王宮での夜会が幕を閉じてから、まだ日も浅いある朝。
――私は、久しぶりに気の休まるひと時を過ごしていた。
「婚約破棄」などという大事件があった直後だというのに、自分でも驚くほど心が静かだ。公爵令嬢として生まれて以来、常に周囲の期待に応えることを最優先にしていた私にとって、重くのしかかっていた“王太子妃となる未来”という責務から解き放たれた今、まるで体が軽くなったようにも感じる。
しかし、現実がそう甘くないのも分かっていた。王太子エドワードとの婚約破棄が公になった以上、私とウィンザー家には避けられない激震が訪れるはずだ。
私が自室で書類の整理をしていると、扉の外から控えめなノックの音がする。
「お嬢様……失礼いたします。よろしいでしょうか?」
現れたのは侍女のオリヴィアだった。昨夜の夜会でも私を気遣ってくれた心優しい女性だ。いつも穏やかな表情を絶やさない彼女だが、今日はどこか浮かない顔をしている。
「どうしたの? そんなに硬い顔をして……」
「実は……先ほど、公爵様から“娘を応接室へ呼べ”というお達しがありまして」
なるほど、父が私を呼んでいるのか。きっと、婚約破棄後の対応をどうするか――あるいは、私が王太子にどんな態度を示すつもりなのか――そういった話し合いが必要だと思ったのだろう。
「分かったわ。すぐに行くから、少し待っていてちょうだい」
私は手元の書類をまとめ、机の引き出しにそっとしまう。そこには、あの夜会の最中に第二王子アレクサンダーが示唆してきた「何か考えがあるなら、私のもとへ来い」という言葉と結び付く情報の断片が含まれていた。
――王太子エドワードが、貴族たちと裏で私腹を肥やす取引をしている。最初は荒唐無稽な噂だと思ったが、調べるうちに少しずつ揃っていく“証拠の切れ端”たちは、確かにひとかたまりになろうとしている。
今の私には、これをどう使うかが大きな課題だ。婚約破棄を言い渡された直後だからこそ、逆に自由に動けるメリットもある。その一方で、周囲からは警戒されやすい立場になったというデメリットも忘れてはならない。
私は身支度を整え、オリヴィアと共に廊下を進む。ウィンザー公爵家の屋敷は、石造りの重厚な建築で、天井が高く、長い回廊はいつも少しだけ肌寒い。ここに生まれて以来、この空気感にも随分と慣れ親しんでいるものだが、今は少し違った気持ちで歩いている。
――私は、本当にこの家を守りたいと思っているのだろうか。それとも、捨て去って新たな人生へ向かいたいのだろうか。
そんな問いが胸をよぎる中、応接室へと到着した。部屋に入ると、父――ウィンザー公爵と母、そして一人の客人がソファに並んで座っている。
「父様、母様……失礼いたします。ご用件は何でしょうか」
軽く頭を下げた私に対し、父は渋い表情を浮かべながら「座れ」と一言。母もやはり苦しげな顔つきだ。客人については、私も面識がある人物だった。王宮で主に記録管理を担当している官吏――ヴァン・クレイグだ。まだ三十歳を少し超えた程度の若さながら、仕事ぶりが評価され、王室に仕えている。彼がここにいるということは、もしかすると正式な手続きを踏むための来訪かもしれない。
私は大人しくソファに腰を下ろす。すると父が、低く沈んだ声で切り出した。
「スカーレット……。お前も薄々は分かっているだろうが、昨夜の婚約破棄の宣言は既に王家にも正式に報告されている。今朝早くに、陛下の側近からも書状が届いた。つまり、お前とエドワード殿下の縁組は、もう覆らないということだ」
その言葉には、当然ながら私も衝撃を受けない。むしろ、「やはりそうなるよね」という程度の感想だ。母はハンカチをぎゅっと握りしめながら、痛ましげに私の様子をうかがっている。
「それで、これからウィンザー家としてはどう動くつもりなのか……父様は、既にお考えがあるのですか?」
私がそう尋ねると、父はちらりとヴァン・クレイグに視線を向けた。彼は短く言う。
