私の名はスカーレット・ウィンザー。ウィンザー公爵家の長女として生を受け、この国の公爵令嬢に相応しく教養と礼儀作法を叩き込まれてきた。
幼い頃から「王太子妃になるべく育てられた娘」である私は、周囲から敬われ、あるいは嫉妬も受けながら日々を過ごしている。既にご存じの方もいるかもしれないが、私はこの国の王太子――エドワード殿下の婚約者だ。私が十歳を迎えた頃、先王や父母同士の取り決めにより「将来、王太子の妃に」と約束された。当時の私はまだ幼く、将来がどれほど重い意味を持つか理解していなかったが、いつしか成長するにつれ、その責務の大きさと「国を背負う」ことの意味を学んでいった。
しかし、王太子妃として迎えられるはずだった私の運命は、どうやら今日を境に大きく変わろうとしている。そう、もうじき開かれる王宮での夜会で、私は「婚約破棄」を宣告される――そんな予感がひしひしと感じられるのだ。
こう書くと、とても冷静なように見えるかもしれない。しかし実際、私の心は思いのほか穏やかだ。むしろどこか解放感すら覚えている。こんなことを言えば不謹慎だろうが、王太子であるエドワード殿下との婚約は、私にとっては既に形骸化しているものだった。表向きは「将来の国母」として大切に扱われているけれど、殿下のほうは社交界でも派手に遊び歩き、近ごろは特定の女性と親密な関係にあると噂されている。
その女性の名はイザベル・ラファエル。侯爵家の令嬢で、美貌と甘え上手な性格で多くの貴族男性を虜にしているらしい。しかも最近はエドワード殿下に取り入ることに成功したらしく、どのパーティでも隣を確保しているとの噂だ。私にしてみれば、「まぁ、そういうこともあるでしょう」と諦観の思いが先に立つ。私が子どもの頃から憧れていたのは、あくまで“王太子との婚約”という概念ではなく、自立した生き方と、そこにある穏やかな未来だった。
――けれど、少なくとも私の両親やウィンザー家の者は、必ずしもそう思ってはいない。特に父は、王家との縁が切れることを恐れ、そして公爵家の名誉を重んじている。万が一、私が婚約破棄などされようものなら、どれほどのスキャンダルになるか分からない。今のところ、私が『王太子に捨てられた』という醜聞が広まれば、ウィンザー家の地位に影響が出る可能性もある。実際、両親はエドワード殿下の不誠実な態度をそれとなく察しているものの、波風を立てぬよう必死に動いていた。
しかし、それでも殿下の心変わりは止められないだろう。私にはもう、そんな“相手のために自分を偽る”ようなことを続ける気力もない。むしろさっさと婚約破棄されてしまったほうが、私自身はずっと気が楽になる。
とはいえ、だからといって何も考えていないわけではない。ウィンザー家は代々、公爵家として国政に深く関わってきた実績がある。私もまた、ただ王太子に嫁ぐだけの人形として生きるつもりは毛頭なく、幾つもの「知識」と「情報」を集め、自分なりのネットワークを築いてきた。
――今回の婚約破棄を機に、私は少しだけ「やりたいこと」があるのだ。
夜会の当日、私は少し早めに自室を出た。ドレスは淡いクリーム色をベースに、胸元からスカートの裾にかけて上質なレースがあしらわれている。貴族令嬢としては多少控えめな色味かもしれないが、今宵は目立ちたくはなかった。婚約破棄される女として晒し者になるのは御免だから、せめてドレスくらいは落ち着いたものを選びたかったのだ。
だが、そんな私の思いを察していないのが、侍女のオリヴィアだ。
「お嬢様、本当にそれでよろしいのですか? もっと映える色をお召しになっても……」
「いいのよ、オリヴィア。今日は……あまり注目されたくないの」
「ですが、お嬢様こそ未来の王太子妃。皆様があれこれ噂するでしょうに……」
あれこれ言いたいのは、むしろ私だ。どうせ今夜、王太子のほうから婚約破棄を言い渡されるのだから、華美な装いで挑んでも仕方ない。むしろ地味なくらいがちょうどいい。
