、“公爵夫人”として迎えられた以上、表面上は“王家との縁”がある存在にもなる。だが彼は、王家に利用される隙を断固として与えたくないのだろう。

「……わかりました。ご迷惑をおかけしないよう、気をつけます」

 絞り出すように答えると、公爵は短くうなずいた。

「よろしい。何か不都合があれば執事に言えばいい。――以上だ」

 まるで業務連絡が終わったかのような淡々とした口調。私は「失礼します」と頭を下げ、書斎を後にする。扉を閉める直前、彼が再び書類に目を落とす姿が視界の端に映った。


 そのやりとりからしばらくして、私には奇妙な束縛を感じる場面が増えていった。

 例えば、ちょっとした買い物や散策のために外出しようとすると、必ず公爵の騎士が複数同行する。侍女を連れている程度ならまだしも、屈強な騎士たちが護衛につくなど、私には過剰な気がしてならない。

「か、カスパル公爵様のご命令なのです。奥様がどこかへお出かけの際は、必ずお供するようにとのこと……」

 騎士の隊長は困ったように言うが、これは事実上の“監視”ではないだろうか。私が王宮へこっそり連絡を取ったり、余計な行動を起こさないようにするため――そう考えると、胸が苦しくなる。

 しかも、それだけではない。私がどこかで男性の貴族や商人と言葉を交わしたと耳にすると、公爵はあとで必ず「そいつと何を話した?」と問いただす。もちろん、挨拶程度の世間話に決まっているのだが、彼の表情は不機嫌そのものだ。

 あまりに冷たい口調で詰問されるたびに、私は「公爵は私を疑っているのだろうか」と戸惑いと不安を募らせていく。

(愛ゆえの嫉妬なら、まだ分かる。けれど、この人は私への愛情というより“警戒”しているように見える……)

 私が王家のスパイだと思っているのか、それとも余計な繋がりを恐れているのか――いずれにせよ、これが私の“新婚生活”なのだと思うと、やりきれない気持ちだった。



---


三、異母姉の来訪と元婚約者の出現


 公爵と心を通わせられないまま、日々が過ぎていく。そんなある日の昼下がり。

 執事が慌てた様子で私のもとへ駆け寄り、低声で告げた。

「奥様、王宮からメレディス王女殿下がお越しになりました。正門にてお待ちかねとのことですが……」

「……姉がここへ?」

 思いがけない来訪に、私は驚きを隠せない。メレディスとは王宮時代、顔を合わせるたびに嫌味や嘲笑をぶつけられただけだった。彼女が好意で訪ねてきたわけがない。

 何か嫌な予感がするが、来客を門前払いするわけにもいかない。私は最低限の身支度を整え、応接室へと向かった。

 部屋に入ると、すでにそこにはメレディスが腰かけている。ピンクのドレスを纏い、胸元には宝石を散りばめ、いつものように派手な扇を手にしていた。

「まあ、やっと来たの? 人を待たせるなんて失礼ね、キャサリン」

 私が入るなり、彼女は鼻で笑う。

「ごきげんよう、メレディス。公爵邸までわざわざいかがなさいましたの?」

 社交辞令を込めた挨拶を返しても、彼女は扇で口元を隠しながら、冷たい瞳で私を値踏みするように見つめる。

「あなた、こんな陰鬱な屋敷で暮らして、退屈しない? 噂によれば、公爵様はいつも書斎にこもりきりで、あなたを少しも顧みないそうじゃない」

 またか――と思う。彼女は昔から、人の弱みを突いて楽しむ性格だった。

「お気遣いは無用よ。公爵様のお仕事が忙しいのは最初から聞いていたし、私も別に困っては……」

「ふふ、それはそれは。――でも、退屈しているようなら、私と代わってあげてもいいのよ」

 メレディスはさも愉快そうに微笑む。その意図が分からず、私は眉をひそめる。

「代わる、とはどういう意味?」

「あなたが離縁されることになったら、私が代わりに公爵様のもとへ嫁いで差し上げるってこと。最近、お父様も言っていたのよ。“キャサリンとの縁談、すぐに破綻するんじゃないか”って」

