「奥様……」
白鳥紗耶香は自分が呼ばれたのかと思い、振り返った。
「どうしたの、そんなに慌てて?」
しかし秘書は彼女を無視し、日向将平のほうへと歩み寄る。
「藤原からの伝言です。日向美桜奥様が重い病で亡くなられ、現在火葬場にいらっしゃいます。」
日向将平はその場で立ち上がった。
白鳥紗耶香は彼の行動につられて数歩よろめき、動揺を隠せなかった。
日向美桜――。まさか、藤原まで味方につけてこんな芝居を打つなんて、本当に侮れない女ね。
彼女は内心の憎しみを押し殺し、日向将平の腕にしがみついた。
「何を言ってるの!」
「将平さん、私たちは毎日一緒にいたのよ。美桜さんが重い病気なんて、一度も見たことないじゃない。突然亡くなるなんて、考えられないわ!」
涙を無理やりにじませる。「私たちが結婚するのが、そんなに憎いのね。だから、こんな嘘をついてまで邪魔をしようとしているのよ!」
日向将平が黙り込むのを見て、焦ったように問いかける。
「まさか信じてないわよね? 火葬場に行くつもりもないでしょう?」
彼の表情は暗く沈んだままだった。
「何億円もするあの屋敷を、あの女が手放すわけがない。信じられるはずがない。」
そして秘書に命じた。
「車を出せ。どんな芝居なのか、最後まで見届けてやる。」
白鳥紗耶香は必死に将平を引き止めようとしたが、彼の足取りはあまりにも早く、結局、車が遠ざかっていくのを見送るしかなかった。
日向美桜の訃報を聞いてから去るまで、彼は一度も自分を見ようとしなかった。
彼の目には、美桜しか映っていない――。
嫉妬に理性を失い、ベールを引き剥がして床に叩きつけ、何度も足で踏みつけた。
純白のベールはすぐに埃まみれになり、まるでこれからの結婚生活に日向美桜の影が覆い被さるかのようだった。
深夜の火葬場は、静まり返っていた。
日向将平は駆け込むように中へ入っていき、木々の枝で休んでいた夜鳥たちが一斉に飛び去った。
藤原は将平の姿を見ると、さらに悲しみを湛えた眼差しで迎えた。
「やっとお越しになりました。」
彼は静かに道を開ける。「もう少し遅ければ、私が骨壷に遺骨を納めるところでした。」
将平は藤原が示す方を見やる。骨はまだ分けられておらず、元の形をかろうじて保っていた。
傍らの小さな机には、黄花梨の骨壷が置かれている。
スタッフが声をかけてきた。
「ご遺族の方でしょうか。ご遺骨の整理をお願いします。」
小さな木槌を手渡され、スタッフは丁寧に説明する。骨を優しく砕いて骨壷に納める手順だ。
だが将平は一言も耳に入らず、ただじっと灰の山を見つめていた。
昨日まで確かに生きていた人間が、どうしてこんな灰になってしまうんだ――。
絶対に、彼女は自分を騙しているはずだ!