オリヴィアは私が幼い頃から仕えてくれた侍女で、彼女なりに私のことを心配してくれているのだろう。私もそれを分かっているし、その気持ちはありがたいと思う。だからこそ私は、「大丈夫よ」と返すに留めた。
「今夜の舞踏会が終わったら、少し私も自由に動けるようになるわ。だからオリヴィア、心配しないで」
そう告げる私の言葉に、オリヴィアは一瞬だけ眼を丸くした。「それはどういう……?」と聞かれたが、私は微笑むだけで何も言わない。
――そして、いよいよ王宮の夜会が始まる。今回の夜会は、王太子が主催するものではなく、国王陛下が催した“春の祝宴”だった。各地から貴族たちが招かれ、華やかに装った男女が一堂に会する。会場となる大広間は壮麗で、壁面には歴代国王の肖像画が飾られ、天井には巨大なシャンデリアが輝いていた。
私は両親と共に会場に足を踏み入れる。すると、すぐに王太子の姿が視界に入った。あの金色の髪を持つ美貌の王子は、今日も堂々とした姿で多くの女性たちを惹きつけている。
エドワード殿下の隣には、噂のイザベル・ラファエルがいた。薄いピンク色のドレスを着こなし、愛らしく笑みを浮かべる姿はまるで人形のようだ。私の目の前で「王太子の隣」を占める彼女のことを羨むつもりは全くないが、その立ち振る舞いの巧さには感心する。まるで長年培ったかのような「他人を惹きつける技」を持っているようだった。
さぁ、今宵はどんな言葉で婚約破棄を宣告してくださるのか――。そんな思いで私は心の中を静める。両親は王太子の視線を感じ取り、軽く会釈をする。エドワード殿下も一瞬こちらに目を向けたが、私がいることなど見えていないかのように、すぐにイザベルに話しかけた。
もちろん、それだけで公衆の面前で恥をかいたなどとは思わない。もはやこういうことは慣れっこだ。むしろ、このまま何事もなく宴が進んでしまうよりは、さっさと婚約破棄を突きつけてほしいと思ってしまう自分がいる。
やがて、乾杯の合図が告げられ、夜会は本格的に始まった。宴席の中央にはダンスのためのスペースがあり、貴族たちは思い思いに談笑を楽しむ。私も一応は公爵令嬢として、あちこちで声をかけられる。もともと私は「将来の王太子妃」という立場ゆえに会話の相手は絶えないのだが、今日ばかりは私の機嫌をうかがいに来る人々もいるようだ。
「スカーレット様、今日は少しご機嫌斜めではないですか? 何かご心配でも?」
「いえ、何も。少し考えごとをしていただけですわ」
私は当たり障りのない笑顔を返す。彼らはきっと、殿下とイザベルの関係を知ってのことだろう。あるいは単に私の反応を探って楽しんでいるだけかもしれない。まったく、貴族社会などというものは、他人のスキャンダルこそが最高の娯楽なのだから。
そんな中、宴席の端で父と話していたのは、第二王子のアレクサンダー殿下だった。アレクサンダー殿下はエドワード殿下の弟にあたるが、兄に比べて穏やかな性格をしていると評判だ。年齢は私とほぼ同じくらいで、政治や文化に関する知識が豊富であることも噂に聞く。
ちらりと視線を向けると、アレクサンダー殿下は何やら真剣な表情で父の話に耳を傾けている。父も珍しく強い口調ではなく、丁寧な態度だ。ウィンザー家は伝統的に国政に協力してきた家柄であり、父も政治の裏事情に通じている。第二王子が政治に興味があるのなら、ウィンザー公爵は無視できない存在なのだろう。
――もっとも、私にはまだ直接関係のないことだ。少なくともこの夜会が終わるまでは。
しばらくして、舞踏の音楽が鳴り響く。ペアを組んだ男女が円を描き、曲に合わせて優雅にステップを踏む。私も数名の男性から誘いを受けたが、丁重に断った。正直なところ、今は踊る気分ではないのだ。
すると、やはりというべきか、王太子エドワード殿下がイザベルをエスコートしてダンスに加わる。舞踏会では、未婚の男女がペアを組むとそれなりに噂になるが、イザベルは噂されることこそ望んでいるように見える。最高のステージで“現王太子のお気に入り”として脚光を浴びることが、彼女の願いに違いない。