「公爵からお話を伺い、ウィンザー家といたしましては“今回の破棄をやむを得ないもの”として受け止める、という方向で王家に伝達する予定です。もっとも、これを機にウィンザー家へ圧力をかけようとする貴族派閥もあるかもしれませんが……」
淡々とした口調だが、言っていることはなかなかに厳しい現実だ。王太子に見捨てられた公爵令嬢がいる家――そう認識されるだけで、社交界では立場が危うくなる。特に、私を笑いものにしたい一部の勢力はこの機会にウィンザー家を陥れようとするだろう。
父もそれを理解しているからこそ、昨夜はあれほど取り乱していたのだろう。だが今は、気を取り直したのか、あるいは公爵としての威厳を取り戻そうとしているのか、厳しい表情で言葉を重ねる。
「スカーレット、お前にはしばらく目立った行動を控えてもらう。王宮での夜会やパーティへの出席も当面は避けろ。社交界はともかく、宮廷内での噂話を収束させるためだ。そうしておけば、“捨てられた女が公に恥をさらさなくなった”と人々もその話題を消費し尽くしたころには、次の醜聞へ移ろう。これが最も穏便な道だ」
まるで、地面に伏せてやり過ごせと言わんばかりの提案だが、確かにそれが一つの手段であることは私にも分かる。何もせずに静かにしていれば、やがて人々の興味は薄れるだろう。王太子の新たな愛人――イザベルに焦点が移り、私のことなど忘れ去られるに違いない。
だが、私はそれでは満足できない。なぜなら、私には王太子の不正に関する“証拠”がいくつも手元にあり、そしてこの国を憂う気持ちがあるからだ。腐敗を見ぬふりをして、自分さえ逃げ切ればいい――そんな風に生きるのは、ウィンザー公爵家の誇りにも反する。何より、私自身の意志がそれを拒む。
「……父様。申し訳ありませんが、私は大人しく引きこもるつもりはありません」
はっきりとそう口にすると、父は目を見開いて私を睨む。母も怯えたようにこちらを見るが、私は構わず続ける。
「以前から申し上げているように、王太子殿下やその取り巻きが“国を私物化”している証拠があるのです。もし殿下がこのまま次の王として即位した場合、国全体が彼の腐敗に巻き込まれる可能性が高い。だから、私は――」
「やめろ」
父の静かな声に、私は言葉を飲んだ。その声には普段にはない鋭さが込められていた。
「いいか、スカーレット。王太子の不正を暴くなど、軽々しく口にするな。そんなことをすれば、ウィンザー家がどうなるか分かるのか?」
「それは……もちろん、危険な行為だとは承知しております」
「危険の度合いが違うんだ! もし本当にエドワード殿下の汚職を立証するつもりなら、お前だけでなく、我々ウィンザー家全体、あるいは使用人に至るまで、あらゆる形で弾圧されるかもしれない! 相手は王太子――国の頂点に立つ男だぞ!」
激しく打ち据えるような父の声。それが応接室の空気を震わせる。
「……父様がどれほどご心配なのかは分かります。でも、放っておけば、この国は殿下の私利私欲に振り回されるかもしれないのですよ。それを黙って見過ごすのがウィンザー公爵家の在り方なのでしょうか?」
母がオリヴィアに目配せをし、何か冷たい飲み物でも持って来るように促している。明らかに“これ以上、父を刺激するな”というサインだろう。私は一度息をつき、父の目をしっかりと見据えた。
「ウィンザー家は、代々国王陛下に仕え、この国を支えてきた家です。先代――祖父や曽祖父の代だって、王家の過ちを正そうとして戦場に立ったり、改革を提言したりしてきたはず。その誇りが、私たちを支えてきたのではなかったのですか?」
父が苦しげに歯を噛み締める。その横で、ヴァン・クレイグは無表情のまま黙って話を聞いている。
しばしの沈黙を経て、父は低い声で言う。
「……分かった。だが今すぐに行動するのは許さん。お前が集めた証拠とやらを検証する必要がある。万が一、まだ不十分なら、それこそ殿下側に言い逃れを許すことにもなる。――しばらくは、私が動き、確度の高いものが揃い次第、改めて対応を考える」