 その言葉に、胸の奥がざわりと震える。確かに、私と公爵の関係は夫婦とは名ばかり。いつ離縁を言い渡されてもおかしくない――そう思われていても不思議はないのだろう。

 それでも私は必死に平静を装い、静かな声で答える。

「ご心配ありがとう。でも残念ながら、今のところそういう話は出ていないわ。公爵も私を追い出すつもりはないでしょう」

「へえ、本当にそうかしら? あの公爵様なら、いつでもあなたを切り捨てられるでしょう? だって、結局あなたは庶子なのだから」

 メレディスの放つ言葉は毒そのものだ。私は唇を引き結び、どうにか抗議の言葉を飲み込む。

「……それで? 公爵邸に来たのは、その話をするためだけ?」

「まあ、他にもいろいろあるけれど、今はこれだけでいいわ。すぐに帰るもの」

 さも興味がないとばかりに立ち上がるメレディス。その動作に合わせ、侍女たちが慌てて扉を開ける。

「あなたがこのまま平穏でいられるのかどうか――楽しみに見物させてもらうわ。もし離縁されたら、真っ先に知らせてちょうだい?」

 言い捨てると、メレディスは高笑いしながら応接室を出ていった。その後ろ姿を見送るしかできない自分が、ひどく情けない。

(何をしに来たの……本当に人を嘲笑うためだけ?)

 ため息をつきながら、私は扇を閉じるような仕草をしていたメレディスの手を思い出す。あれは、いつも王宮で私を嘲笑ってきたときと同じ仕草。――何も変わらない。私が公爵夫人になったところで、彼女にとって私は軽蔑の対象でしかないのだ。


 さらに、もう一人“顔を合わせたくない相手”との再会が続く。

 翌日、突然屋敷にやってきたのは、侯爵家の跡取り息子――ラウル・ウェルナー。私がかつて“形式上”の婚約者とされていた男だ。王家が「庶子の私を少しでも引き取ってくれる先」を求めていた時期に、無理やり決めた相手だった。

 あのときラウルは私に一度も会おうとしなかったし、「庶子の王女とは釣り合わない」と内々に王宮へ申し入れたと聞いていた。ところが私が公爵に嫁ぐことが決まると、すぐに態度を翻して「婚約破棄は自分の意思ではなかった」などと言い出したのだそうだ。

 私は応接室へ案内されてきたラウルの顔を見て、一瞬言葉を失った。彼は儀礼的な笑みを浮かべながら、まるで旧知の仲のように話しかけてくる。

「キャサリン様、ご無沙汰しております。まさか直接お会いできるなんて思ってもいませんでしたよ。……ずいぶん美しくなられたんですね」

 お世辞にも聞こえない不自然な賛辞。私は冷たく目をそらしながら、できるだけ素っ気なく返答する。

「お久しぶりですね。今はカスパル・フォン・アイゼンハルト公爵の妻として、こちらの家に暮らしております。あなたと話すことなどありませんが、どうなさいました?」

 ラウルははじめから敵意を剥き出しにするつもりはないのか、柔和な笑みを保って椅子に腰を下ろす。

「まあ、そう邪険にしないでください。実は……私、ずっとあなたのことが気になっていたんです。王家との縁談は私にとっても突然で、しかもあなたが庶子だなんて、王宮の方々からすれば大きな障害だった。最初から私たちの関係は難しいと思わされていました」

「それなら、あのときにきちんと話してくださればよかったのでは? 結局、私は一度もあなたとまともに顔を合わせることもなく、縁談は立ち消えになりました。……それがすべてでしょう?」

 私の指摘に、ラウルは苦笑を浮かべる。

「まったく、おっしゃるとおりです。しかし、私はあのとき“周囲の反対”に屈してしまった……あなたをちゃんと知ろうとする機会すら得られずに。だけど今、こうして再会できたのだから、今度こそゆっくりお話したいと思っております」

