王都の朝は、どこか荒んだ空気が漂っていた。晴れやかな青空が広がっているというのに、街を行き交う人々の表情は曇っているように見える。――それもそのはず。近頃、国境近くの不穏な噂が増え、物価は上昇傾向、さらに王都周辺では貴族の排他的な態度が目立ち始めたせいで、“この国はいったいどうなるのか”という不安が庶民の間にじわじわと広がっているのだ。
しかし、その不穏さの原因の一端が、いま私たちが追い詰めようとしている“王太子エドワードとその取り巻きによる汚職”にあるとすれば、ここで引き返すわけにはいかない。私はむしろ、この空気が「時間が残されていない」ことを教えてくれているような気がした。
あの日、私は男装をして傭兵アラン・フェルドを探し、思わぬ形でボリスという男に出会い、そして――波乱に満ちた一日を過ごした。結果的に、アランと直接話をすることは成功し、彼の協力を得て“王太子の汚職を示す裏帳簿”を手に入れるための手筈を整えた。王都の外れにある商人地区の倉庫へ潜入し、そこで“ラファエル家の代理人”が隠し持っていた帳簿をかろうじて確保できたのだ。
もっとも、無事に手に入れたと言っても、その過程は命がけだった。闇商人が雇った護衛との小競り合い、あるいは倉庫が放火されかねない危うい場面――幸いにもアランの武勇とボリスの助けが功を奏し、どうにか証拠だけは守り抜くことができた。私も急場しのぎで剣を握ったが、本格的な戦闘など初めてのことで、今振り返っても震えが止まらなくなるほどの恐怖だった。
そして、その裏帳簿を王太子エドワードに繋がる“決定的な証拠”として成り立たせるため、私は父やアレクサンダー殿下の力を借りて解析を進めた。偽装や改ざんされていないかを確認し、また私たちが以前から集めていた王太子派の金銭授受の資料と突き合わせることで、限りなく“黒に近い”と断言できるだけの証明ができそうな段階にまで漕ぎ着けたのだ。
……しかし、その一方で危険も加速している。王太子派の貴族たちは、私の周辺――ひいてはウィンザー家の関係者へ監視を強めているという噂を耳にした。いつどこで襲撃を受けるとも限らない。私の侍女であるオリヴィアや、協力を申し出てくれたフェルド家、そして傭兵仲間たちにも危害が及ぶ可能性がある。まさに“綱渡り”の状態に違いない。
そんな中、決定打となる舞台が用意されようとしていた。――国王陛下主催の「秋の大舞踏会」である。王妃が既に他界されて久しいが、毎年この季節に催される舞踏会は、貴族や重臣だけでなく、他国の使節や要人まで幅広く招かれる一大イベントだ。国の威信を示す場でもあるし、王家としては“華やかさ”を誇示する目的もある。ここで王太子エドワードは、例年なら「次期国王の威厳」を世に示すべく、派手な演出を用意している――今年はとりわけ、彼の“新たな婚約者候補”であるイザベル・ラファエルを公式に披露する動きがあるというのだ。
もし、それを黙って見過ごせば――王太子の権威はさらに高まり、私たちが今さら「汚職がある」などと告発しても、相手は“逆に貴様らが陰謀を企てているのだろう”と断じかねない。王宮内部の人事を押さえ、裁判所や騎士団の上層部まで王太子派が牛耳ってしまえば、もう手出しできなくなる。
だから、私たちは決めた。――この“秋の大舞踏会”こそが勝負時だ、と。
具体的には、舞踏会の席上、第二王子アレクサンダー殿下の口から“王太子の不正”を国王陛下や招待客の前で提起し、その場で私が持つ決定的証拠(裏帳簿と各種資料)を公に開示する。さらに、一部の良識ある貴族たち(父を含むウィンザー家の同盟者や、腐敗を嫌う改革派)も協力することで、王太子が逃げられないように包囲する――そういう作戦だ。
ただし、この計画は綱渡り中の綱渡りだった。王太子が舞踏会を利用してイザベルとの婚約を正式に宣言するのも、同じタイミング。そこでいったん大々的に“おめでたいムード”を演出されてしまうと、私たちが告発しても「祝宴を邪魔する逆賊だ」と非難されかねない。さらに、王太子が何らかの形で先手を打って私やアレクサンダー殿下を排除しようと企てる可能性もある。
――それでも、私たちはやらなければならない。もう、他に大勢の招待客が集まる「場」は用意されていないし、国王陛下の目の前でなければ王太子派が隠蔽を図る余地がありすぎる。むしろ、最高に“目立つ舞台”こそが王太子派の油断を誘い、真実を突きつけるチャンスになるのだ。
第一節:舞踏会前夜――それぞれの思惑