私は少しだけ安心した。父は完全に私の訴えを退けるのではなく、“慎重に進める”という形で受け入れたのだ。
「ならば、私にも協力させてください。これまで集めてきた情報は私自身が最も理解していますから」
「……よかろう。だが、人前ではしばらく控えめにしておけ。スカーレット、お前が余計な噂を振りまくと、こちらの動きも台無しになりかねん」
そう言われても、私はすぐには頷けなかった。なぜなら、王宮にいる第二王子アレクサンダー殿下へ連絡を取りたいと思っているからだ。むしろ彼と手を組むことが、王太子を糾弾する一番の近道だろう。
とはいえ、今この場で「アレクサンダー殿下の力を借りたい」と口にすれば、父はさらに警戒するはずだ。場合によっては“第二王子を次の王に据えようとする陰謀”のように疑われかねないし、それこそ王家を二分するような大騒動に発展しかねない。
だから私は、一旦口を閉ざす。それが最善だと感じたからだ。
父はヴァン・クレイグに向き直り、改めて低い声で確認をとる。
「……お分かりいただけましたかな。今後、ウィンザー家としては王家に波風を立てるような動きはしない。よって、公文書としてもその旨、陛下にご報告いただきたい」
「承知しました。ただ、エドワード殿下の不興を買わぬよう、注意したほうがよろしいかと」
ヴァン・クレイグがそう助言すると、父は深く頷く。そのやり取りは、私にとって少し息苦しいものだった。
私は複雑な心境を抱きながら応接室を後にする。廊下を歩きながら、オリヴィアが心配そうに声をかけてきた。
「お嬢様、大丈夫ですか? 公爵様もお母様も、いろいろと思うところがあるのでしょう。お嬢様の行動が危険だと考えて……」
「分かっているわ。だけど、もう後戻りはできない。わたしが持っている情報は決して無視できないものだし、父様だって分かっているはず。……ただ、あの人は“公爵家”という看板を守らなくてはいけないから、足がすくんでいるのよ」
「そう……でしょうね」
オリヴィアがささやくように言う。私も思わず微笑んでしまう。
「まぁ、父様は私に勝手な行動を取られるのを警戒しているのね。けれど、父様の許可がなくても、私はやらなければならないことがある。――オリヴィア、あなたにはまた力を借りるわ」
「もちろんですわ、お嬢様。私でできることなら、何でも言ってください」
オリヴィアの献身的な瞳を見ると、私の心も多少落ち着く。私は頭の中で段取りを思い描いた。――まずは、アレクサンダー殿下に密かに接触する方法を考えなくては。公式の場で堂々と会えば、さすがに父の命令に背くことになるし、王太子側からも余計な疑念を抱かれる。
そこで思い当たるのが、アレクサンダー殿下の個人的な書簡係だ。彼の名はレオ・グレイヴス。以前から王宮で働く役人の一人だが、私が王太子の婚約者だった頃、幾度か顔を合わせたことがある。物静かで誠実そうな青年だった。彼を通じて殿下に連絡を取ることができれば、余計な噂を避けつつ“密談の約束”を取り付けられるかもしれない。
私は自室へ戻ると、すぐに便箋とペンを用意した。書簡の内容はきわめて短く簡潔――「レオ・グレイヴス殿へ。近日中にお目通り叶いませんか。――スカーレット・ウィンザーより」とだけ書き、封をする。
「オリヴィア、これをレオ・グレイヴス殿に届けてちょうだい。できるだけ目立たないルートで、お願いね」
「承知いたしました」
オリヴィアはすぐに支度を整え、屋敷を出て行った。私は部屋に一人残り、椅子に腰掛けながら窓の外を見る。遠くには王宮の尖塔が小さく見え、その向こうには柔らかな日差しが広がっている。
――あの場所で、近い将来、何が起こるのだろう。エドワード殿下が王位を継ぐ可能性は依然として高い。けれど、今のままでは国は大きく揺らぐだろう。
私の心には、あの夜会の最後にアレクサンダー殿下がくれた言葉が残っていた。「もしお前に何か考えがあるなら、私のもとへ来い」と。彼がどこまで本気で言ったのか分からないが、それでもあの言葉がなければ、私は父に反対されただけで諦めていたかもしれない。