「……再会も何も、あなたとはほとんど初対面に等しいのですけど」

 私は嫌悪感を隠せない。ラウルの言葉の端々から、“私を手に入れ損なった”という悔しさのようなものが匂ってくる。そう――まるで「惜しいことをした」と言わんばかりだ。

 しかも今は、私が「冷酷公爵の妻」になったことで、利用価値が生まれたのかもしれない。彼はそれを狙っているのではないか。

 案の定、ラウルは仄めかすように続ける。

「公爵様とのご結婚、うまくいっているんでしょうか? 噂では、あの方はとても厳格で、奥様を大事にしないとか……。もしあなたが辛い立場にいるなら、私はお力になりたいと思っています」

「お気遣いありがとうございます。ですが、私が困っているかどうかを、あなたに報告する義務はありません。……それに、あなたにできることなど何もないでしょう」

 鋭い口調になったのを自覚しながらも、これだけはきっぱり伝えなければならない。ラウルは一瞬だけ不快そうに目を細めたが、すぐにまた薄笑いを浮かべた。

「なるほど。そんなにも私を拒絶するのですね。――でも、いつでも相談に乗りますよ。もし本当に公爵家で居場所がなくなったときは……私のもとへ来ればいい」

 あまりの厚顔無恥に呆れ果てる。私は膝の上で手を握りしめ、どうにか怒りを堪えて言い放つ。

「これ以上、無礼なことをおっしゃるのでしたら、お引き取りください。私の夫は“カスパル・フォン・アイゼンハルト”です。あなた程度の身の振り方など、とうに把握なさっているかもしれませんよ」

 これが脅し文句になるかは分からない。けれど、ラウルの顔が引きつったのを見て、少し胸がすく思いだった。

「……そうですか。では、今日はこれで失礼いたします。……奥様、どうぞお元気で」

 ラウルは意地でも取り繕うかのように、ぎこちなく笑って立ち上がる。彼が応接室を出て行ったあと、私は大きく息を吐いた。

「はあ……」

 まさかメレディスだけでなく、ラウルまでが「公爵の妻となった私」のもとへ訪ねてくるとは。二人とも私の幸せなど願っていない。自分の目的を果たすための下準備のようなものだろう。

 ベッドに倒れ込みたい疲労感を覚えながら、私はこの屋敷での“孤独”をますます意識する。ここで迎えてくれるのは、穏やかな執事や侍女くらいのもの。私の夫である公爵さえ、私とまともに言葉を交わさない。

 そんな中で、王宮にいたころの嫌な連中だけがどんどんこちらへ押し寄せてくる――まるで嵐の前兆のように、不吉な気配を感じずにはいられなかった。



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四、公爵が抱える闇――王家への復讐心


 その日の夕刻、珍しく公爵が「夕食は一緒に摂る」との伝言をよこした。最近はほとんど別々に食事を取っていたので、私にとっては嬉しい知らせだ。

 食堂へ向かうと、大きなテーブルの中央に上質な燭台が並び、優しい光が食器を照らしていた。いつもより豪華なディナーが用意されており、使用人たちが控えめに私たちを見守っている。

 公爵はテーブルの上座に座り、私が来るのを待っていた。静かに一礼して席に着くと、彼は「さあ、食事を」と短く促す。

 淡々と始まる夕食だったが、会話が途切れる沈黙に耐えかねて、私は意を決して口を開いた。

「……きょう、王宮からメレディスが来ました。それと、ラウル・ウェルナーという人物も」

 その名を聞いた途端、公爵の表情がわずかに変わる。鋭い視線がこちらを射抜くように注がれた。

「ラウル・ウェルナー? 侯爵家の跡取りか。――何の用だ」

「以前、私と王宮が強引に婚約させようとしていた相手です。今になって様子を見に来たようでした。“困ったことがあれば、自分を頼ってほしい”と、妙な下心が透けて見える言葉を並べられましたけれど……もちろん、断りました」