秋の大舞踏会の前夜、ウィンザー公爵家の屋敷は静まり返っていた。表向きは「今年の舞踏会にはスカーレットは参加しない」としており、そう話を広めることで王太子派の監視を少しでも逸らそうと画策している。実際、私も一度は「婚約破棄された者があのような華やかな場に出て行くのは場違いですわ」と言い放ち、社交界の噂好きたちにも“スカーレットは引きこもるらしい”と思わせておいたのだ。
だが、実際はその裏で、父や家臣たちと夜を徹しての最終作戦会議を行っている。私の侍女であるオリヴィアや、アランたち傭兵も同席し、万一の際に備えた“護衛”や“退路の確保”などの段取りを固めていた。アレクサンダー殿下とは、すでに何度か秘密裏に連絡を取り合い、当日の合図や段取りを詰め終えている。
「スカーレット……。お前は、舞踏会が始まる少し前に王宮の裏口から密かに入り、アレクサンダー殿下と合流しろ。通行証は殿下の手下が用意している。そこで証拠の書類を預けてもよいし、お前自身が直接持参してもいい。どちらにせよ、細心の注意を払え」
父が厳しい表情のまま言い渡す。私の手元には、裏帳簿をはじめとする証拠がまとめられた分厚い封筒がある。これを確実に舞踏会会場へ運び込み、王太子の目の前で突きつけなければならない。けれど、もし道中で襲われれば、すべて水の泡だ。
「はい。父様、そちらは大丈夫ですか? 王宮の正門から堂々と入場されるのでしょう?」
「ああ。ウィンザー家の公爵として招待を受けている手前、私は正門を避けられない。……だからこそ王太子派の視線は私に集中するはずだ。お前の潜入がうまくいくよう、なるべく目立ってやろう」
父は苦い笑いを浮かべる。親子とはいえ、私と父がこんな形で手を組むことになるなんて、思いもしなかった。以前は結婚戦略や公爵家の名誉ばかりを重視する人だと思っていたが、今の父は違う。少なくとも“本当の意味で国を想い、娘の意志を尊重しよう”としてくれている。――それが私にとって、どれほど心強いことか。
私は深く頭を下げる。
「父様、ありがとう。私も、必ずや王太子殿下の不正を暴いてみせます。あの人に好き勝手させるわけにはいきません」
「……重々承知だ。お前の安全が最優先だからな。死ぬ気で守れ、スカーレット」
うっすらと目に涙を浮かべているようにも見える父の姿に、私もまた熱いものがこみ上げそうになった。しかし、ここで感傷に浸っている暇はない。王太子殿下――エドワードの圧政と腐敗を止めるため、私たちは勝負に出るのだ。
一方、王宮の一室では、イザベル・ラファエルが鏡の前で満足そうに自分のドレス姿を眺めていた。ピンクを基調とした豪華な衣装に宝石を散りばめ、髪は高く結い上げられている。まさに“王太子妃”として大衆に披露されるための装い。彼女は今夜こそ、自らの野望を成就させるのだと確信していた。
「イザベル。準備はいいか?」
部屋に入ってきたのは、王太子エドワード本人。彼は相変わらず貴族然とした華やかな衣装を身にまとい、傲慢な笑みを浮かべている。
「ええ、殿下。……今夜こそ、わたくしたちを認めさせましょう。そして、あの忌々しいスカーレット・ウィンザーの影響力を完全に消し去るのですわ」
「ふん、あの女はどうせ縮こまっているだろう。婚約破棄後、まともに社交界へ顔を出していないと聞くしな。身の程を知ったのだろうよ」
「そうですわね。わたくしがスカーレットに勝った――いいえ、そもそも勝負にすらならなかったのですわ」
二人は歪んだ共犯関係に基づく“親密さ”を見せつけるかのように微笑み合う。だが、王太子の側近たちは落ち着かなそうに周囲を見回していた。あのスカーレット・ウィンザーがただ黙って引き下がるとは思えない――そう感じている者が少なくないのだ。
「殿下、念のために申し上げますが、ウィンザー公爵家と第二王子殿下の動向は常に警戒しておく必要があるかと……。万が一、何か仕掛けてきたら――」
「そのときは潰すだけだ」
エドワードの瞳が冷たく光る。まるで“いつでも暗殺も辞さない”かのような、危険な威圧感を放っている。イザベルはその様子に少しだけ目を細め、しかし不快そうな顔はしなかった。むしろ、こういった強引さこそがエドワードの魅力だと思っているのだろう。
「わたくしは殿下のお力を信じていますわ。もしスカーレットが余計なことをしようとするなら、その時こそ――」
「心配はいらない、イザベル。俺のほうで万全の手を打ってある。……今夜、舞踏会でお前を正式に“王太子妃”として発表したあと、父上(国王陛下)にも速やかに認めさせるよう進言する。そしたら、もう誰にも邪魔はできない」