けれど、彼が私の“考え”を見透かすような瞳であの言葉をくれたからこそ、私は今こうして動き始めようとしている。――自分一人で闇の中に飛び込むのは危うい。しかし、王宮内部に“真実を求める”味方がいるのなら、道は開けるはずだ。
翌日、オリヴィアは夕刻近くになって戻ってきた。出かけたのが朝早くだったから、ずいぶん長い外出だったと思う。
「お嬢様、お待たせいたしました。お渡ししてきましたよ、レオ・グレイヴス殿へ」
「ありがとう。何か反応は?」
「はい、当初は驚いていらしたようでしたが、“分かりました。折り返し、返信をお届けします”とおっしゃっていました。今は王宮内が少し騒がしいらしくて、うまく時間を見つけなくてはならない、と……」
王太子による突然の婚約破棄の発表は、やはり王宮にも混乱を招いているのだろう。エドワード殿下とイザベルの噂は一気に広まっているし、国王陛下がどう裁定するか、各貴族たちも右往左往しているはずだ。
そんな中で、私の動きに気付く者もいないとは限らない。そこが怖いところだが、現状、慎重に接触を図るしか道はない。
「分かったわ。ありがとう、オリヴィア。もし何かあれば、私にすぐ知らせてね」
「かしこまりました。……お嬢様、ご無理はなさらないでくださいね」
オリヴィアはそう言い残し、部屋を辞した。私は疲れたようにベッドへ腰を下ろす。いつも以上に心の緊張が続いているのか、思考がぐるぐると巡ってしまい、休まる暇がない。
(父様は“しばらく大人しくしていろ”と言ったけれど、こうして黙っている間にも王太子が不正を進めていると思うと、やはり気が気じゃないわね……)
思い返せば、婚約者である私が王太子の腐敗を知ったのは、一年ほど前に王宮の会計書類を何気なく見せてもらったのがきっかけだった。見せてくれたのは、当時、財務関連の補佐をしていた騎士――すでに退役した老紳士だったが、彼は「どうにも不可解な金の流れがある」と言っていた。その後、老騎士は急に辞職を余儀なくされ、どこへ去ったのか行方すら分からなくなってしまった。
その頃から私は、王太子と一部貴族の間に怪しい金銭のやり取りがあると疑い、少しずつ情報を集め始めた。公爵令嬢としての人脈を使い、裏を取り、一枚の地図のように線で繋いでいく――そして見えてきたのが、王太子と腐敗貴族の“私腹を肥やすための利権構造”だ。
もしこのまま王太子が即位すれば、彼らの利権はさらに巨大化する。やがて政治が歪み、民が疲弊するのは想像に難くない。――ウィンザー家として、また一人の人間として、それだけは黙って見過ごせなかった。
だからこそ私は、リスクを承知のうえで動く決心をした。今となっては婚約破棄されたから、私の動きに対して警戒の目は向けられるかもしれないが、その一方で“ただの捨てられた女が騒いでいる”程度に軽んじてくれる可能性もある。私はその“隙”を突きたいのだ。
それから数日が経ったある朝、私は久方ぶりにぐっすり眠れた気がした。夜の間に聞こえていた耳鳴りのような不安は薄れ、少しだけ気持ちが前向きになっている。
そんな折、オリヴィアが部屋へ駆け込んできた。手には一通の書簡を握っている。
「お嬢様、先ほど、王宮の使者を名乗る方がこれを……“グレイヴス殿から預かった”とおっしゃっていました」
「本当? 早かったわね……」
私はすぐに封を開け、中の便箋を広げる。そこには短いながらも、はっきりとした文面が綴られていた。
スカーレット・ウィンザー様
ご連絡いただき感謝します。
殿下(第二王子)も、もしそちらが“お会いしたい”と希望されるならば歓迎すると言っておられました。
つきましては、今週末、王宮の裏庭にある温室へ午後三時頃にお越しください。
表向きには庭園見学の名目で構いません。周囲の目からも隠れやすいかと。
その場で、殿下が直接お話を伺うとのことです。
レオ・グレイヴス
――アレクサンダー殿下が、私との密会を許可してくれた。