 そう言うと、公爵は短く鼻を鳴らす。

「当然だろうな。……二度と会わなくていい。その男とは話す価値もない」

 きっぱりと切り捨てる口調。そこに怒りの気配すら感じて、私は少しだけ胸が痛む。愛情ではなく、“自分の持ち物に手を出されたくない”という独占欲かもしれない。それでも、私を邪険に扱ってばかりいるわけではないのだな、と気づいてしまう自分がいる。

「メレディス王女に関しても同じだ。王家がどう動こうと、我が家は関係ない……そう伝えればよい」

 公爵が切り捨てるように言うので、私はやや戸惑いながら尋ねる。

「公爵は、どうしてそこまで王家を遠ざけるのですか? 私のような庶子を妻に迎えた理由が、いまだによく分かりません。――本当に、それで得られるものなどあるのでしょうか」

 すると、公爵はフォークを置き、グラスのワインを口に含んだあと、静かに言葉を紡いだ。

「得られるものがあるから、私はあなたとの縁談を受けた。逆に言えば、得られないなら最初からこの話はなかっただろうな」

「それは……どういう」

「簡単なことだ。私は王家に恩義など感じていない。むしろ、祖父の代で“王家の陰謀”に巻き込まれ、アイゼンハルト家は滅びかけたことすらある。その恨みを――忘れたわけではない」

 低く落ち着いた声。それがかえって恐ろしげに聞こえる。私は思わず息を呑んだ。

「王家の陰謀……。そんな話、私は聞いたことがありませんでした。少なくとも父王は……」

 言いかけて、私は黙る。もし事実だとしたら、王家がわざわざ公になるような失態を認めるわけがない。私が知らされなかったとしても不思議ではない。

 公爵は続ける。

「もちろん、今さら“王家に逆らう”つもりはない。そうしても何の得にもならないからな。ただ、こちらを侮辱するような動きがあれば、一瞬で叩き潰す――その構えは常にしている。だから私は、王家と程よい距離を保ちつつ、しかし外交的には協力関係を見せ、内実では干渉させない体制を敷いてきたんだ」

 硬質な響きを帯びた声に、私は身震いする。公爵にとって、私は“表面的な駒”――名目上は王家との繋がりを持つが、正統な王女ではないので、王家側も私を使いづらい。その絶妙な位置づけこそ、公爵に“ほどよい自由”をもたらすのだろう。

 それが彼の真意なのか、と合点がいく一方で、胸の奥に鈍い痛みが走る。

(私は本当に、それだけの存在……?)

 無理にとは言わない。しかし、結婚までして、ただの“契約相手”というのは虚しすぎる。私はしばし黙り込んでしまった。

 すると、公爵が僅かに表情を和らげて言う。

「……あなたに悪いことばかり言っているつもりはない。私としては、あなたが余計な干渉を受けずにここで暮らせるよう、配慮しているつもりだ」

「配慮、ですか?」

「そうだ。王宮にいたころ、お前はずいぶん肩身の狭い思いをしていたのだろう。あの王太子やメレディス王女も、お前を見下してばかりだった。ここでなら、お前が王家に邪魔されることもない。それが何よりだろう」

 ――確かに、そうかもしれない。私は王宮での生活が“幸せ”だったわけではない。メレディスや王太子に嘲弄され、父王にも顧みられず、ひたすらに孤立していた。

 公爵邸での暮らしは、たとえ夫からの愛情がなくとも、少なくとも安全だ。悪意を向けられるどころか、使用人たちはみな私を“公爵夫人”と敬ってくれる。

 けれど、そうやって理屈を並べられるほどに、私は息苦しさを感じてしまう。この人の言葉のどこにも、“優しさ”や“温もり”がないのだ。

「私も……好きで王宮に生まれたわけではありません。今までの人生で、ほとんど愛されることがなかった。公爵にだって求める権利はないと思っていました。……けれど、契約だけの結婚だと言われると、正直、心が痛みます」