その傲慢な声音は、“ウィンザー家など取るに足らない”と嘯(うそぶ)いているように聞こえた。確かに、王太子という立場は強い。国王陛下がご高齢である今、実質的に国の舵を取っているのはエドワード派閥だ。だが、その裏に潜む腐敗は、いずれ国全体を飲み込むだろう――私たちは、それを食い止めねばならない。
第二節:秋の大舞踏会の開幕
そして迎えた舞踏会当日。王宮の大広間は豪奢な装飾が施され、天井からは黄金のシャンデリアがきらめき、壁際には各国の使節や貴族たちが華やかな衣装を身にまとって集っている。まさに“社交界最大の宴”と呼ぶに相応しい光景だ。
私は――といえば、父が正門から入場した時点ではまだ王宮の外にいた。王太子派の目を誤魔化すため、馬車を遠くに止め、そこから徒歩で裏門近くへ向かう。同行しているのはアラン・フェルドとオリヴィア、そして数名のウィンザー家の家臣。アレクサンダー殿下の腹心であるレオ・グレイヴスも合流してくれる手はずだ。
「スカーレット様。合図は、あちらの衛兵が交代した直後です。そこを通り抜ければ、殿下のお部屋へ通じる小回廊に辿り着けます」
レオの落ち着いた声を聞き、私は深く息をつく。ドレスの下に証拠の書類を入れた封筒を隠し、決して離さないよう腕で抱いている。――これさえ守り抜けば、どんな謀略を仕掛けられても決定的な一手を放つことができる。
「アラン、ボリスたちには連絡が取れているの?」
「ええ、連中は会場近くの待機所に潜んでます。もし何かあればすぐ駆けつけられるようにしている。一応、“民兵の警備補助”という名目で登録を済ませたそうですよ」
頼もしい限りだ。私が一介の公爵令嬢としてこんな危険な道を進むことになるとは想像もしなかったが、力を合わせれば王太子に立ち向かうこともできるはずだ。
小さく息を止め、衛兵の動きを見定めてから、私たちは裏門をすり抜けた。既にアレクサンダー殿下の指示で、要所の衛兵が入れ替えられているらしく、不審な目を向けられることはなかった。細い廊下を曲がり、石段を登る――そこには殿下自らが待っていてくれた。
「スカーレット、よく来てくれましたね。今、ちょうど舞踏会が始まったところです」
アレクサンダー殿下は控えめな正装を纏い、その瞳に決意を宿している。私は軽く会釈を返しながら、胸ポケットから書類の束を取り出す。
「殿下、これが“裏帳簿”と各種資料をまとめたものです。もし私が万が一、途中で倒れても、殿下にこれを渡すためにここに来ました」
「……ありがとうございます。ですが、あなたが倒れるなどという不吉なことは考えたくない。私はあなたを守るためにも、今夜のこの計画を成功させねばならないのです」
小さな声ながら、その言葉ははっきりとした重みを持っていた。王家に生まれながら兄を告発することになる――その苦悩を思うと、私には“ありがとう”としか言えない。
殿下は書類を受け取りつつ、私の手をそっと握り、囁く。
「あなたは舞踏会の最中、私の合図を待ってください。合図は、音楽隊に“二度目のワルツ”を演奏させるときです。私がその曲をリクエストしたら、あなたは大広間の中央へ出てきてほしい。そこで、一気に告発に踏み切ります」
「分かりました。父にも伝えておきます。私が現れたら、間をおかずに父が“証人”として動いてくれるでしょう」
「ええ。私のほうでも国王陛下に話しかけ、兄上の不正を示す証拠があると申し出ます。あとは、現場でどれだけ周囲を巻き込めるか……。兄上の取り巻きは必ず抵抗するでしょう。気をつけてください」
殿下の言葉に頷き、私は震える手を押さえる。――もう引き返せない。今宵が、すべてを決する一夜になる。
第三節:華やかな宴の裏側で
その後、私はアレクサンダー殿下の個室で身支度を整えた。――といっても、さほど仰々しいドレスではなく、動きやすさを意識したデザインに控えめな装飾を施したもの。派手さでイザベルに張り合うつもりはないし、第一、私の目的は王太子との“華麗なるドレス対決”ではなく、あくまで不正の告発だ。
音楽隊の演奏が聞こえる大広間へ向かう廊下は、賑やかな笑い声や拍手で満ちている。その奥で繰り広げられているのは、貴族や要人たちが踊り、酒を飲み交わし、華美な服装を競い合う――いわゆる“絢爛豪華な見世物”だ。