その事実に思わず胸が高鳴る。やはり、あの夜会のときの言葉は本気だったのだ。私の“計画”を少しでも聞く気があるということに他ならない。
しかし同時に、危険も増すということだ。私が王宮を訪れれば、当然「捨てられた女がまた王宮に出入りしている」という噂が立ちやすい。それをどうやって誤魔化すかが課題になる。
王宮の庭園見学――あまりに不自然な口実だが、何も理由をつけずに行くわけにはいかない。こういう場合、貴族令嬢が「美しい花を見に行く」こと自体はそれほど珍しくない。王宮の管理を担う庭師たちが手塩にかけて育てる花々は季節ごとに見応えがあるし、私もかつては何度か訪れたことがある。
問題は、婚約破棄された直後だというタイミング。公爵令嬢である私が王宮を訪れれば、否が応でも目立つ。だからこそ、庭園の端にある温室が待ち合わせ場所なのだろう。あそこなら警備兵の目も比較的少なく、喧騒から離れて話しやすい。
「お嬢様、どうなさいますか?」
「……行くわ。あの方――アレクサンダー殿下からのお声掛けを、わたしが断る理由はないもの。まさに私が望んでいた場ですもの」
「ただ、公爵様は当面は王宮へ行くのを控えろと……」
「父様には内緒にしておくしかないわ。必要であれば、後で“どうしても確認したい文献があった”とか何とか理由をつけて言い訳するわ。……これも全て、国のためよ」
そう言い切ってしまうのは、自分勝手かもしれない。でも、私には今しかないという焦りがある。父が慎重になるのは分かるが、王太子やその取り巻きがいつ不正の証拠を隠滅するとも限らない。ましてや、イザベルが近いうちに正式に王太子妃候補として取り立てられれば、さらに状況は悪化する。
私は腹を括り、当日に備えることに決めた。オリヴィアにも念入りに準備を頼み、「もしものときはすぐに連絡を」と指示を出しておく。ここ数日で、私の周りの空気は一変し、まるで“秘密の戦い”が始まったような緊迫感に包まれていた。
そして迎えた週末の午後、私は小さめの馬車に乗り、ウィンザー公爵家の敷地を出た。護衛の兵などは連れず、ごく少人数の使用人だけを同行させる。もっとも、王宮までの道中は比較的安全だし、庭園を見学するという名目なら、あまり大勢を連れていくのは不自然だからだ。
車窓から外を眺めていると、町の通りは相変わらず活気に満ちている。露店や馬車が行き交い、人々が喧噪の中で笑い声や怒号を上げている。中には華やかな装いの貴族らしき人々も見受けられるし、兵士が行進している姿もあった。
私の頭には、ふと疑問が湧く。――もし、この国に何らかの大きな危機が迫ったら、これらの庶民たちはどんな思いを抱くのだろう。王太子が支配する世界になったとき、彼らの生活は守られるのか、それとも搾取されるのか。
そんな思いに耽りながら馬車を降り、王宮の正門で書類を提示する。衛兵は怪訝そうに私の顔を見るが、さすがに公爵令嬢を追い返すわけにもいかない。
「今日は……その、庭園を見学に参りました。珍しい花が咲いていると聞いておりますので」
自分で言いながら、いかにも嘘くさいと思う。周囲を見渡すと、衛兵以外には特に人影は見当たらない。この時間帯は、あまり一般の貴族が立ち入ることはないのだろう。
少し強引な説明ではあったが、衛兵はあっさり通してくれた。私が以前“王太子の婚約者”として何度も王宮に出入りしていた名残もあるのかもしれない。
中庭を通り抜け、花壇や噴水の並ぶ美しい光景の先に、温室が見えてきた。ガラス張りの屋根からは日差しが差し込み、中では珍しい植物や花が育てられている。王宮の庭師たちが手間暇かけて維持している場所だと聞いていたが、私が訪れるのは久しぶりだ。
扉の前には、レオ・グレイヴスの姿があった。気配を消すように立っていたので、こちらが気づくのが遅れたほどだ。彼は私を見つけると、小さく会釈をする。
「お越しくださりありがとうございます、スカーレット様。殿下は奥の区画でお待ちです」
「ご苦労さま、グレイヴス殿。……それにしても、こんな場所でお会いするとは驚きましたわ」
