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【3-4】ふにゃっと笑えた。

(……普通に銭湯だ)

 中はどこにでもありそうな大浴場だった。手前側に身体を洗うスペースがあり、奥には大きな湯船と壁にはモニターがある。

 大浴場の左側にはサウナがあった。ヒカルはこれまで一度も入ったことがないのだが、なんだかハマると楽しいらしい。

 サウナはいつか試すとしてひとまずは身体を洗わなくては。ヒカルは右目を見られない角度の場所をとり、椅子を引いて洗面器にお湯を溜める。

「あの、ここで洗ってもいいですか?」

 ひとまず髪を洗おうと思ったところで左から声が聴こえてきた。

 右目を見られないようチラッと視線だけを寄越すと、左隣に小柄な美少女が立っていた。ほぼ赤毛の明るい茶髪のおかげで誰だかすぐに分かる。分かるのだが――

(たしか最年少の子だよね? 名前……なんだったっけ)

 またもや名前が出てこなかった。

 ひとまず「どうぞ」とだけ言って美少女を迎え入れ、シャワーで身体と髪を濡らす。

「わたし家族以外の人とお風呂入るの初めてです」

 美少女が恥ずかしそうにはにかみながら申告してくる。

 ヒカルはぎこちない笑みを浮かべながら「そうなんですか」なんて言って適当にお茶を濁す。

「……ヒカルさんってもしかして目悪いですか?」

 シャンプーをぶっかけようとしたところで、美少女がこちらを覗き込んでくる。

 よりによって目のことを指摘された。ヒカルはすぐさま濡れた髪を下ろし、右目を隠す。

「え? そ、そうですか? 全然、そんなことは、ないんですけど……」

「あれ? じゃあわたしのこと見えてますか?」

「えぇ、まぁ……見えてますけど」

「……あれ?」

 美少女がボディソープを塗りながら可愛らしく首をかしげる。

 どうしたのだろうか。なにか不都合なことでもあったのか。

「えっと、どうかしましたか? 私なんか気に障ることでもしちゃいましたか?」

「気に障る……?」

「その、嫌な気分になることとか」

「えっ、全然そんなことないです! ただヒカルさんずっと敬語使ってるからわたしのこと別の人と勘違いしてるのかなぁって」

「あぁ、そういう……」

 美少女が混乱している理由が分かりヒカルはひとまず髪を洗う。

 目をつぶってカシャカシャと腕を動かし、泡立てていく。切るのが億劫で伸ばし続けている髪だが、さすがに面倒になってきた。

「私基本的に誰に対しても敬語なので、その……気にしなくてもいいですよ」

 目をつぶりながら美少女へ聴こえるよう少し声を張る。

「そうなんですか? でもわたしまだ12歳ですよ? 全然大丈夫ですから」

「まぁまぁ、慣れてきたら自然に敬語もなくなると思うので……」

 やんわりと提案を受け流しながらヒカルはぐるぐると思い悩む。

 千倉ヒカルには友達がいない。同世代はもちろん、部活にも入らなかったので先輩後輩の関係もないし、そもそも交流があるのは家族と親戚の叔母だけ。その人たちとだって毎日のように接しているわけではない。

 さすがに家族へ敬語を使うことはないが、それ以外の人達は敬語だ。理由は単純、殆どが初対面だし、敬語を使えば少なくとも初手で嫌われることはないから。

 人に好かれるよりも嫌われたくないヒカルは、いつの間にか誰かと仲良くなる方法よりも、距離をとる方法ばかり――というか、それしかできなくなっていた。

 ゆえに同期だからといって今すぐ敬語をなくして喋るというのは不可能だろう。しかしいつまでも敬語のままだと馴染む気がない奴みたいなレッテルを貼られてしまうかもしれない。

 ヒカルにとってレッテルを貼られることはなにより避けたいことなのだ。

(とはいえどうやって仲良くなれるんだ……相手の名前も憶えてないのに……そうだっ)