その姿を、私はあまり感情を動かさずに眺めていた。「私の婚約者なのに」と嫉妬する気持ちは、不思議と湧いてこない。もはや彼とは、婚約者という形だけの関係に過ぎないのだと分かっていたから。
曲が終わり、二人は大きな拍手を浴びながら中央から退く。イザベルは得意げに微笑み、エドワード殿下は勝ち誇ったように胸を張る。そのまま殿下の視線が私を捉えたとき、彼の口元には薄い笑みが浮かんでいた。まるで「どうだ、羨ましいだろう」と言わんばかりだが、私はただ軽く会釈をしただけ。
その態度が気に障ったのか、エドワード殿下はイザベルに一言声をかけると、まっすぐこちらへ近づいてくる。周囲の貴族たちは何が起こるのかと注目している。
「スカーレット、お前は私の婚約者だというのに、なぜダンスに参加しない? 踊りのひとつもしないとは、まるでこの場にふさわしくない態度だな」
挑発するかのような言葉に、私は穏やかな笑みを浮かべる。
「殿下こそ、私を誘うことはなさらないのでしょう? でしたら私が自発的に踊る相手など、他にいるはずもありませんわ」
「ふん……お前はいつもそうだ。私の動きに合わせるだけで、自分から何かをしようという気概がない」
周囲に聞こえるように、わざと大きな声で言うエドワード殿下。その視線の先にはイザベルが映っている。イザベルはどこか楽しそうにこちらを見ていた。どうやら、公開処刑でも見る気分なのだろう。
私は心の中で小さく息をつく。なるほど、彼はここで私を恥ずかしめ、「自分が婚約破棄を言い渡すに値する女」だと人々に認識させたいらしい。
「そうですか。私が気概に欠けているとお感じなら、今後の殿下のお側にはふさわしくないかもしれませんね」
敢えてさらりと嫌味を返すと、エドワード殿下は目を細めた。そして、まるで私の言葉を待っていたかのように声を上げる。
「その通りだ。お前のような冷たい女は、私には不要だ。私の隣にはもっと情熱的で、私を心から支えてくれる女性が必要だ。……そう、イザベルのようにな」
周囲がざわめく。私は心の中で「やはり来たか」と思いながらも、表情を変えず静かに殿下を見つめる。
「スカーレット・ウィンザー。ここにいる皆の前で宣言しよう。私は、お前との婚約を破棄する。――これをもって、お前はもう私の婚約者ではない」
その一言を合図に、大広間には一瞬で沈黙が落ちた。驚き、興奮、嘲笑――さまざまな感情が入り混じり、誰もが次の言葉を待っている。私が取り乱すか、泣き崩れるか、あるいは怒り狂うか。人々の視線が突き刺さる中、私はただひとつ、「分かりました」と短く答える。
「……はい?」
エドワード殿下は、まさか私がそんなにもあっさり婚約破棄を受け入れるとは思わなかったらしく、拍子抜けした顔をしている。
「ただいま殿下が仰った通り、私は殿下にとってふさわしくない存在なのでしょう。ならば婚約を破棄されても仕方ありませんわ」
その言葉は私の本心だった。けれど、周囲から見れば、あまりに淡々としすぎている。すぐ近くで見ているイザベルは、何やら拍子抜けしたような表情を浮かべていた。彼女としては、私が泣き叫ぶ様でも期待していたのだろうか。
「ふ、ふん……やけに素直だな。まさか、私の決意が揺らぐなどと思っているのではあるまいな?」
エドワード殿下はなおも挑発的に言うが、私の態度は変わらない。
「いいえ、殿下のお気持ちは固いのでしょう。であれば、私はそれに従うだけです。――ありがとうございます、殿下」
「……な、何だと?」
自然と出てしまった言葉に、エドワード殿下だけでなく、周囲の貴族たちまでもが息を呑む。婚約破棄をされた女が「ありがとうございます」と言うなど、普通では考えられないだろう。
だが、それが私の正直な気持ちだ。何度も言うように、私はすでにエドワード殿下という相手に希望も愛情も抱いていない。それどころか、ここ数年の彼の行動を見聞きしてきた私には、むしろ“解放された”という気持ちすらある。
