ヒカルは風呂からあがると、急いで体を拭いて髪を乾かして、使ったバスタオルとタオルを回収ボックスに投げ入れた。
あとは部屋に戻るだけ。戻ったら母にカラコンを送ってくれと早急に伝えなければならない。
なにかあったときのためにカラコンは常に3回分用意しているがそれでも手元にストックがあるのとないのでは精神衛生上まるで違うのだ。
他にもいくつか必要なものがあったかもしれないからリストアップしておかなければ。頭の中で生活必需品を思い描きながらヒカルはエレベーターへと向かう。
「ヒカル? もう部屋戻る?」
エレベーターのボタンを押そうとしたところで、後ろから声を掛けられた。
ギクッとして振り返るとそこには小鹿の姿。当然ながらお風呂上りで、オーバーサイズのウェアが彼女の小動物的な可愛らしさを際立たせている。
「は、はい。もう戻ります」
「スキンケアは?」
「スキン、ケアですか?」
ヒカルは首をかしげる。スキンケア。オーディションを受けると決めてからネットで『綺麗になる方法』という検索をして出てきたキーワードのひとつだ。尤もそのときはどうにか見よう見まねでやってみて「世の女性はこんなだりぃことを毎日……毎日!?」と叫んでいたが。
結局やるしかないと判断し、続けてはいる。今日だって風呂から出た後、キチンと髪を乾かし、化粧水も塗っている。
「えっと、やりました。ちゃんと化粧水塗りました」
「パックは?」
「……パック?」
「ボディクリーム、美容液、ヘアオイルは?」
「えーっと……ちょっと分かんないですけど。あっ、でも。髪はちゃんとすぐに乾かしました」
「お風呂から上がってすぐはダメ! ていうかタオルもガシガシやってたでしょ!」
カッと目を見開いて叫ぶ小鹿。あまりの剣幕にヒカルはヒュッと喉を鳴らす。
「あんな拭き方したら髪が痛むし、ヘアオイルを塗る前にドライヤーも良くない! 化粧水の前にドライヤーもよくないから!」
「ひぃんっ! ご、ごめんなさい……」
すっかり縮こまりヒカルは小鹿よりも小さくなる。
なぜ自分は今他人からスキンケアのことで怒られているんだろう。自分の身体なのに――なんて思いながら、ヒカルは小鹿の怒りが収まるのをひたすらに待つ。
「とにかく、化粧水だけじゃダメだよ。あと塗り方も雑だと意味ないから。教えてあげる」
来てと言って小鹿が近づいてくる。
このままじゃまずい。せっかく右目のことがバレずに済みそうだというのに、今ここでスキンケアのレクチャーなんか受けたら絶対バレてしまう。
なんとかして断らなければ。とはいえ、ヒカルのスキンケアが雑なのは事実だ。それにいいと言っても素直に引いてくれるとは思えない。
(ていうか他人のスキンケアにいちいち突っかかってこないでよ……ほうっておいておくれ)
めいいっぱいお節介を振るう小鹿に若干の苛立ちを憶えながらも、ヒカルは小鹿が近づいてくるのを止められなかった。
ここで強めに拒否すれば、きっと嫌われてしまう。善意で教えてあげようと思ったのにそれを拒んだ空気を読めない奴だと思われ、迫害されてしまう。
どっちに転んでも最悪――思わぬ展開にヒカルは最早泣きたいくらいだった。
「小鹿」
連れていかれる寸前で、誰かが小鹿の名前を呼んだ。
ハッとして目を開けると、小鹿の後ろには舞鶴が立っている。風呂上がりで長い髪をタオルでまとめながら、どこから持ってきたのかヨーグルトドリンクを持っている。
「ヒカルにはヒカルのやり方があるんだから。押し付けちゃダメでしょ」
舞鶴の言い分に小鹿はハッとして、唇を尖らせる。善意でやってあげたのにそれを否定されたのだから拗ねたくもなるだろう。
とはいえヒカルにとって舞鶴の介入はかなり助かるものだった。内心ホッとして背中に浮かんでいた汗が引くのを感じる。
「でも、あのやり方じゃ髪にも肌にも良くないと思うし……」
「まぁまぁ、今日はもう疲れてるしさ。本当に困ってたら教えればいいでしょ。ね? ヒカル」
「はっ、はい。聞きます。もう何回も聞くので」
こちらにターンが回ってきて、ヒカルはぺこぺこと頭を下げた。
旗色が悪いと判断したのか、小鹿はふぅとため息をついて「分かった」と答える。
「よしよし、じゃあ小鹿。パック貸してくれる? 忘れちゃって」
小鹿の肩をぽんぽんと叩きながら微笑む舞鶴。小鹿を連れて離れていくとき、チラッとヒカルと目を合わせパッと手を振った。
助けられた。ということなのだろう。先ほど風呂に入ってた時は気を遣って追及されなかったし、今もヒカルが困っているのを察知して間に入ってくれたのを見るに、舞鶴はそういうことができる人なのかもしれない。
今度こそヒカルはエレベーターへと乗り込む。
(舞鶴さん……いい人かもしれん)
上昇するエレベーターの中でヒカルはぼんやりとそう思った。