「殿下は“人目を避けるには温室がちょうど良い”とお考えのようです。どうぞ、こちらへ……」
レオに導かれ、温室の中へ足を踏み入れる。湿度の高い空気が頬を包み、鮮やかな花々が私の視界に飛び込んでくる。南方や海外の植物も混ざっているらしく、見慣れない形の葉や花が多い。
そんな幻想的な光景の奥、日の当たる小さなテーブルの前で、アレクサンダー殿下が待っていた。濃紺の上着に身を包み、椅子に腰掛けている。殿下は私に気づくと、すっと立ち上がって会釈する。
「お忙しい中、わざわざ足を運んでくださり、ありがとうございます。スカーレット・ウィンザー……いえ、今はもう“王太子妃候補”ではないのですね」
穏やかだがどこか皮肉めいた言い回しに、私は小さく微笑む。
「そのようですね。殿下の兄上から、一方的に“退場”させられた身ですから」
アレクサンダー殿下は、微妙に眉を寄せて苦い表情を浮かべたあと、椅子を勧めてくれる。私が向かいに座ると、レオが軽くテーブルに紅茶と菓子を置いて、そっと退いた。よほど殿下から“邪魔をしないように”言いつけられているのだろう。
「……さて、単刀直入にお伺いしましょう。スカーレット、あなたは先日の夜会で婚約破棄を受け入れながら、なおも王宮に足を運んだ。その理由が“花を見に来るため”などではないというのは、言うまでもありませんね」
アレクサンダー殿下は静かに紅茶を啜りながら言う。私もそれに倣い、呼吸を整えてから切り出した。
「ええ、その通りです。私には確かめたいこと、そしてご協力いただきたいことがございます」
「それは、エドワード兄上の“裏の顔”について、ですね?」
鋭い一言。まるで、私の考えをすべて見抜いているかのようだ。私は少しだけ身構える。
「……ご存知、なのですか?」
「噂程度にはね。王太子の周辺には、どうにも胡散臭い貴族や商人が集まっている。それらがどのような利益を得ているか――私には正確なところは分かりませんが、薄暗い噂は絶えない。一度それとなく問いただしてみたが、“根拠のない中傷”と一蹴されてしまった。王太子の取り巻きたちからも、私の動きを牽制する意図が見え隠れしている」
やはり、アレクサンダー殿下も王太子の腐敗については何らかの情報を掴んでいたのだ。ならば私が持っている証拠を見せれば、彼の動きをさらに補強できるかもしれない。
「殿下、私の手元には、王太子と取り巻きの一部貴族が交わした密約や資金の流れを示す記録がございます。それらは断片的なものですが、まとめれば見過ごせない不正の全容が見えてくるはずです」
「具体的には、どのような内容ですか?」
「貴族所有の鉱山を実際より低額で買い取り、そこから王太子一派が莫大な利益を得ている形跡があります。また、他国との不正な取引――武器の横流しのような行為――の疑いも。もちろん、すべてを立証するにはまだ足りない部分もありますが、少なくとも“ただの噂”では済まされないほどの証拠が揃っています」
アレクサンダー殿下は真剣な面持ちで聞き入っている。その瞳には、驚きと、それを凌駕する怒りが宿っているように見えた。
「まさか、そこまで……。もしそれが本当なら、兄上は王家どころか、この国全体を危機に晒していることになる」
「ええ。ですから、私は殿下にご協力を仰ぎたい。ウィンザー家だけで糾弾しようとしても、逆に潰される恐れがあります。けれど、もし殿下が中心となり“真実を追究する”とおっしゃるなら、私は進んで証拠を差し出します」
私の言葉に、アレクサンダー殿下は静かに息をついた。そして、しばし考え込むように視線を落とす。温室の中は植物の香りと湿気が満ちているが、まるで冷たい風が吹き抜けるような緊張感が漂っていた。
「……確かに、私も何かしらの行動を起こさなければならないと思っていました。しかし、それは王家の内紛を招くことにも繋がる。兄上を告発すれば、私が王位を狙っているという疑念が湧くでしょう。そうなれば、国が二分しかねない」