 頭を洗っている最中にヒカルは起死回生の一手を思いつく。シャワーで泡を洗い流しつつ、美少女の方を再び見る。

 彼女は今身体を洗っているようで、華奢な身体のあちこちにボディソープが塗られ、テラテラと光っていた。

「あ、あの……」

 頑張って声をかけると、美少女が足にボディソープを塗り込みながらこちらを見た。濡れた髪が小さな顔に貼りついていて、年下だというのに艶めかしい雰囲気を感じる。

「あれ? ヒカルさん今なにか言いました?」

「あっ、えっと。言ったというか、言おうとしたというか……さっきの敬語の話なんですけど」

「けいごのはなし?」

「あの、つまりですね。その、敬語を今すぐなくすのはちょっとアレというか難しいんですけど、名前くらいなら、呼び方くらいならどうにかできるというか」

 イマイチ要領を得ないヒカルの遠回りな喋り方に、美少女は最初こそ首を傾げていたが、本題の名前の呼び方まできたところでぱぁっと嬉しそうな顔を見せた。

 あまりにも眩しいその表情に、ヒカルは胸の内の罪悪感が肥大していくのを感じる。

「本当ですか? 嬉しいです。晴嵐せいらんって呼んでください」

「晴嵐……晴嵐、晴嵐ちゃんでもいいですか?」

「はい、ありがとうございます」

 満面の笑みを浮かべる晴嵐。ここまできてヒカルはようやく彼女の名前を思い出した。

(そうだ、晴嵐。なんだっけ、なんか珍しい苗字で、なんとか川……立川、じゃない。そうだ、太刀川だ。太刀川たちかわ晴嵐せいらんちゃんだ。よし、完ぺきに思い出した)

 タイミングを考えると完ぺきとは言い難いが、それでもどうにか思い出すことができた。

 記憶力が悪いというよりも、人の名前を覚えるという回路が上手く動いていない気がする。おそらくこれまであまり使ってこなかったからだろう。

 今後は積極的に人の名前を憶えるようにしなくては――ヒカルはボディソープを身体に塗りながら自分に言い聞かす。

「そういえば、ヒカルさんはあるんですか? 家族以外とお風呂入ったこと」

 頭を洗いながら晴嵐が最初の話をぶつけてくる。

 もう名前は思い出したのだ。ぎこちない会話をする必要はない。

 ヒカルは身体を洗いつつなるべき右目を見られないよう、前を向いたまま答える。

「私もないです。そういう機会に恵まれなかったもので……白状すると今も戸惑ってます。何分初めてなので……」

「そうだったんですね、ヒカルさんも……あの、実はわたし」

 一旦喋るのを止めて、晴嵐が座っている椅子をずらして近づいてきた。

 突然の接近にヒカルがビクッと反応すると、年下の美少女は頭に泡を乗せたまま内緒話をするように顔だけを寄せてくる。

「皆でお風呂入るの、ちょっとだけ嫌かもって思ったんです。その、いつも1人で入ってますし、お風呂の時間は1人がいいので」

 声を抑えて伝えてくる晴嵐。ヒカルは上体を傾けて聞くポーズのままぴくっと眉をあげ、改めて晴嵐を見た。

 初めはただの無邪気な女の子といった印象だったが、そんな単純な性格ではないらしい。

「それを言うなら私も。メッセージ見たときやだなぁって思ったけど。まぁ……断るとなんか悪いかなぁって思って」

「おんなじです、わたしも。最年少ですし、なんかどうしようって思ってたら皆行くって言ってるから断れなくて……」

 互いに顔を合わせ、ふにゃっと笑う。

 思わぬところに味方がいてヒカルは少し気が抜ける。

「あっ、でも。実際来てみたら楽しいかもです。ヒカルさんとお喋りできたし」

 えへへと白い歯を見せて笑い、シャワーで頭を洗い流す晴嵐。真正面から彼女の眩しい笑顔とポジティブなセリフを喰らい、ヒカルは胃が引っ張られたかのような痛みに悶える。

(私は今でも後悔してるのに……晴嵐ちゃん、恐ろしい子)

 同類かと思ったが微妙に違った。ヒカルは「……そうでございますか」なんて言いながら身体についているボディソープをシャワーで洗い流した。

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