怒りが頂点に達し、彼は突然、遺骨の乗った鉄台をひっくり返した。骨と灰が床一面に散乱する。
大きめの骨のかけらが足元に転がり、それを粉々に踏みつけた。
あまりの素早い行動に、スタッフが気づいた時には、もう手遅れだった。
「な、何を……」
スタッフは言葉を失い、ため息をつくだけだった。
「どんな恨みがあろうと、亡くなった方には……もうやめてください。」
将平は皮肉な笑みを浮かべ、「あの女がそんな簡単に死ぬわけがないだろう」と吐き捨てる。
藤原は膝をつき、慎重に将平の足元から砕けた骨を拾い集めはじめた。
風に飛ばされないように、ゆっくりと――「奥様は亡くなる前、あなたに映像を残されました。ご覧ください。」
映像は短いが、彼女が最期を迎える様子が鮮明に記録されていた。
白い病衣に滲んだ血、苦痛に歪む眉間――どれも現実そのものだった。
将平は何度も吐血する場面を繰り返し見て、演技の証拠を探した。
だが、何も見つからない。
それでも、信じられない。
「これだけ演じられるなら、女優になればよかったのに」と嘲笑した。
スマートフォンを骨壷の脇に投げ捨てる。
骨壷の中には、粉になりきれていない骨のかけらも混じっていた。
一番上の骨片は三角形で、その端にははっきりとした円い穴が開いている。
将平は一瞥しただけで目をそらし、机にもたれて苛立たしげに言う。
「日向美桜、いつまでこんなことを続けるつもりだ。十五分以内に現れなければ、屋敷の権利は諦めてもらう。」
藤原は涙を滲ませながら、
「奥様はもう、屋敷など必要としていません」と絞り出す。
彼は知っていた。美桜が本当に欲しかったのはお金や屋敷ではなく、将平がそう決めつけていただけだった。
弁明しようとしたが、将平の怒声が返るだけだった。
「黙れ!」
将平は腕時計を見つめる。
「あと八分だ。」
秒針が無情に進み、時間が刻々と過ぎていく。
七分が過ぎた頃、扉が勢いよく開かれた。
将平は皮肉な笑みを浮かべる。やはり、美桜は自分を騙していたのだ、と。
だが、入ってきたのは見知らぬ助手だけで、後ろには誰もいない。
分針がさらに一目盛り進み、十五分が経過した。
美桜は現れなかった。
将平はついに堪えきれず、踵を返して出て行こうとする。
しかし助手が立ち塞がった。「社長、新しい情報です。先日の誘拐事件について……」
将平は重い気配を漂わせたまま、助手を見つめた。
「調査に誤りがありました。あの時あなたを救出したのは、白鳥さんではなく美桜奥様だったんです。」
「何を言っている……?」
助手は将平の威圧感に震えつつも、事実を口にした。
「奥様はあなたを救うため、爆発の衝撃で吹き飛ばされ、一週間以上昏睡していました。目を覚ましたその足で屋敷に戻られたんです。」
将平の脳裏に、あの日の美桜の姿がよみがえる。薄い部屋着に包帯を巻いた手、ふらつく足取り――
今まで気にも留めなかった細かな記憶が、助手の言葉で一気に鮮明になる。
冷たく見えた彼女の表情が、失血で蒼白になった顔に変わっていく――
胸が激しく痛む。
「さらに調べたところ、白鳥さんを連れて帰宅したあの日、暗殺者が現れました。奥様は、あなたをかばって銃弾を受けていたんです。犯人はいまだ捕まっていません。」
銃弾を受けた――?
将平は一気に振り返り、三角形の骨片を凝視した。
骨壷を抱き上げ、中身をすべて処理台にぶちまける。
骨と金属のぶつかる鈍い音、舞い上がる灰――
それを高級なスーツに浴びながら、将平は動じなかった。
スタッフは怒りを隠さず、「あなた、一体何を――」と声を荒げる。
将平は狂気を孕んだ目で見つめ返し、スタッフはたじろいだ。「な、何をお望みですか……?」
「この骨を全部、元通りに並べろ!」
スタッフは呆れたように、「こんなに粉々じゃ、組み立てようがありませんよ。それで何をするつもりです?」
「肩の骨を探すんだ。」
助手の説明を聞き、スタッフも事情を察したのだろう。
山積みになった骨の中から、さっき見た三角形で丸い穴のある骨片をそっと拾い上げる。
その骨片の穴は、確かに銃弾の痕だった。
将平の指先が小さく震え、触れようとして、けれど一瞬で手を引っ込めた。
この骨に触れたら――彼女はもう、二度と戻ってこない。
藤原は前に出て、悲しみを堪えながら言った。
「これで……ご納得いただけたなら、美桜様を静かに眠らせてあげてください。」