エドワード殿下は少しだけ焦ったような顔をしている。こんな場で婚約破棄を宣言するなら、“振られた女”のほうが取り乱し、自分を責め立てるか、あるいは周囲から同情を買うかして騒ぎ立てるだろう、と想定していたに違いない。ところが私は冷静で、むしろ穏やかですらある。そんな私を見て、殿下は苛立ちを隠せないようだった。
「お、お前……。まったく、可愛げのない女だ。いいだろう、では今ここで正式に発表させてもらう。――皆、聞け! 私は今日をもって、スカーレット・ウィンザーとの婚約を破棄する!」
王太子の大声が大広間に響く。人々は大きな衝撃を受け、ざわざわと動揺する声が広がった。中には、「ウィンザー家への侮辱だ」などと怒りを露わにする者や、「ああ、あの公爵令嬢もついに見捨てられたか」と楽しむ者もいる。そう、このようなスキャンダルは貴族社会の格好の話題。しばらくはこれで持ちきりになることだろう。
しかし、私の両親――特に父は事態を重く見ているようで、こちらに駆け寄ってきた。
「スカーレット! 一体どういうことだ!」
慌てふためく父に、エドワード殿下は嘲笑うかのように言い放つ。
「公爵、悪いがあなたの娘は私にとって退屈極まりない。これまでの婚約は父王や先王との約束ゆえに維持していただけだが、私にはもっと相応しい女性がいる。すなわち……イザベル・ラファエルだ」
その発言に、イザベルは軽く微笑んだものの、私と同じようにどこか戸惑っているようにも見える。おそらく、婚約破棄まで一気に公言するとは聞いていなかったのだろう。
父は真っ赤な顔で声を荒げる。
「殿下、それはあまりにも……! 我がウィンザー家との盟約を一方的に破るというのですか? このままでは、大きな波紋を呼ぶことになりますぞ!」
「構わない。私は王太子だ。決定権は私にある。もちろん、国王陛下のお許しも得ている。ウィンザー公爵、あなたもこれ以上逆らうと、王家にとって邪魔な存在として見なされることになるかもしれないが……それでもいいのか?」
父は言葉を失った。王家に敵対してまで、私を王太子妃に据えようとは思っていないはずだ。私自身もそれを望むわけがない。
「……スカーレット、どうなんだ。お前はこれでいいのか?」
父は最後の頼みの綱のように、私に問いかける。だが私の答えは変わらない。
「父様。殿下のお気持ちは変わらないでしょう。私にはどうすることもできません。それに、もう私たちの間には何もないのです。きっと、こちらのほうがお互いのためになると思いますわ」
それだけを言うと、父は私と殿下を交互に見つめ、やがて唇をかみしめた。王太子との縁談が破談となれば、公爵家としては大きな痛手だろう。だが、ここまで公言されてしまった以上、今さら取り繕うことはできない。
大広間の空気は依然としてざわめいているが、エドワード殿下は「これで終わりだ」とでも言いたげに手を振り、「皆、盛り上がりはこれからだぞ」と笑顔を取り繕っている。実際、多くの貴族は混乱しながらも、これを一つの“娯楽”として受け止める人間もいる。
エドワード殿下はイザベルの手を引き、大広間の中央へと戻っていった。周囲は拍手や口笛こそ上げないが、「王太子の新たな愛人か」と興味深げな視線を注いでいる。イザベルは満面の笑みで応じつつ、内心はどこか落ち着かないのだろう、ちらちらとこちらをうかがっているように見えた。
一方、私は突き放された――そう、世間からは見えるだろう。しかし、それならそれで構わない。むしろ私が望んでいた通りの結果になったとも言える。両親の気持ちを考えると複雑だが、これから先は私の人生を私自身で選びたいと思っていたのだ。
やがて私のもとに、第二王子のアレクサンダー殿下が足早に近づいてきた。周囲の人々は、今度は何が起こるのかとさらに注目を向ける。
「スカーレット・ウィンザー……いや、元婚約者とお呼びすべきか。随分と騒がしい場となってしまったな」
