6月10日、新東興都市西エリアに位置する『新東興都市ニューハイムドーム』にはおよそ2万人の観客が訪れていた。
お目当てはもちろん今日行われるVerseday2回戦だ。千倉ヒカル対ヴァザーリ屋久萌。
互いに1勝している2人。勝ち気で挑戦的な萌と引っ込み思案で大人しいヒカル。反対の性格の2人はどんな戦いを見せてくれるのか。1回戦で2期生の実力が見えてきた今、これまで1期生にしか興味がなかったファンも、少しずつ2期生に興味が湧いてきたということだ。
これは、萌にとっては好機だった。彼女は自分が注目されればされるほどパワーが増す。プレッシャーなどものともせず、むしろ自分のエネルギーとして取り込むことができる。
対してヒカルはというと――
「げ、ゲリ便すぎ……」
がっつり緊張していた。
アイドルにはおよそ相応しくない言葉を絞り出し、丸まって楽屋の床に寝転がっている。
以前よりも注目度が上がっている。萌もヒカルもやたら注目されているようだ。
1回戦よりも観覧客は多く、ここで勝てばかなりの人が千倉ヒカルというアイドルに注目するだろう。そう思うと――ヒカルは右目の痙攣も腹痛も止まらない。
「なんでこんなことに……おなかいたいし~」
キリキリと痛むお腹を抱えてヒカルは目をつぶってぼやく。
ヒカルは自分が注目を浴びれば浴びるほど、パワーを引き出しづらくなる。
プレッシャーに弱くパフォーマンス力も著しく下がってしまう。
『BLAST.Sにあるのは勝者と敗者のみ。それも純粋な実力ではない。パフォーマンスとしての勝敗だ。だがね、それでも勝ちたいと君が望むなら物語が必要になる』
グルグルと碓氷美澄の言葉が頭の中で回る。
BLAST.Sはエンターテインメントだ。ただ勝つだけでは意味がない。より鮮烈に、より劇的に勝利を飾らなければならない。
ヒカルは勝ちにこだわる理由がない。そりゃできれば勝って選抜メンバーになりたいけれど、それだってすぐになれるとは思ってないし、そう上手くもいかないだろう。BLAST.Sの公式戦と違い、負けたところで特に自分が損をするわけでもないのでどうにも勝つことに執着ができない。いつか勝つことができるはず。そう思って物語が生まれない日々を送っている。
だが今日の対戦相手である萌は違う。彼女は明確に目的を持っていて、ヒカルのことを倒すべき敵として見ている。
(どうしてこんなことに……)
震える左手を右手で掴む。果たして自分は無様な負けざまをさらしてしまうのだろうか。
「なんだよ千倉、全然食べてないじゃん。ちゃんと食べときなさい」
「いや、ちょっとお腹痛くって……え?」
突如どこかから声が聴こえてきた。
どうにか立ち上がって振り向くといつの間にか控室のソファに四ノ宮湖鐘が座っていて、手を付けていなかったヒカルの分の弁当を食べている。
「ひゃあぁあぁっ! なんで湖鐘さんがいるんですか!」
一拍遅れて悲鳴をあげて壁に張り付くヒカル。後輩の大声に少しも動じることなく湖鐘は食事を続け、大股開いて壁にくっついているヒカルをチラリと見て「脚閉じなさい」と言うだけだ。
突然の出来事にヒカルの脳が思考停止する。足を揃えながらもぐもぐとお弁当を食べている湖鐘を見つめスススと足を閉じる。
「なんでって、さっき部屋に入ったでしょ」
すごい速さで半分ほど食べ終えたところで、湖鐘が一旦弁当をローテーブルの上に置く。グッと背もたれに身を預け、ひじ掛けに腕を置いた。
(なんなのこの人……ていうか1期生の人達ってなんで気配消せるの)
