日向将平は日向美桜に「最低男」と言われても腹を立てることはなく、むしろ彼女の棘のある態度を少し可愛らしいとさえ感じていた。
「じゃあ、また今度。」
日向美桜は去っていく将平の後ろ姿を見送った。
彼女はテーブルを片付け、チップを整理してフロントに預けに行った。
物事の進展は予想以上に順調だった。
将平は彼女の接近を特に警戒している様子もなく、不審にも思っていない。
それは美桜自身のおかげなのだろうか?
慎重さと好奇心から、美桜はかつての日向夫人について調べてみた。
公開されている情報はごくわずかで、結婚のお知らせと、将平のゴシップ記事の端に名前が挙がる程度だった。
断片的な情報だけでは、その女性の素顔を知ることはできない。
それが美桜に一抹の不安を残した。
翌日、将平は再びVIPルームを貸し切った。
彼が持ってきたのは、ふんわりとしたケーキ。トレイの振動に合わせて、まるで雲のようにふるえている。
美桜は少し驚いた。
客がディーラーに何か贈ること自体は珍しくないが、たいていはタバコや酒、もしくはチップ。ケーキを贈られるのはあまりないことだった。
彼女はそれを受け取り、「今日は何をなさいますか?」と尋ねた。
将平の今日の服装はラフで、パーカーにゆったりとしたパンツ。
その装いが、普段の鋭い雰囲気を和らげ、とても親しみやすく見えた。
「名前で呼んでくれ。」
「日向社長」から名前呼びへの変化は、距離が縮まったことを意味している。
美桜はその意図をすぐに察した。
彼女は素直に、「将平さん、今日は何をされますか?」と聞き直した。
しかし、そう呼ばれると、将平の目に一瞬だけ寂しげな色がよぎった。
美桜はその理由がわからなかった。将平の落胆は、彼女が「将平さん」と感情のこもらない声で呼んだからだ。記憶の中の美桜は、もっと情熱的に彼の名を呼んでいたのだろう。
同じ声でも、そこに感情があるかどうかで全く違う。
その違いが、かつての美桜の抑えきれない想いを思い出させた。
将平はグラスを手に取る。
今日のワインは美桜が選んだ辛口の赤ワイン。はっきりとした酸味が、今の彼の心情を映し出していた。
昨日の「忠告」が影響したのか、あるいは今日の気分なのか、将平はカードゲームで一切の容赦を見せなかった。
美桜は全力で挑んだが、どうしても勝てなかった。
幸い、今日は賭け金を設定していなかったので、予算を超えることはなかった。
昼食の時間になると、将平は美桜を食事に誘った。
美桜は断らなかった。
船の上ではあるが、料理はシンプルに蒸したり茹でたりした海産物や鶏肉が中心で、あっさりとして上品だった。
テーブルいっぱいの淡白な料理を前に、美桜はどう感想を述べてよいかわからず、「素材の味を重視されるんですね?」とだけ尋ねた。
将平はカニのハサミを割る手を止めて、「君が好きだったから」と答えた。
美桜は、彼が言う「君」が自分ではなく、元妻のことだとすぐに理解した。
彼女は小さくため息をつき、昨日のように訂正することはなかった。
自分が元妻の代わりにされていることは、任務上むしろ都合がよいのだ。
「好きですよ」と口では答えたものの、箸はあまり進まなかった。
将平はそのことにすぐ気づいた。
再び気持ちが沈んだ。彼女の好みについて、自分はほとんど何も知らないのだ。
せっかく買ってきた、昔好きだったティラミスさえ、彼女は二口しか食べなかった。
午後、二人はカジノに戻らず、ショッピングエリアへ向かった。
将平は美桜に服選びを手伝ってほしいと言い出し、そこで初めて彼の服が少し大きめで、デザインも古いことに気づいた。
彼の立場を考えれば、普通はありえないことだ。
どこか不自然だった。
美桜は彼と知り合って間もないため好みがわからず、自分のセンスでいくつか選んだ。
既製品も悪くはないが、高級なオーダーメイドにはかなわない。
ブランドショップではサイズ調整だけでなく、カフスボタンなど細かい部分までカスタマイズできる。
店員からカフスボタンやブローチなどのアクセサリーも勧められた。
将平は美桜に選ばせた。
彼女は無難でシンプルなデザインのカフスを二つ選んだ。
選び終えたが、将平はどうも納得していないようだった。
購入を確認する際、美桜は少し迷い、自分が気に入ったルビーのカフスを選んだ。
宝石がライトに反射して細やかな輝きを放ち、選んだカジュアルなスーツともよく合っていた。
美桜が将平を見上げると、彼の目にわずかに笑みが浮かんだ。
これは偶然だろうか?自分のセンスが元妻と似ているのか?
彼女はひとつ試してみることにした。
靴を選ぶとき、あえて自分の好きな、明るい雰囲気のものを選んだ。
明らかに将平には似合わないが、彼はそれでも受け取った。
いくつか試した結果、美桜はある大胆な結論に至った。
将平は元妻の好みなど実は知らない。ただ、美桜の好みを元妻のものだと思い込んでいるだけだった。
この結果は彼女の仮説を証明するものだった。
そして、彼女が初めから感じていた通り――自分の思い込みに酔っているだけの、最低男だと確信した。
本来は喜ぶべきなのに、将平が元妻について何も知らないほど、自分の任務が有利になるはずなのに、なぜか心は晴れなかった。
胸の奥に湿った綿のような重苦しさが広がる。
おそらく、将平が過去を語る時のあまりに強い感情が、彼女の心にも染み込んだのかもしれない。
あるいは、彼女自身が、いつの間にかすり替えられた女性に同情していたのかもしれない。
初航のイベントも終わりに近づいた。
将平は美桜に、これからの予定を尋ねた。
彼女は穏やかに微笑んで、「ディーラーを続けるつもりです」と答えた。
将平は特に反応を見せなかったが、その晩、マネージャーから「航海が終わったら将平と一緒に船を降りてほしい」と伝えられた。
「一緒に降りる」という言葉は曖昧だった。
雇われるのか、それとも愛人になるのか。
この場所では、普通は後者だ。
美桜は驚かなかった。それによって、わざわざ近づく手間が省けたのだから。
上陸の日、彼女は将平の指示通り一緒に船を降りた。
将平はどこか落ち着かず、何度も言いかけては口をつぐんだ。
美桜は不思議に思った。自分で決めたはずなのに、いざ彼女がついてくると不機嫌になるのかと。
その理由がわかったのは、桟橋に立つ細身の女性を見た時だった。
なるほど、奥様が迎えに来ていたのだ。
美桜が将平の傍に現れて以来、白鳥紗耶香の耳にも噂が届いていた。
将平は彼女を徹底的に守っていたため、紗耶香はいくら調べても美桜の正体を突き止めることができなかった。
将平がこの女性を連れて行くと知り、紗耶香は怒りを抑えきれず、将平の怒りを買うと知りながらも、桟橋まで自ら迎えに来た。
久々に将平に会いたかったのもあるが、彼が大切に守る女性がどんな人なのか、この目で確かめたかった。
海風が強く吹き、彼女のスカーフが風に舞い、クルーズ船の方へと流れていく。
そのスカーフが将平の肩に触れかけた瞬間、後ろから伸びた細い手がしっかりとそれをつかんだ。
将平が身を引くと、彼の後ろにいた女性の顔が現れた。
その顔を見た瞬間、白鳥紗耶香の瞳孔が大きく開いた。
手に持っていたブランドバッグが地面に落ち、風に煽られて倒れて、鈍い音を立てる。その音に周囲の人々も思わず振り返った。