アレクサンダー殿下の声は穏やかだが、その瞳には何かを探るような光がある。
「アレクサンダー殿下……ご心配をおかけして申し訳ございません。兄上があのような宣言をなさったのは、私にとっても想定内のことであり……」
「想定内、か。なるほど。さきほどから見ていたが、お前の態度は実に落ち着いていた。普通なら、あのような公衆の面前での婚約破棄には泣いて怒って取り乱すものだが……」
その言葉に、私はわずかに微笑む。
「私だって、取り乱したって何も変わらないことは分かっていますもの。むしろ、殿下の思い通りに動揺するのは悔しいですわ」
アレクサンダー殿下は納得したように頷いたあと、小さく声を落として言う。
「……ウィンザー公爵家が苦境に立たされるのは、避けられないだろう。だが、今のまま黙っているのも癪だ。もしお前に何か考えがあるなら、後日、私のもとへ来い」
それだけ言い残すと、アレクサンダー殿下はすぐに踵を返した。私はその後ろ姿を見つめながら、心の中で密かに言葉を噛み締める。――「もしお前に何か考えがあるなら、私のもとへ来い」。なるほど、アレクサンダー殿下は私が何らかの計画を持っていることを察しているらしい。さすが第二王子というべきか、その洞察力は一筋縄ではいかない。
私は視線を落としながら、胸元にそっと手を当てた。そこには、ある人物から託された書簡が仕込まれている。――“王家が関わる不正の証拠”に繋がる糸口となるものだ。もともとはウィンザー公爵家の情報網を使い、これを調査していたが、婚約者の立場では動きづらい部分が多かった。
エドワード殿下は、王太子としての地位を使って不正に利権を得ているらしい――そんな噂を聞いたのは一年前だ。私は最初、馬鹿げた風説だと思っていた。けれど調べを進めるにつれ、どうやら「彼の周囲の取り巻き」が怪しげな貴族や商人と手を組み、裏で巨額の利益を得ているという事実が浮かび上がってきたのだ。
もし王太子の汚職が公に知られれば、彼の地位は脅かされる。私は、たとえ自分が王太子妃となったとしても、そんな腐敗した“王家の傀儡”になりたくはなかった。
――だから私は、あえて静かに彼の行動を見守ることにし、その間に情報を集め続けていた。だが、いつかは決断しなければならないと思っていた。王太子に従うのか、それとも彼を告発し、この国を変えるきっかけを作るのか。
ところが、エドワード殿下は自ら私を捨てた。婚約破棄をされれば、私は王太子妃になる立場を失う代わりに、一人の貴族令嬢として自由に動きやすくなる。「王太子妃の座を狙って、むやみに王家を揺るがすようなことを企む女」とは思われにくくなるからだ。
……もちろん、これから私が動き出せば、王太子とその取り巻きから何らかの妨害があるかもしれない。けれど私は、そのリスクを恐れるよりも、この国を守りたいという気持ちが強い。ウィンザー家は代々、国王に忠誠を誓い、国を支えてきた。しかし、今の王太子が王位を継いだ先には、国全体が衰退する未来が見えてしまうのだ。
その点、アレクサンダー殿下は真面目で勉学熱心だと評判だ。もしも将来的にこの国を導く存在が彼であれば――という思いが、私の胸にかすかな光を灯している。
そんな考えを巡らせていると、ふと周囲の視線が再び私に向けられていることに気づいた。私は慌てて取り繕う必要はないと判断し、軽く深呼吸してから視線を上げる。
そこには、私を取り囲むように集まってくる貴族令嬢たちの姿があった。皆、一様に好奇や憐憫、あるいは嘲笑を含んだ瞳でこちらを見ている。
「まぁまぁ、スカーレット様。大変でしたわね。王太子殿下もずいぶんな言い草で……」
「そうですわ。婚約破棄だなんて、ひどすぎますわ。お気の毒に……」
「大丈夫? ねぇ、今のお気持ちはどうなのかしら? やっぱり、悲しい?」
彼女たちは表面上は心配そうにしているが、その実、私の反応を品評して楽しんでいるのだ。貴族社会で生きる女性たちにとって、こうした“ざまぁ”な展開は格好の娯楽である。自分たちが優位に立っていると思えば、いくらでも同情のふりをして近寄ってくるし、裏ではどんな噂が飛び交うか分からない。