 思わず弱音を吐いたのは初めてだった。けれど、公爵は黙って私の顔を見つめるだけ。何を考えているのか、まるで掴めない。

 痛々しい沈黙が落ちる中、私は無理やり食事を続けた。料理の味など分からないほど、胸が苦しくなる。

 どんなに問いかけても、公爵は自分の心の内を開いてはくれない――そう悟らされる夜だった。



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五、ざわつく噂と高まる不安


 それからしばらくして、私のもとに“奇妙な噂”が耳に入るようになった。

 王宮筋や貴族の間で、「公爵が王家に対して反乱の意図を抱いているのではないか」という讒言が広まり始めたというのだ。実際、メレディスやアルノルト王太子が公言しているわけではないが、「公爵は庶子を妻に迎えることで、王家を裏切ろうとしている」「カスパル公爵は軍を動かし、やがて王宮を脅かすだろう」といった根拠のない流言飛語がささやかれているという。

 さらに、それに乗じるような形で「公爵の妻であるキャサリン・モンローは、実はスパイである」とか「公爵が彼女を幽閉している」などの、荒唐無稽な噂まで飛び交っているようだ。

 私のもとに実害が及ぶわけではないが、貴族たちの興味は尽きないらしい。屋敷の使用人たちも、外へ買い出しに行った際に耳にしてくるようで、気味悪そうに報告してくれる。

「奥様、ご不安でしょうが、私たちはどこへ行っても“公爵様と奥様はご健在である”と伝えております。ご安心ください」

 そう言われても、やはり落ち着かない。

(王宮にいたころも酷い扱いを受けてきたのに、ここへ来ても“公爵の策略に利用されている”なんて言われるなんて……)

 実際に利用されていないとは言い切れないだけに、心が波立つ。私が“王家の庶子”だからこそ、公爵には都合がいいのだ――そう公爵本人が言ったのだもの。

 だが、こんな噂が広まれば、公爵と私の立場はますます難しくなるだろう。下手をすると、公爵は王太子や有力貴族から警戒されるかもしれない。王家と公爵家の緊張が高まれば、真っ先に私が疑われて板挟みになる恐れだってある。

 悶々とした日々を送る中、私は夜も眠れぬまま、広い寝室でひとりきりの時間を過ごすようになった。公爵は相変わらず書斎で夜遅くまで仕事をしているか、あるいは王都郊外の領地へ視察に出かけている。――夫婦らしい生活など、形だけだ。

 そんなある晩、私は寝室の窓辺に腰かけ、外を見下ろしながら一人考え込んでいた。

「もし、公爵が本当に王家への復讐を狙っているなら……私はどうすればいいのだろう」

 仮に公爵が反乱を起こすなら、王家に生まれた私が何をすべきか。王家の一員として彼を止めるべきなのか、それとも夫として支えるべきなのか――考えるほどに、頭の中が混乱する。

 気づけば月が高く昇り、夜の静けさに包まれていた。王都の灯りが遠くに瞬くのをぼんやりと見つめ、私は胸をかきむしるような苦しさを覚える。どこにも自分の居場所がないように思えて、涙がこぼれそうになる。

(こんなふうに悩むくらいなら、最初から何も期待せずにいればよかったのに……)

 公爵に愛を求めているわけではない。けれど、結婚する以上は、お互い支え合う関係を築きたいと――そんな淡い願いすら、砂のように崩れていくようだ。

 思わず肩を震わせていると、不意に部屋の扉がノックされた。

「……どうぞ」

 震えた声で返すと、入ってきたのは執事だった。彼は深く頭を下げ、落ち着いた声で告げる。

「奥様、遅い時間に申し訳ありません。公爵様が、明日の朝早くに領地へ向けて発たれます。――もし、お見送りをご希望でしたら、中庭の馬車までお越しになっては……」

「……そう、ですか」

 相変わらず慌ただしい人だ。せめてこの人を見送るくらいは妻としての義務かもしれない。私はハンカチで目元をそっと押さえ、執事に微笑みかけた。

「ええ、分かりました。朝早いのですね? ちゃんと起きて、お見送りします」

 執事は安心したように礼をして、部屋を後にする。私は大きく息を吐いた。心は重いけれど、今は夫婦として“最低限のこと”だけでもこなさなければ――そう自分に言い聞かせるように、寝台へと向かった。



