放課後。
そうしてみんな、それぞれの放課後に歩き出すのだ。
階段の踊り場のガラス張りから覗く景色からは、風に揺られた花びらが空を舞っていた。
この間まで満開だった桜は、跡形もなく散った。日の沈みゆく光景も、やがてこの瞬間には拝めなくなるだろう。
微かに感じる情緒に酔いしれながら、目的地へと意識を変える。
いつもなら階段を降り切った勢いそのままに昇降口へ向かうはずだが、今回はちょっとしたおつかいを頼まれているので、真逆の方向へ進まざるを得ない。
隣を歩く
踊り場から差し込む西日を眺め、一日の終わりを感じる。
何気ない日常の風景の繰り返し。高校生活三年間――千を超えるそんな日常の一つが、また何気なく終わろうとしていた。
そう。何気ない日々。ありふれた日常。
だから、俺たちにとっては
「おい、どういうことだこれ?」
「いや……その」
「お前さあ、俺たちとの約束覚えてる?」
階段の踊り場のすぐ下。備品の一時的な置き場になっている空き空間に、複数人の男子生徒の声がした。
どうも会話の内容は温和なものではないようで、怒気を孕んだ男子生徒に対して青ざめた顔色の影。それも前者は三人だ。
「俺らに一万ずつ、合計三万。なのにお前の財布には一万どころか五千円札しかないじゃんか。俺ら、昨日言ったばっかだよな」
「もしかして忘れたとか言うんじゃないよな? 俺はお前の記憶力が心配なんだよ、なんせお前は――
「――『普通科』なんだから」
一人がわざとらしい溜めを作って吐き出した。その言葉に、他の二人が噴き出すように笑い声をあげる。
「そっかそっか。普通科だから忘れちまったか。なら仕方ねえ――なんて言うとでも思ったかよッ!」
また一人が、語気のままに積み重なった段ボールを蹴り飛ばした。授業の教材が入っていたのだろう、ガラスの割れる音が辺りに響いた。
「てめえ、オレらに逆らったってことだよな。普通科のお前が、『特進』のオレらに? 舐めたマネしてんじゃねえぞああ⁉」
詰め寄られる男子生徒――普通科と称される彼は、今にも泣き出しそうに全身を硬直させている。
そしてその恐怖は、周囲に伝搬する。
彼らの横を偶然通過した女子生徒が、ガラスの割れる音にびくりと肩を震わせた。不幸なことにその様が男の目に入ったようで、
「……なに見てんだよお前。お前も普通科だろ? お前も一緒にヤるか?」
女子生徒と目を合わせた男。自らを『特進』と名乗った男は、その女子のもとへずかずかと歩み寄る。
それも、女子の方は二年――俺と同級生だ。大して特進の連中は全員、上履きのソールが赤。つまり後輩、一年生ということになる。
にもかかわらず、特進のやつらはむしろ強気に、怯える女子生徒を取り囲んでいる。
「まあ、待てよ。……なあアンタ、二年だよな。俺たちは礼儀正しい後輩だから、アンタは見逃してあげるよ。……その代わり」
仲間の一人が、詰め寄る男の肩を叩いて、女子生徒に向き直る。
朗らかな声色で告げられたのは――――しかし、無情な通告だった。
「コレ、先輩がやったことにしといてね」
低い声で紡がれた
震える喉からはうめき声すら出てこない。荒い息を吐きだしながら頷くことが、彼女にできる唯一の肯定の動作だった。
これも、いつも通りの光景だ。
海南高校に存在する二つの人種。『特待生』と『普通科生』。彼らの間には、明確な強弱の溝が存在している。
強者は闊歩し、弱者は怯えて過ごす。運悪く捕まった弱者を囮に、他の普通科生徒はその場から逃げるように立ち去る。
俺や滝田のような対人関係に多少なりの心得がある人間ならともかく、先の彼らのような気弱な人種は、特待生にとって格好の餌食なのだ。
悲痛な現場に居合わせて、俺は一瞬立ち止まり、すぐに踵を返した。
まあ理由がなんであれ、原因がどうにしろ、放っておくのが得策だ。俺まで巻き込まれちゃ世話ねえからな。
触らぬ神に祟りなし。面倒ごとには首を突っ込まない、これ常識。
その意識が俺に向かないうちは、黙って見過ごす。
俺はまっすぐ歩き出した。
*
「……さて」
扉の前で一息ついた。
海南高校の特別棟。目的の部屋までたどり着くまでに特段なにかがあったわけではないが、三階の奥の部屋というのがどちらか分からず思わぬ労力を要した。ともあれ、ここが廻戸先生の言っていた部屋で間違いないだろう。
しかし、わくわくしてきたな。古くから使われていない一室、お宝の一つや二つ眠っているのではないかと期待してしまう。まさか、先生は俺とこの宝の山(仮)を山分けする目的で鍵を託したのか? いやあ話の分かる人で助かりますねえぐへへ。
それでは、すべての真相を確かめに行きましょう。
鍵穴に例の鍵を差し込んだ。契約のもと あまねが命じる 『
がちゃ。
「……あれ」
がちゃがちゃ。
おかしい。空いた手ごたえがない。
いや。空いている。俺が鍵を差し込んで捻る動作をするその以前に、この開かずの扉は開錠されているのだ。
まさか、既に誰かが居るというのか?