しかし、今の私はもう取り乱すこともない。むしろ、彼女たちの好奇心に乗じて、内心では少しほくそ笑んでいる。
「ありがとうございます。お気遣い感謝いたしますわ。でも、私などには過ぎた縁だったのでしょう。こうして皆様にご心配いただけるだけでも、救われます」
あえてしおらしい態度を取り、控えめに微笑むと、令嬢たちはさらに興味津々の様子だ。一人が口を開く。
「スカーレット様は、今後どうなさるの? 王太子妃の座を失ってしまった今……」
「そうですわ。ウィンザー家といっても、公爵家ではありますけれど……将来的にどのような道を?」
彼女たちは私を見下そうとしているのだろう。王太子の婚約者という後ろ盾を失った私は、もう彼女たちにとって“羨望の対象”ではない。ならば今度は“同情の対象”として扱って優越感に浸りたい――きっとそういう心理なのだ。
私は微笑みながら、わざと遠回しに言う。
「まぁ……これからは自分の好きなことをさせていただけるかしら、と考えておりますわ。幸い、私には学ばせてもらったことが多くありますし……」
「はぁ……そうですか。あまり身の程をわきまえずに、危ないことなどなさらないように」
「ええ、もちろん。お気遣い痛み入ります」
そう言うと、令嬢たちはどこか物足りなさそうな顔をして、一旦は散っていった。どうやら、私が大泣きしたり憤慨して掴みかかったりという絵面を期待していたらしい。それが拍子抜けに終わってしまったので、興味が失せたのだろう。
私は彼女たちの後ろ姿を見送りながら、静かに息をつく。――さて、これで「公式」に王太子エドワードとの縁は切れた。あとはウィンザー家としての立場をどう取り繕うか。
両親は今、何やら別の貴族と話し込んでいる。おそらく王家に取り入って火消し役を買って出ているのだろう。すぐに私のもとへ駆け寄ってこないところを見ると、父も母も、こういう状況をある程度予想していたに違いない。王太子の浮気まがいの噂は、決して今に始まったわけではないのだから。
私は誰に何を言われようが、今はただ、「これでやっと動ける」と考えている。もしエドワード殿下の不正が真実であるなら、早い段階で王宮に内在する腐敗を明るみに出さなくてはならない。でなければ、この国は遠からず歪みをきたすだろう。
――ただ、王太子を告発するというのは、命がけの行為でもある。私がその渦中に飛び込めば、あらゆる権力を用いて潰される可能性が高い。正直なところ、ウィンザー家の力を持ってしても、全てを乗り越えられるかは分からない。
だからこそ、今は第二王子アレクサンダーに協力を求めるのが最も現実的な方法だと感じている。彼は王家の一員でありながら、王宮内の不正を見過ごすような人ではない――というのが私の知る限りの印象だ。彼は政治や社会の仕組みに対して真摯に向き合う人物として、学問の世界でも評判がいい。
婚約破棄という大きな転機を迎えた私は、これからどう動くべきか。頭の中では既に幾つものシミュレーションを立てている。――その第一歩は、きっと彼との密談だろう。
大広間は、まだまだ熱気に包まれたままだ。エドワード殿下とイザベルの姿は目立ち、周囲の貴族たちはそれを眺めながら議論に花を咲かせている。王太子による華やかな恋愛劇が繰り広げられ、捨てられた側の私はさぞ惨めだと思われているのだろう――だが、あいにく私は惨めな気分など微塵も感じていない。むしろ、これほど気持ちが軽いのは初めてだった。
「お嬢様……」
声をかけてきたのは侍女のオリヴィアだ。先ほどの一部始終を遠巻きに見守っていたのだろう、目に涙を浮かべている。
「本当に、婚約破棄されてしまいましたね……。お嬢様、どうなさるのですか? このままではウィンザー家も……」
彼女は、私が沈み込んでいるとばかり思っていたのか、悲痛な面持ちだ。私は柔らかく微笑んで、彼女の手をそっと握る。
