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第5話

【5-1】過酷なおしごと

 千倉ヒカルがi─Conアイコンに加入してから1ヶ月以上が経過した。

 宣材写真の撮影に、初めてのテレビ出演と雑誌のインタビュー。そしてファンの前でパフォーマンスをするお披露目会もなんとか無事に終わり、この短期間で多くのことを経験してきた。

 幸いなことに、これまでのお仕事でヒカルの繊細なメンタルをズタボロにするようなものはそれほどなく、メンタルブレイクもわずか1回で済んだ。

 地味な見た目と根暗な性格は中々変えられないが、それでもアイドルとして、i─Conのいちメンバーとして、着実に前へ進んでいる。なんとなく、そう思っていたのだが――

(お母さん、貴方の娘はアイドルとして日々頑張っています。慣れない環境でもめげずに……)

 グルグルと回る視界の中でヒカルは必死に腕を動かす。

 グラグラと揺れる足場は不安定で中々踏ん張ることができない。

(めげずに……パドルを漕いでいます)

「やぁあぁあぁあぁ! 落ちる落ちる落ちる!」

 ヒカルの目の前、同期の太刀川たちかわ晴嵐せいらんの華奢な背中から高い声が聴こえてくる。

 ブォンブォンとパドルを振り回して暴れる晴嵐。大量の水しぶきを顔面に浴びながらヒカルは歯を食いしばってパドルで水をかく。

 5月21日、群馬県利根郡みなかみ町。県の最北端に位置するこの土地は、新潟県との県境を接している県内最大面積を誇る町だ。水上温泉郷をはじめとしたおよそ18の温泉に、町の中心には1級河川である利根川が通っている。

 そんな有名な観光地であるみなかみで、ヒカル達2期生はラフティングに興じていた。

 新東興都市しんとうきょうとしのテレビ局『NTCF』で毎週21時から絶賛放送中のバラエティ番組『i─Con SET UP!』の――ネット配信限定コンテンツ『i─Con START UP!』の収録中だ。

 新人アイドルらしいチャレンジングな企画で『一致団結! 2期生だけで激流を乗り越えろ!』というものである。シンプルかつハードな企画に殆どのメンバーがあんぐりと口を開けた。

 活動拠点である新東興都市から移動して朝8時からの収録。結局雨野あまの小鹿こじかだけは体調面から参加は見送りとなり、8人でチャレンジすることになったのだが――

「らん、落ち着いて。ここは落ちても大丈夫なところだから」

 8人乗りのゴムボートの一番後ろから2期生最年長の赤城あかぎ舞鶴まいづるの声が聴こえてくる。殆どのメンバーがひぃひぃ言ってるというのに彼女だけは終始冷静だ。

「おっ、落ちても大丈夫って! ダメなところがあるんですか!?」

 晴嵐の悲鳴にも似た叫び声が前から聴こえてくる。年下の子にこんな苦労をさせて、できることなら変わってやりたいと思うヒカルだったが、結局場所を交換するだけなので意味がない。

「ていうかこれ進んでるの!? 流されてるの!? どっち!?」

「進んでると思う! 良くない方向に!」

「助けてー!」

 隣でやりとりをしているのは鈴木すずき柘榴ざくろしばえるだ。最初は皆普通の声量で話していたのだが、どっかでタガが外れたようで、皆ひーひ―叫びながらやりとりしている。

(うぅ……渓流下りをするためにアイドルになったわけじゃないのに……)

 肩で息をしながらパドルを動かすヒカル。ここら辺でも一番激しいコースのラフティングは予想以上に大変で、さらに今年は河の水量が例年より多いらしく、容赦なく水が襲い掛かってくる。最初こそ皆「水のせいで前髪が……」なんて言っていたが、最早誰も気にしていない。

 とにかくゴールに着かなければ終わらない。ぐわんぐわんと激しく揺れながらボートは進み、傾斜がキツい川面を飛び出した。

「「「きゃあぁあぁあぁ!!!」」」

 一瞬だけ宙に浮くボート。わずかな傾斜でもその勢いはすさまじく、何人かが一斉に叫び、激しい水音をたてながら着水する。

 ドバシャァンッとすさまじい勢いで水流が襲い掛かってくる。顔と身体に水の塊が叩きつけられ、視界が真っ白になった。

「アハハハハッ! 今のヤバいっ! もう1回やりたい!」

「やだ! 絶対やだ! やだすぎ!」

 一番前にいるヴァザーリ屋久やひさもえが楽しそうに叫ぶ。明るく活発でアウトドア派の彼女にこのシチュエーションは最適なようで、かなりハイになっている。

 そんな彼女の言葉に唯一反応したのは、一二三ひふみ光音あるとだ。田舎で育って自然と共に生きてきたと言っていた彼女だったが、さすがにこの激流でのラフティングは対応しきれないらしい。

「やだすぎ晋作」

 光音の言葉を拾っておやじギャグを呟いたのは寿崎すざき琴子ことこだ。普段の無表情は消えしんどいみたいな顔で「やだすぎる こともなき世を やだすぎる」なんて言ってパドルを動かしている。

「ちょっと琴子! こんなときに笑わせないで!」

「やだすぎ風太郎」

「やだすぎ風太郎? 五等分の花嫁の?」

「5人のうち1人選ばなきゃいけないの、やだすぎてやだすぎ風太郎になった」

「インターネットで見たことある構文」

「ヒカルものらないで!」 

 ヒカルと琴子とのやりとりにクレームを入れたのは柘榴だ。皆好きなことを言い合いながらも、動きを合わせて水をかく。

 そうやってバチャバチャと音をたててパドルを動かすが、如何せんラフティングに関してはヒカルだけではなく全員が素人だ。本番前に少し練習をしたくらい。

 だというのに、こんなにも流れが速く激しいコースを回らなければならないなんて。

(し、しんどっ……アイドルってこんなこともしなきゃいけないの……誰か助けてくれ……)

 びしょびしょの身体を動かしながらヒカルはひたすら水をかく。

 すると視界の奥にゴールらしき旗が揺らめいているのが見えた。

 それだけじゃない。川岸には体調面の問題で唯一不参加だった小鹿も立っている。

 陽の光を受けてキラキラと光り輝く穏やかな川面に、こちらへ向かって手を振っている美少女。あまりにも温かくて平和な光景にヒカルはボーっとしながら呟いた。

「……なんかすごい穏やかな光景なんですけど、私達向こう岸に渡って大丈夫なんですよね?」

「どういうこと? え? あれゴールだよね? ゴールじゃない?」

 水を掻きながら柘榴が訊ねる。ヒカルも同じく水かきを続けながら緊張した面持ちで答える。

「いやあの、なんというか、綺麗な景色過ぎるので、ふつーにあの世なんじゃないかって」

「怖いこと言うのやめてよヒカル!」

 ギャーっと叫ぶ柘榴。バタバタとボートを揺らしながら、2期生のメンバーは今更流れに逆らうことも出来ず、ゴールへと向かって行ったのだった。

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