足音が次第に近づいてくる中、日向美桜は、古市一久が船を降りてしまえば、もう二度と簡単には近づけなくなると悟った。

彼女は急いでパスワードの解読を進める。

一方、古市一久は秘書にボートの到着時間を確認しながら、部屋のドアを開けた。

窓辺のカーテンがそよ風に揺れているのを見て、彼は首を傾げる。出かける前にしっかり戸締まりをしたはずだった。

誰かが入り込んだのか？

胸騒ぎを覚え、急いで金庫を開けて書類を確認する。

中身が無事であることを確かめ、ようやく安堵のため息をついた。

その頃、日向美桜は影のように静かに下のデッキの廊下へと降り立っていた。

ヘリコプターの轟音が周囲の注目を集める。

彼女には、多くの視線が集まる中、古市一久が厳重に守る金庫からターゲットを取り出すことはできなかった。

今回の船上での計画は失敗。別の方法を探すしかない。

彼女は一階デッキへ向かうと、古市一久がすぐには船を降りず、日向将平と話しているのを目にする。

ポケットの通行カードが手のひらをかすめる。新たな計画が瞬時に頭に浮かんだ。

古市一久は年配で考えが古い。

絶対に重要書類は手元から離さない主義だ。

彼女も一度、古市家の使用人として雇われ、仕事を口実に金庫へ近づくことを考えた。

だが、古市家の使用人管理は極めて厳格だ。

採用基準は厳しい上、勝手な行動は禁じられ、立ち入り禁止区域には絶対に近づけない。

金庫のある書斎や主寝室は、まさにその禁区だ。

自由な行動もできず、屋敷の構造にも不慣れなまま、こっそり目的の場所へ潜入するのは危険すぎたため、この案は却下した。

使用人は制限が多いが、客人なら屋敷内を自由に見て回ることができる。

客人になりさえすれば、今日のようなチャンスを得るのは難しくない。

どうやって客人になるか――

彼女は古市一久と話す日向将平に目を向ける。もしかすると、彼が突破口になるかもしれない。

通行カードを握りしめ、スタッフ用キャビンで着替えを済ませ、再びカジノフロアへ向かった。

到着すると、マネージャーから「日向将平がVIPルームを予約し、あなたを指名している」と告げられた。

ドアを開けると、日向将平はすでに室内にいた。

彼はくつろいだ様子で、指先でスペードのキングをくるくる回している。

甲板を渡る潮風が髪を乱し、どこか気ままな雰囲気を漂わせていた。

彼女は日向将平のそばに近づき、軽く身をかがめる。

「日向社長、今日はどんな遊びをなさいますか？」

同時に、椅子の背にかけられた彼の上着のポケットへと手を伸ばし、通行カードを元に戻した。

スペードのキングが再び回転し、いつの間にか彼女のスタッフバッジにすり替わっていた。

日向将平はそのバッジを指で挟み、彼女に差し出す。

日向美桜は驚いたふりをしながら両手で受け取った。

これはわざと忘れてきたもの。彼に返してもらう口実を作るためだ。

上の階の人間が彼女たちスタッフに会いたい時は簡単だ。

だが、彼女たちが彼らに近づくのは至難の業。

「やっぱり、そちらにあったんですね。」

彼女は体を起こし、日向将平の左頬にまだ赤みが残っているのを見て尋ねる。

「もう痛くありませんか？」

スペードのキングが日向将平の指先に戻り、彼は首を横に振った。

「気が済んだ？　まだなら、もう一発どうぞ。」

その目はストレートで、まるで鎖のように彼女を絡め取る。

こんな視線を向けられて、もう一度手を出すなんてできない。

「冗談はやめてください。今日はご友人をご招待ですか？」

彼女はテーブルを回り込み、向かいの席に腰掛けた。

日向将平は、彼女がホールにいるときほど自分を警戒していないことに気づく。

だが、彼を見る眼差しは依然としてよそよそしい。