「オリヴィア、私は大丈夫よ。いずれこうなることは分かっていたもの。それに、私にはまだやりたいことがあるから……それを果たすための準備をしなきゃならないわ」
「やりたいこと……ですか?」
「ええ。詳しくは言えないけれど、私はこれでようやく自由になれたの。王太子の婚約者という立場では動きにくかったことが、たくさんあったから」
オリヴィアは私の言葉を聞き、驚きつつも少し安心したように息をつく。そして、意を決したように言葉を続けた。
「私はお嬢様に仕える身です。どのような道を選ばれても、お嬢様の傍におりますよ。……もし、ウィンザー家から出ていくことがあっても、私をお連れくださいますか?」
そう問いかけるオリヴィアの瞳は真剣そのものだ。彼女は幼い頃から私の世話をしてくれた侍女であり、家族同然の存在でもある。私は頷いて、静かに囁くように答える。
「もちろんよ、オリヴィア。あなたがいなければ、私は何もできないもの。……ありがとう。これから先、あなたには私の計画を少しずつ手伝ってほしいわ」
「計画……」
オリヴィアは少しだけ怯えた様子を見せるが、それでも私への忠義心は揺るがないだろう。私にとって、オリヴィアの存在は非常に大きい。彼女が私を支えてくれるなら、これからどれほど困難な道を歩むことになろうと、乗り越えられる気がする。
そうして、私は一連の騒動の渦中にありながら、ひとまず大広間を後にしようと決めた。王宮の夜会はまだ続いているが、今さら私がこの場に居続けても、王太子の新しい“愛”を見せつけられるだけだ。父母には一言挨拶をして失礼することにしよう――そう考えた瞬間、私の脳裏にはある思いがよぎった。
(……ここはむしろ、堂々と最後まで参加しておくべきかもしれない。)
私は足を止める。もしここで途中退席すれば、「捨てられた女が逃げ出した」という印象を与えるかもしれない。だが、私は“捨てられた被害者”ではなく、“自分の意志で婚約破棄を受け入れた女”だ。その違いを、これから先の私の行動によってはっきりと示す必要がある。
周囲の令嬢たちは、私がどのように振る舞うかを注視している。ならばこそ、私は舞踏会が終わるまで、気丈にこの場に残り続けよう。
――そう決めると、私はもう一度深呼吸をした。そしてオリヴィアに向き直り、意識して明るい声を出す。
「オリヴィア、少し疲れたけれど……まだ踊りの時間は続きそうね。あなたは私の控え室で休んでいて。私はもう少し、堂々とここにいようと思うの」
「ですが、お嬢様のお身体が……」
「大丈夫。むしろ、ここで弱っている姿を見せるほうが不本意だわ。皆、私のことを笑っているかもしれないけれど、後々になって笑えなくなるのは彼らのほうよ」
オリヴィアはその言葉に困惑したようだが、結局は従うしかないと判断し、「分かりました」とだけ答えて控え室へと向かった。
こうして、私は婚約破棄が公然と宣言された直後の夜会で、なおも毅然と胸を張って過ごすことにした。いつもより親しく話しかけてくる男性たち――中には私を慰めるふりをしながら下心を見せる者もいたが、丁重にあしらう。そして時折、ちらりとこちらを見てくるエドワード殿下やイザベルの視線を無視し、淡々と微笑み続けた。
やがて、夜会が終わりに近づく。貴族たちの多くは興奮冷めやらぬ様子で退場し、今回の出来事を話題にするのは火を見るより明らかだ。私の婚約破棄は、瞬く間に国中に広まるだろう。そして王太子の新たな相手であるイザベルが、いかにして王妃の座を掴むのか――それが世間の関心事になるに違いない。
しかし、その裏で私は、別の目的のための準備を着々と進めている。婚約破棄を経た今こそ、自分の理想を叶える絶好の機会なのだ。
――これで第1章は終わり。ここから先、私は想像もしなかった形でアレクサンダー殿下と手を組むことになる。そして、“婚約破棄された女”から“国を揺るがすキーパーソン”へと歩んでいくのだ。