白鳥紗耶香が日向将平を“救った”あの日から、日向家の空気は一変した。
使用人たちも薄々気付いている。今や日向家で逆らってはいけないのは、社長に加えて白鳥紗耶香も同じだと。
将平は公然と、「紗耶香が望むなら、星だって取ってきてみせる」と言いきった。
「将平さん……」
紗耶香は彼の胸に身を寄せ、指先でそっと胸元をなぞった。
「私はただ、堂々とあなたを愛したいだけなの。」
将平の体が一瞬、こわばる。
「紗耶香……それだけは……君もわかってるだろう。他のことなら、何だって叶えてあげる。」
紗耶香は勢いよく身を起こし、涙をあふれさせた。
「やっぱり日向美桜のせいなの?あんな冷たい人のこと、まだ忘れられないの?」
「私が何年もそばにいたのに、結婚式の一つもダメなの?」
紗耶香はそのまま部屋を飛び出そうとし、将平も慌てて後を追った。ドアを開けた瞬間──
「ガシャーン!」
大きな音とともに、窓ガラスが石に撃ち抜かれ、破片が雨のように舞い散った!
「危ない!」
紗耶香は叫び、将平を思い切り突き飛ばした。
鋭いガラスが紗耶香の腕を深く切り裂き、真っ白な袖がたちまち血で染まる。
「紗耶香!」
将平は彼女を抱きしめ、声を震わせた。腕の中の紗耶香は、壊れそうな蝶の羽のように弱々しい。
「なぜ……どうして僕をかばったんだ?」
紗耶香は血に染まった指で、将平の唇をそっとなぞる。
「ただ……もう少し頑張れば……あなたが……一度でも私を見てくれるかと……」
将平はその言葉に、思わず舌を噛み切った。鉄の味が口に広がる。
「君の望みは、全部叶えてあげる!明日、区役所に離婚届を出す!」
紗耶香は将平の胸に寄りかかり、かすかに微笑んだ。
実際、紗耶香の傷は深くなかった。簡単な手当てで済む。
けれど将平が最初にしたのは、美桜との離婚を切り出すことだった。
書斎には重い空気が漂う。
将平が口を開く。
「紗耶香をこれ以上待たせるわけにはいかない。財産のことは、欲しいだけ言ってくれ。」
美桜は離婚届をめくりながら、淡々と言う。
「他はどうでもいいけど、一つだけ欲しいものがある。」
「何だ?」
「あなたがくれたあのブローチ。」
それは日向家に代々伝わるピンクダイヤのブローチ。内側には二人の名前が刻まれている。もし任務に失敗したら、それと共に眠ろうと美桜は思っていた。
将平の目が一瞬輝き、かすかな期待が滲む。
「もしかして君は……」
美桜は微笑んで言葉を遮る。
「鑑定士に聞いたの、あのブローチは八桁は下らないって。」
将平の顔色が一気に曇り、拳を強く握りしめた。
「明日九時、区役所。遅れないで。」
区役所。
美桜はもっと揉めるかと思っていたが、手続きは拍子抜けするほどスムーズに終わった。
離婚届の受理証明書を手に外へ出る。並んだ二人の名前を見て、胸がぎゅっと締め付けられる。これで将平と高梨美桜は、完全に無関係だ。壊れたガラス細工のように、もう元には戻らない。
将平は結婚式の招待状を離婚届の上に投げた。
「花嫁の付き添いが終わったら、ブローチは渡す。」
美桜は招待状の金色のエンボスを見つめた──それは、彼がかつて「プライベートアイランドで三日三晩の結婚式を」と約束した場所。今や、その全てが紗耶香のものになった。彼は美桜に、かつて自分が誓った未来がどう砕け、他人のものになるかを見せつけようとしていた。
試着の日、紗耶香は美桜の手を引いて更衣室へ入った。
「高梨さん、ヴェールを整えてくれる?あなた……一番、こういうの得意でしょ。」
十メートルもの長いヴェールを膝をついて整えていると、紗耶香が突然、美桜の左手をつかんだ。
目が冷たく光る。
「もう離婚したのに、なんで指輪してるの?よこして。」
無理やり指輪を引き抜こうとするが、どんなに力を入れても、まるで美桜の指に根付いてしまったように外れない。
「離して!」
二人が揉み合っていると──
「ドン!」と更衣室の扉が開いた!
覆面の男たちが銃を構えて突入し、黒い銃口が二人のこめかみに突きつけられる!
首筋に麻酔針が刺さった。
美桜が次に目を覚ました時、将平の目前に連れ出されていた。
「選べ。」
ボスが銃で美桜の顎を持ち上げる。
「今の女か、元妻か。」
紗耶香は涙ながらにすがりつく。
「将平さん!助けて!怖いの!」
将平は美桜の手首に残る青あざをちらりと見て、
「紗耶香を放せ。彼女には手を出すな。」とネクタイを緩めた。
「社長さんは新しい女ができれば古い女はおしまいか!じゃあこの女には容赦しないぞ!」
その言葉が終わるより早く、防弾ガラスが爆音とともに割れ、SAT隊員がなだれ込む!
だが一歩遅かった!美桜は強く蹴り飛ばされ、海に落とされた。
冷たい海水が耳を満たすその瞬間、誰かが海に飛び込む影が見えた。七年前、水の苦手な自分を救ってくれたあの日の彼を思い出す。
救助隊に引き上げられた時、美桜は将平が紗耶香の手を取り、傷を丁寧に拭っているのを見た。
将平はちらりと、美桜の方を横目で見る。目が合った瞬間、美桜の瞳に浮かぶ冷たい絶望が、砕けたガラスのように胸を刺した。
将平は感情を押し殺し、冷たく言い放つ。
「何見てる?勘違いするな。」
「まさか、十八の時みたいに俺のために飛び込んだとでも思ってるのか?」
「その方がいいわ。」
美桜は血の滲む唇を歪めて笑う。
「もう目が覚めたのよ。」
美桜は身体を丸め、拳を腹に押し当てた。平らな下腹部を撫でると、苦しげにうつむいた。
そんな美桜を見て、将平は皮肉を口にした。
「誰に見せてるつもりだ?紗耶香だって妊娠してるのに、お前ほどじゃない。」
美桜は顔を上げて笑いかけ、水滴が睫毛を伝って落ちる。
その笑顔は、泣くより痛々しかった。
将平の心に、ふと不安がよぎる。
「どうした。」
「生理痛よ。」
血のついた爪を手のひらに食い込ませる。
「社長が私なんか気にする暇があるなら、婚約者を気遣ってあげたら?」
「まさか、前の妻に未練があるわけ?」
将平は鼻で笑った。
「夢見るな。俺はただ、死人が結婚式に水を差すのが嫌なだけだ!」
そう言い捨て、将平は紗耶香のもとへ歩き去った。
将平がいなくなると、美桜はようやく静かに涙を流した。息も絶え絶えに泣き続ける。
誰も気付かない。濡れたドレスの裾から、血が静かに流れ落ちていることに。
波が最後の夕陽を飲み込む頃、美桜の冷たい指先は、ドレスの隠しポケットの診断書に触れていた。