「分かっています。ですが、このまま放っておけば、“王になったエドワード殿下”を頂点とした腐敗がもっと広まる。それに比べれば、今のうちに真実を明らかにするほうが、まだ国への被害は少ないのではないでしょうか」
アレクサンダー殿下は苦悩に満ちた表情で、私の言葉を黙って聞いている。王家の者として、兄を告発する決断は容易ではないだろう。それがどれほど重大なことか、私も理解しているつもりだ。
やがて、殿下はそっと紅茶のカップを置き、顔を上げた。
「分かりました。私も、王太子――エドワード兄上の疑惑を見過ごすわけにはいきません。あなたの証拠をお借りし、私が改めて王宮内で調査を進めましょう。ですが、ウィンザー家の動きは極力秘匿してください。あなたが表立って動けば、必ず兄上は潰しにかかるでしょうから」
「それは承知の上です。私も、表向きは父の言いつけ通り、しばらくおとなしくしているつもりです。代わりに、私の信頼できる使用人たちが水面下で動きます。殿下からも、情報交換のための連絡ルートを用意していただけると助かりますが……」
「もちろん。レオ・グレイヴスを使ってください。彼は私の腹心であり、外部にもあまり知られていない存在です。多少の秘密の遣り取りなら、彼を通じて安全に行えるでしょう」
そう言うと、殿下は首飾りのような小さな飾りを取り外し、私の手にそっと渡した。
「これは私の個人的な印です。レオに見せれば、彼が私への取り次ぎを確実に行ってくれます。どうか大事に扱ってください」
私はそれを受け取り、深く頭を下げる。殿下は最後に一つため息をつき、遠くを見つめるように言った。
「――私も、兄上がここまで堕ちているとは信じたくない。けれど、事実ならば目を背けるわけにはいかない。国民を、そしてこの国を守るために、私はあなたの力を借りよう。……スカーレット・ウィンザー、どうか共に真実を掴み取りましょう」
「はい。私にできる限りのことをいたします」
そう誓い合うと、アレクサンダー殿下はどこか憂いを帯びた瞳を向けたまま、小さく微笑んだ。――私は、その姿を見て確信する。この人なら、たとえ“王家の内紛”に発展しようとも、自らの信念を捨てることなく戦ってくれるに違いない、と。
それから間もなく、私は温室を出た。ほんの束の間の会合ではあったが、大きな一歩を踏み出せた気がする。馬車へと戻る途中、何人かの使用人や兵とすれ違ったが、特に声をかけられることもなかった。
ただ、帰り際にちらりと中庭の一角に目をやると、豪華な衣装を身につけた女性と数人の侍女が通りかかるのが見えた。――イザベル・ラファエルだ。彼女は私がいる方向には気づいていないのか、あるいは無視しているのか。横を向いたまま何やら笑い声を立てている。
その瞬間、胸の奥にささくれだった感情が芽生える。私から王太子を奪った相手――そう見ると、悔しさが募りそうだが、不思議と嫉妬は感じない。むしろ、“あの女がエドワード殿下の腐敗にどれほど関わっているのだろう”という疑念だけがこみ上げる。
――ともあれ、今は彼女に追及をかける時ではない。ここで刺激して、騒ぎを起こすのは得策ではないのだから。
私は馬車に乗り込み、静かに王宮を後にした。道中、心の中はざわめきと高揚感が入り混じった複雑な感情で満たされている。アレクサンダー殿下と手を組む――それはまぎれもなく、王家の未来を左右する大きな挑戦だ。うまくいけば、殿下の立場も強くなり、腐敗貴族たちを一掃する糸口となるだろう。けれど、失敗すれば私とウィンザー家は破滅、殿下も謀反人の汚名を着せられる可能性がある。
それでも、もう引き返すことはできない。私はエドワード殿下から婚約破棄を突きつけられた日以来、ずっとこの道を歩むしかないのだと覚悟していた。
「――絶対に、成功させるわ」
馬車の窓から差し込む陽光を浴びながら、私はそう自分に言い聞かせる。その手のひらには、アレクサンダー殿下から託された小さな印が確かに握られていた。