傍若無人な振る舞いをする湖鐘に向かって、ヒカルは心の中で叫ぶ。しかしこの楽屋には残念ながら隠れる場所は存在しない。ではどうやって湖鐘は部屋に侵入したのか、悲しいかな真実は単純にヒカルが気づいていないだけだった。
極度の緊張状態、そのせいでヒカルは湖鐘が「おつかれー」と言って入ってきたことにも気づけなかったのだ。
そんなことなど露知らず、ヒカルは不安を押し殺して湖鐘の対面のソファーに座る。
あっという間に殆ど消えた弁当を見下ろし、おそるおそる視線をあげる。なにを考えているのか分からない目、その奥に潜んでいるであろう彼女の狂気に怯えながらもどうにか口を開く。
「あの、今日はどういったご用件で……私このあとすぐBLAST.Sがあるんですが……」
「知ってる。だから来たんだって。応援だよ応援」
「応援……」
湖鐘の言葉を繰り返し、ヒカルは疑いの眼差しを向ける。
応援だなんて、いったいどんな思惑があってそんな行動をとったのか。
そもそも四ノ宮湖鐘という女性はヒカルから見て他人を応援するような人とは思えない。むしろ相手を負かすために応援という名の妨害を仕掛けてきそうですらある。
今だって次の対戦相手であるヒカルへプレッシャーをかけるためにやってきただけだろう。
「言っとくけどプレッシャーかけにきたわけじゃないから。そんなことしなくても私勝てるし」
背もたれに身を預け、少し顎を引いたまま湖鐘がヒカルの疑念を切り捨てる。
思っていたことがあっさりとバレてしまい、その上勝利宣言もされてしまった。ボディブローを打ち込まれたような鈍い衝撃に、ヒカルは「ヴっ」と妙な声で鳴く。
「まぁそうですよね。湖鐘さんはきっと物語を持っているお方ですから。そりゃ勝てますよね」
「ん? なにその物語って」
ヒカルの弱音に湖鐘が反応する。しまったと思いながらも、ヒカルはついこの前美澄に言われたことをそのまま話す。そしてその言葉に囚われヒカル自身BLAST.Sに迷いが生じていることも。
「勝つための物語ねぇ……碓氷が言いそうなことだね」
意外なことにヒカルの悩みに対して湖鐘は茶化すことも途中で話を打ち切ることもせず、最後まで聞いてくれた。
美澄から言われたことを話すのはともかくとしてなぜ自分は大して絡みのない人に悩みを打ち明けているのだろうか。ヒカルは手をもじもじと交差させながら自分の心の弱さを恥じる。
打ち明けてどうにかなる問題だとは思えないし、なによりヒカルの気持ちなんて湖鐘が理解できるとは思えない。
これまでの人生負け続けの千倉ヒカルと、おそらく幼い頃からこれでもかと栄誉を浴びてきたであろう四ノ宮湖鐘。比較するまでもなく別種の生き物だ。
今もきっとヒカルの話を聞いている風なだけで本当は少しも理解していないのだろう。
「それで、どうするつもりなの?」
視線を斜め下に落として沈んでいると、湖鐘が話を進めてきた。落ち込む暇なんて与えてくれない。早い会話のペースにヒカルは戸惑いながら顔をあげる。
「勝つためには物語がいる。千倉はそれを持っていない。だからヴァザーリに負ける。それで? その次は? 物語を持ってないんじゃいつまでたっても負けっぱなしだけど?」
「それは……でも、仕方ないです。私は、萌さんみたいに目立ちたいわけじゃないですし……」
「Versedayでいい成績残して選抜に入りたくないの?」
「入りたいとは……思いますけど、別に今じゃなくても……いつかは、きっと」
「おばか」
すぐさま罵倒が飛んできてヒカルは思わず口をつぐむ。怯えた目で湖鐘を見ると冷たい目をしていた。
「わざわざこの世界に入ってきて既にI.De.Aを着て戦ってるっていうのに千倉はおばかだね」
