千倉ヒカルは大いに悩んでいた。
最近誕生日を迎えて16歳となったヒカルだが、これまでの人生の中で一番悩んでいるといっても過言ではない。オーディションを受けるときだってここまで悩んでいなかったと思う。
「行くか? 行かないか? 行くか? 行かないか? 行くのかぁ~くぁ~」
通路の壁に向かってブツブツ呟くヒカル。チラッと視線を動かすと、その先には扉が見える。
ヒカルにとってはあまりにも重い扉だ。開かなければ諦めがつくというのに残念ながら普通に開くので逆に困ってしまう。
6月5日、千葉県にあるイベント会場『幕張フローティングサイト』にてi─Conの7枚目シングル選抜メンバーを決めるためのグループ内BLAST.S『Verseday』が開催されていた。
対戦カードは白金真咲対
ヒカルはというと真咲目当てで会場を訪れ関係者用観覧席で見学させてもらった。
結果は真咲の勝利だった。ネット配信では比べ物にならない生の迫力にヒカルは目を輝かせながら夢中になって観戦し、勝敗が決したときは幼い子供のように手を挙げて喜んだ。
そしてBLAST.Sも終わりヒカルは上機嫌で寮へと帰る――つもりだった。
ふと、思い至ってしまったのだ。せっかく来たのだから挨拶くらいしたほうがいいのではと。
そうしておっかなびっくりしながらも、ヒカルは楽屋前までやってきた。かれこれもう10分は部屋の前でウロウロしている。
(私も一応i─Conのメンバーだし、勉強させてもらったわけだし、挨拶しなきゃ失礼にあたるよね。うん、多分そう。そう……でもBLAST.Sで疲れてるところに私なんかが来て迷惑じゃないかな……いや、絶対そうだよ。ていうか真咲さんが私のことなんて憶えてるわけないんだから誰こいつってなるだけだし。うん、やめとこう。今日は帰ろう。今度番組の収録のときに言おう……でも、もしもだよ? もしもそのときなんで来てくれなかったのみたいに言われたらなんて答えれば――)
「おや? 2期生の子じゃないかい?」
「はい、そうです。i─Con2期生の千倉ヒカルです」
後ろから聴こえてきた言葉にヒカルは反射的に答える。
(だれ?)
答えた後にヒカルは壁から顔を離し、バッと振り向く。
「千倉ヒカル? あぁ、君が噂の」
茶髪よりの少し明るめな黒髪は肩のあたりまで伸びていて、艶々と輝きを放っている。目力を感じるくっきりとした瞳に、鼻は小さくつんと高く、綺麗に整っている。シャープなフェイスラインと細い首、細くて長い手足から覗く素肌はほんのりとピンク色で血色がいい。
「う、碓氷美澄さん……」
思い悩んでいたヒカルに声をかけてきたのは、i─Con1期生の碓氷美澄だった。
和柄のハンドバッグを持って腰に手を当てて立っている。彼女の方が大きいうえに猫背気味のヒカルは自然と見下ろされる形になるのだが、それがまたなんとも心をざわつかせる。
なにか粗相してしまったか。ヒカルはハラハラしながら思い悩みすぐにハッとした。
(まさかこの通路をうろついてるのが良くなかったかな……部外者というか不審者だと思われてるとか……それとも戦ってない奴は帰れってこと?)
目をぐるぐるさせて固まっていると、美澄は視線を動かし真咲の楽屋を見て「あぁ、なるほど」と言って微かに笑った。
「真咲になにか用でもあるのかい?」
美澄からの質問にヒカルはビクッと肩をあげ、もごもごと口を動かす。
「あ、えっと……はい。その、今日BLAST.Sを見学させていただいたので、その、ご挨拶をと思ったんですけど」
「そうか、うん、いいんじゃないか。真咲も喜ぶよ」
「そ、そうですかね。でもその、私なんかがおつかれさまですなんて言うのもアレかなぁって。そんなに関係性があるわけじゃないですし」
「そんなことはないだろう。私達は同志なのだから関係性など……あぁ、そういうことか」
途中で言葉を切って、美澄が納得したように頷く。
今の会話でなにかを察してくれたのだろうか。先輩からの次の言葉を待っていると、不意にヒカルの右目の瞼が痙攣した。
なにか良くないことが起きるときのサインだ。厄介ごとに巻き込まれる前にここから立ち去らなければ――そう思った次の瞬間、美澄がヒカルの右肩に手を置いて微笑んだ。
「先輩の楽屋へ1人で入るのには些か勇気がいるからね。でも私と一緒なら問題ないだろう?」
肩から背中へ、さらに腰へと腕を回され美澄が動き出す。
当然捕まっているヒカルも動き楽屋へと向かっていく。
「あ、あの! 美澄さん!」
「遠慮することはない。距離感に惑う後輩へ一歩踏み込むのは先輩の役目だよ」
ズルズルと連れてかれるヒカル。先輩が気を遣ってくれているがゆえに抵抗出来ないのもあるが、それ以上に――
(いやこの人チカラつよっ!)
単純にパワー負けしていた。