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六、遠ざかる夫――それでも私は……


 翌朝、まだ日が昇りきらない薄明の刻。

 私は侍女に手伝ってもらいながらドレスを纏い、軽く髪を整えて中庭へ出た。すると、もう馬車の前には屈強な騎士たちが何名も待機しており、旅支度を終えた公爵が黒い外套を翻しているところだった。

 私の姿を認めた公爵が、ちらりとこちらを見る。言葉はない。

 私は馬車のそばまで歩み寄り、微かにかすれそうな声を出す。

「おはようございます、公爵様。今日は領地へ行かれるとか……お気をつけて」

「……ああ」

 公爵は素っ気ない返事をしながらも、私の方へ向き直った。うっすらと朝焼けが彼の横顔を照らす。――その眼差しはやはり冷徹に見えるけれど、どこか疲れも滲んでいるような気がした。

「何日ほど留守にされるのでしょうか?」

「領地の視察と書類仕事が山積みでな。少なくとも一週間は戻らない」

「そう……」

 一週間。長いようで、短いようで、しかし私にはとても長く感じられる。もう少し会話を――と思い、私は恐る恐る言葉を継いだ。

「もし……ご負担でなければ、私もご一緒できませんか? 公爵夫人として領地の様子を知るのも……」

 そこまで言いかけて、公爵は首を振る。

「必要ない。あなたが来ても、何の得にもならない。――屋敷でおとなしく待っていろ」

 それはあまりにもきっぱりとした拒絶だった。胸がちくりと痛む。

「……はい、わかりました。お気をつけて、行ってらっしゃいませ」

 返す言葉もなく、私は小さく頭を下げる。公爵はなぜか一瞬だけ逡巡したように見えたが、すぐに顔を背け、馬車に乗り込んだ。

「……行くぞ」

 短い命令とともに、馬車が動き出す。私はその場に立ち尽くし、馬車の車輪が石畳を擦る音が遠ざかるのを見送った。

 いつものことだ。公爵は“無駄な情”を挟まない。彼は私を遠ざけることで、守っているのか、それとも利用するだけで十分だと考えているのか――私にはもう分からなかった。

 こうして、私の夫は私の元を離れ、王都を後にする。私は再び広い屋敷でひとりきりの時間を余儀なくされるのだ。


 しかし、その隙を狙うかのように、王宮やラウル、さらには私を嘲笑する貴族たちが動き出すのは明らかだった。次に訪れる嵐のような出来事に、私は巻き込まれてしまうのだろうか。

 公爵の不在が、私の不安をますますかき立てる。けれど、逃げ場などない。王宮にも帰りたくないし、ここから出て行く場所もない。

 ――それでも、私は公爵夫人として、もう少し耐えてみよう。私がこの家でできることを探し、彼の“契約”を果たしつつ、いつか彼の心に触れられる日が来るかもしれない。

 淡い期待と大きな不安を抱えながら、朝日に照らされる屋敷を振り返る。窓ガラスに映る自分の姿は、心なしか小さく、頼りない。けれど、それでももう戻る道はないのだから――前を向くしかないのだ。



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こうして始まったキャサリンの公爵夫人としての日々は、夫の不在という空虚さの中、周囲の敵意や陰謀にさらされる厳しいものであった。カスパルが背負う「王家との因縁」が示すとおり、二人の関係は政略結婚の枠を超えた複雑さを帯びている。

愛なのか、利用なのか。冷酷に見える公爵の本心はどこにあるのか。

王宮からの干渉、元婚約者や異母姉の策略――そして公爵自身が企むかもしれない“復讐”の行方。

彼女の心はさらに乱されていくが、同時に「ただ従うだけの人生」を終わらせるための決意が、少しずつ芽生え始めていた。



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