帰宅後、まず私がしたのは自室にこもって証拠書類を改めて整理することだった。オリヴィアも手伝ってくれ、数多くの紙片や古い領収書、手紙の切れ端などを一枚一枚確認する。どれも単独では決定打に欠けるが、繋ぎ合わせて時系列を整理すれば、かなり強固な裏付けになるはずだ。
「お嬢様、これをご覧になってください。以前から気になっていた“ラファエル侯爵家”の名前がちらほらと……」
オリヴィアが示した紙切れには、複数の貴族や商人が連名で交わした“利益分配に関する覚書”らしき文言が記されている。そこには“ラファエル”の名がはっきりと記載されていた。
「イザベルの父親ですね……。やはりラファエル家も深く関わっているのかしら」
「可能性は高いと思います。いくつか別の書類でも、ラファエル家名義の資金提供とか、王太子周辺への贈賄のようにも見える内容が散見されます」
なるほど。イザベルがここまで王太子に近づいたのは、ただ彼を誘惑しただけではなく、家としてエドワード殿下と繋がりを持ち、利益を享受しているから――そう考えると筋が通る。
私はラファエル家の領地のことを思い出す。比較的豊かな土地を持つ一方、かつては財政状況が思わしくなかったと聞いたことがある。それがここ数年で急速に立て直したと噂されているが、もしそれが王太子との癒着によるものだとしたら……。
「イザベル本人も、父のために必死で取り入っているのでしょうね。王妃の座を勝ち取れば、ラファエル家はこれ以上ないほどの権勢を手に入れるわ」
そんな苦い思いを噛み締めながらも、私はひたすら書類の山に向き合う。それは地道で骨の折れる作業だが、一つ一つの繋がりを確認する作業こそが真実を暴く鍵になる。
やがて夜更けが近づく頃、私はようやく最低限の整理を終えた。大きなフォルダにまとめた書類は二つ。片方は“鉱山利権”に関するもの、もう片方は“外国との不正取引(武器横流しの疑い)”に関するもの。それぞれに関わっている貴族や商人の名前を一覧にし、時間経過ごとにどのようなやり取りがあったかをメモしてある。
「お嬢様、お疲れではありませんか? そろそろ休まれたほうが……」
「そうね……ありがとう、オリヴィア。もう少しだけ確認したら、今日は寝るわ」
私がそう言うと、オリヴィアはカーテンを閉めて室内を整え、就寝の準備を進めてくれる。部屋の片隅には、ランプの淡い光が揺れている。
その灯りを見つめながら、私は心の中で誓う。――これはまだ序章に過ぎない。王太子の不正を追及するには、さらに多くの協力者が必要だろう。何より、アレクサンダー殿下がどこまで本気で動いてくれるのか、まだ未知数だ。
だが、私はもう後戻りしない。たとえ失敗すれば、私はただの公爵令嬢どころか、一族もろとも破滅する可能性がある。それでも、この国が腐敗に呑まれていくのを指をくわえて見ているくらいなら、敢えて茨の道を選びたい。
夜の闇が深まる中、私は机に伏せるようにして目を閉じる。頭は疲れているのに、心はどこか覚醒しているようにも感じられた。――きっと、これから私が進む先には、さらなる裏切りや脅威が待ち受けているだろう。
“裏切りと真実”――この2つは表裏一体なのかもしれない。真実を求めるほどに、誰かの裏切りが露わとなり、さらに新たな裏切りを生む。だけど、その先にある光を掴むためには、決して目を背けてはいけない――私は自分自身にそう言い聞かせながら、意識を手放していった。
翌朝、私が目を覚ましたとき、すでに日は高く昇っていた。外は晴天で、鳥のさえずりが窓越しに聞こえる。だが、まどろみの中でも私は感じていた――ここから先、平穏な日々はもう戻らないのだろう、と。
しかし、意外にも日は穏やかに輝いている。まるで、まだ私の知らない新たな運命を祝福するかのように――。
私はベッドから起き上がり、決意を新たにする。第二王子アレクサンダーに託した希望を形にしなければならない。王太子エドワードの腐敗を暴き、国を変える――誰が何と批難しようと、私は自分の正義を信じて突き進む。
やがて訪れるだろう“決戦”のときに備えて――。