となると誰が。どうあれ、真相は開けてみないと分からない。
覚悟を決め、おそるおそる手を伸ばす。
「し、失礼しまーす」
いるかも分からない相手に会釈をし、少しづつ戸を開ける。
四分の一ほど開いたが、まだなにも見えない。
ええい、もう全部開けちまえ。そう思い立った俺は扉を勢いよく開け切った。
「だれか居ま――」
「ぁああーっ! ぐ、この! なんだこいつ相性悪すぎでしょ! 技の発生速すぎだっつーの! だ! リーチも長いとかどんだけ欲張りなのよ避けられるかこんなの! あ、こいつ! こいつ今煽ってきた! ぜったい許さない地の果てまで追いかけてシバき倒してやる! ほら、ほら! ほらーどうよこの撃墜コンボ! 煽ってた相手に逆転されて煽り返されるなんてどんな気分⁉ あははっははは‼」
「――す、か」
直後に視界に飛び込んできた光景は、およそ信じがたい現実だった。
人の立ち寄らない校舎の、そのさらに奥に構える一室。
まずもって、人がいた。部屋の鍵は俺が持っている。
それよりも重大な問題は、その人物の素性だ。
この部屋の空気に見慣れない人物は、そのうえ信じがたい態度でそこに存在していた。
視線の先では、一人の少女がコーヒーカップの置かれた会議テーブルの上で足組をし、映像資料用のモニターに家庭用ゲーム機の配線を繋ぎ、大画面で対戦アクションゲームに熱中していた。
「あ、あのー」
「んー、きもちいー! はああ、疲れた。いったん休憩しよ」
「あの」
「それにしても、こんなところを誰かに見られたらひとたまりも、な……ぃ」
「あ」
「………………ぇ」
少女は、予期せぬ俺の登場に驚愕の表情を浮かべていた。
完璧な顔立ちで見開かれた大きな目に、力の抜けたようにこれまた開かれた小さな口。
同時にバランスを崩しテーブルに手を着くと、がたんからんと音を立てて、シーソーみたいに反動で置かれていたコーヒーカップが宙に浮いた。
重力に従い地に引き寄せられる物体。
一瞬にも満たない事象が、俺たちには永遠のように永い時間の中でのことだと感ぜられた。
少女は咄嗟にカップへ手を伸ばし、着地の阻止を図る。
「はっ! ……よ、しぃっ⁉」
慌てながらもカップは守り抜き、中身が数滴零れるにとどまったが、その動作により慣性の乗った上体は勢いのまま椅子ごと後ろへひっくり帰ってしまった。
薄暗い部屋には悲鳴と衝撃が響き、次の一瞬には嘘みたいな静寂が広がった。
半開きの窓からはヒバリのせわしい鳴き声と春風が差し込んでくる。古臭さを感じる埃が、春ただ中のあたたかい風に舞う。
そして眼前には、横たわる人の姿。
俺は起き上がらない人影におそるおそる話しかける。
「あんたは……」
乱れた茶髪。テーブルの上にスラっと伸びる細く長い足。
コーヒーと、甘い柔軟剤の匂い。
「
学校一の美少女が、そこにはいた。