まるで本当に知らない人のようだ。

半年ぶりに会う彼女の“演技”は、格段に上達している。

「二人きりで好きにしていいよ。」

日向美桜も物怖じせず、新しいカードデッキを開けて手際よくシャッフルする。

カードは彼女の指先で美しく舞い、元の束へと戻る。

「日向社長は、なぜ私を日向美桜だとおっしゃるんですか？　そんなに似ていますか？」

似ているどころじゃない、まったく同じ顔だ。

日向将平に会う前、彼女は“日向美桜”の資料を調べていた。

自分と瓜二つの写真を見て、日向将平が勘違いするのも無理はないと納得した。

彼女自身でも見間違えるだろう。

資料によれば、日向美桜は彼の元妻。

離婚して間もなく、今の妻・白鳥紗耶香と再婚している。

いわゆる「乗り換え」の典型だ。

だが、なぜ彼は元妻とそっくりな自分を見て、あんな表情を浮かべたのだろう。

日向将平が近づいてきたときの、あの慎重で嬉しそうな眼差しを、彼女は今も覚えている。

それは、本当に元妻を見るような目だったのか？

「彼女とは長年の付き合いで、後ろ姿だけでわかる。」

スペードのキングがテーブルに置かれる。

大きく描かれた王冠が、彼女に向かってそそり立つ。

彼の視線は蛇のように、彼女の一挙手一投足を見逃すまいと絡みつく。隙を見つけようとしているのだ。

だが、無意味だ。

彼女は完璧に「無関係な他人」を演じていた。

日向将平は、自分の過去を率直に語り、動揺を誘おうとする。

だが、彼女の記憶は消されてしまっている。

彼女は外野のような顔でただ話を聞き、「元妻を失ったのは自分のせいで、私を彼女と間違えてるんですか？」

「それとも、私に代役をさせたいんですか？」

どちらにせよ、日向将平を利用して古市家に入り、任務を果たせればそれでいい。

日向将平は一瞬目を見張り、彼女を見る目が変わる。

執拗なまでの探るような視線で、「君は彼女だ」と言い張った。

日向美桜は思わずため息を抑えた。日向将平は本当におかしい。

元妻がいなくなって半年、自分に酔いしれて悲劇の主人公を演じていたのだ。

口では甘い言葉を並べながら、行動は全く逆だった。

自分でも、きっと彼から離れただろう。

「わかった、私が彼女よ。」

日向将平の目に一瞬喜びが浮かぶが、彼女が作り笑いをしつつ、その目がまったく無感情なのを見て、その表情はすぐに曇った。

彼はグラスを傾ける。

苦味が舌に広がる。

酒本来の味——苦味、コク、辛味、そのあとにかすかな甘さ。

日向美桜がいなくなって半年、彼は味覚を失っていた。

何を食べても味がしなかった。

だが、今「彼女」が戻ってきて、久々に味を感じたのだ。

彼女がどれだけ否定しようと、これだけは否定できない。

ゲームは夜明けまで続き、日向将平のチップはすべて彼女の手元に積み上がった。

彼女はそれに目もくれず、まとめて彼の前に押し返す。

彼は眉を上げる。

「受け取らないのか？」

「最初からわかっていましたよ、日向社長がわざと負けてくれたこと。」

日向美桜は微笑み、山の中から一番大きなチップを一枚抜き出す。

「もし気づかなかったら、そのままもらってました。でも、気づいた以上は受け取れません。」

「これは。」

彼女はチップを揺らしてみせる。

「罰金です。次はこんな真似、しないでください。」

日向将平は笑った。

「また次があるのか？」

以前の彼女なら、猫が犬を避けるように逃げていたはずだ。

今の彼女は、次の再会をほのめかしている。

「日向社長は話も面白いし、ご一緒して楽しいですから、またお会いしたいですよ。」

日向美桜のシャッフルする手が一瞬止まる。「それとも、私があなたを「最低」って言ったの、気にしてますか？」