バシッと頬を叩かれた気分だった。ひじ掛けに肘をついて湖鐘がジッとこちらを覗いてくる。その鋭いまなざしにヒカルは咄嗟に目を逸らす。
「いつかいつか、そんな言葉を使う奴がなにかを成し遂げることはない。そんないつかは一生来ない。そんなこと、自分でも分かってるはずでしょ?」
視界の外から叩きつけられる湖鐘の言葉に、ヒカルはキュッと唇を引き結ぶ。あまりにも残酷であまりにも鮮烈で、なにより核心を突いていた。
本質の槍だ――どろりと澱んだヒカルの心を鋭利な刃が貫く。
「チャンスなんてものは誰にでも平等に降りてくる。大事なのはそのとき掴み取る準備ができているか。少なくとも、これまで勝った連中はそうしてきた。千倉だってそうしたはずだよ」
「わ、私もですか?」
「どれだけ性能がいいI.De.Aを持っていても、撃つと決めたのは自分でしょ? 3次審査でアンドロイドにやられそうになって、でもやられたくなくて撃った。それとも千倉はあのとき誰かに撃てって言われたから撃ったわけ?」
聞くだけ聞いてグッと身を起こし、湖鐘が席を立つ。ヒカルの知らぬ間に弁当は片付けられていて、その残骸を湖鐘がゴミ箱に投げ入れる。
「ねぇ千倉」
湖鐘が出入り口のドアの前で立ち止まった。
ヒカルがどうにか顔をあげると、鐘はドアの前で立ち尽くしている。制服風の衣装のポケットに手を入れて、小首を傾げてこちらを見下ろしている。
「BLAST.Sがどうしてここまで流行ってるのか知ってる?」
湖鐘からの質問にヒカルはゴクっと生唾を飲み込む。
アイドルになる前も、なってからも散々聞かされてきた。今や国を挙げてのエンタメとなっているBLAST.Sがどうしてここまで盛り上がっているのか。
「それは……I.De.Aという最新のテクノロジーと、アイドルという儚い少女たちによる戦術性溢れる真っ向勝負という2つの相反する要素が組み合わさった化学反応が――」
「あーうるさいうるさい。そんなこと聞いてない」
うんざりといった調子で手を振る湖鐘。あまりにも教科書通りすぎる回答がよくなかったのだろう。ヒカルは口をむずむずさせた。
「そーいうのは偉いおっさんたちが理屈をこねくり回して勝手に作り出すんだから。そうじゃなくて、アイドルとしてだよ」
「アイドルとして……でも私、アイドルになったばかりで……」
「負けたくないんだよ。勝ちたいだけ。売れたいわけじゃない。仕事が欲しいわけじゃない。そんなの全部後から付け足した理由に過ぎない。ただ勝ちたくて勝ちたくてたまんないの。何回負けてもいいからとにかく勝ちたい。勝って終わりたい。ただそれだけだよ」
怒涛の勢いでなだれ込んでくる言葉の奔流にヒカルは息を呑む。
BLAST.Sが流行っている理由。それは単純に目の前の相手に勝ちたいから。
あまりにもシンプルで強烈な理由だ。
「どうしてアイドルになりたいと思ったの?」
答える間もなく質問が続き、ヒカルは困惑する。どうして今更そんなことを。そんなことを確認してヒカルの意識がどう変わるというのか。
「わ、私は……真咲さんに憧れて、あの人と同じステージに」
「それはi─Conを選んだ理由。そうじゃなくて、アイドルになろうと思ったきっかけだよ」
「アイドルに……それは」
「思い出してみな。千倉ヒカルの――」
湖鐘からの言葉にヒカルは眉を顰める。意図が読めない。助言なのか説教なのか、それがBLAST. Sにおいて勝ちを得るための物語になるのか。
質問の意味が分からなかった。アイドルになりたいと思った理由、そんなの――
「なりたいから、なるものなんじゃないの……」
ぼそりと呟いたヒカルの言葉は、すでに部屋を出ていた湖鐘には届かず、室内でむなしく響くだけだった。