私は会場の端の扉からこっそりと様子を伺った。――そこには、王太子エドワードがイザベルをエスコートしており、二人とも満面の笑みを浮かべている。周囲の人々は拍手喝采を送り、まるで“この国の未来が明るい”という幻想に浸っているようだ。もちろん、あの舞台裏でどれほどの腐敗が進行しているかなど、知る由もないのだろう。
ほどなくして、イザベルが“王太子妃”として紹介される瞬間がやってきた。エドワードが高らかに声を張り上げ、国王陛下をはじめ、多くの要人に向かって言葉を投げかける。
「皆、聞いてくれ。――私は今日、正式にイザベル・ラファエルを“王太子妃”として迎えることを宣言する。父上にも、既に同意を得ている。ここにいる全員が、その証人になってくれると嬉しい」
大広間が沸き立ち、盛大な拍手と称賛の声が響き渡る。一部の保守的な貴族は面白くなさそうな顔をしているが、それでも王太子に従わざるを得ないのだろう。イザベルは完璧な笑みを作り、皆に優雅に手を振る。
「わたくし、イザベル・ラファエルは、王太子殿下と共にこの国を支えてまいりますわ。どうぞ、よろしくお願いいたします」
――その姿を見て、私は今さらながら強い憤りを感じずにはいられない。イザベルがどれほど王太子の汚職に加担しているのか、私たちは裏帳簿を通じてある程度つかんでいる。彼女の父・ラファエル侯爵家も、エドワード周辺と癒着して資金を流し合っているのだ。にもかかわらず、こうして晴れがましい顔で国の頂点に立とうとしているのだから……。
だが、ここで慌てて飛び出しても意味がない。アレクサンダー殿下が示してくれた“二度目のワルツ”こそが、私の合図。まずは殿下が国王陛下に話しかけ、不正を暴く場を設けてくれるのを待たなければならない。
「(落ち着いて……必ず私たちに勝機はある)」
心の中で自分に言い聞かせ、会場の隅に身を潜める。そのとき、視界の端に父の姿が映った。やはり王太子派の取り巻きに囲まれているらしく、あちこちから声をかけられているようだ。だが父は、堂々とした態度で適度にあしらっている。おそらく、まだ“スカーレットはここにいない”という前提で会話しているのだろう。
そして、ほどなくして――アレクサンダー殿下が王太子のもとへ歩み寄り、にこやかな表情を浮かべて話しかけている。遠目には“兄への祝福”を述べているように見えるが、よく見ると殿下の背中は僅かに強張っている。そのやり取りを終えると、殿下は国王陛下へと向かい、何かを提案している様子だ。
次に聞こえてきたのは、華やかな曲を切り替える合図――“ワルツが再び流れ始める”瞬間だ。先ほどにもワルツの曲があったので、これが「二度目」になる。私は息を呑み、覚悟を決める。
「オリヴィア、行くわよ……!」
「ええ、お嬢様!」
私たちは会場の隅からすっと姿を現し、踊る人々の間を縫うように中央へ進む。はたして、思いのほか多くの人の視線が私に集まっている――「あの女はスカーレット・ウィンザーではないか?」というささやきが一瞬にして広がった。そして、それに気づいた王太子やイザベルの顔が強張る。
「……お前は……! 何のつもりだ、スカーレット……!」
怒りを露わにするエドワード。彼の隣ではイザベルが顔を引きつらせている。その二人を前に、私は出来るだけ冷静な声を絞り出す。
「王太子殿下――エドワード様。おめでとうございます。イザベル様との婚約発表、実に盛大ですわね」
「……皮肉か? お前ごときがどうしてここにいる? 招待もしていないはずだが」
剣呑な空気が広がり、大広間の人々はなにやら不穏な雰囲気を察して立ち止まる。アレクサンダー殿下はまだ国王陛下のそばにいるようだが、私が動いたのを確認し、そちらへ引き寄せるように陛下を誘導し始める。やがて、国王陛下が玉座に近い席から立ち上がり、こちらに視線を向けた。
「……なんだ、スカーレット・ウィンザーではないか。お前、今日は来ないと聞いていたのだが」
穏やかな声音だが、その背後には王太子派の重臣たちが鋭い視線を投げかけている。私は慌てず頭を下げてから、はっきりと声を張る。
「陛下、そして皆さま。突然このような場に現れた非礼をお許しください。ですが、どうしても今夜、陛下と皆さまに“お知らせしたいこと”があるのです」
「知らせたいこと、だと……? スカーレット、お前……」
王太子が苛立ちを露わにする。私はその視線を真っ向から受け止め、封筒に手をかける。
「はい。――王太子エドワード殿下が、一部の貴族や商人と共謀し、国の資金を不正に流用しているという事実です」
大広間が一斉にざわめく。王太子派が「バカな……!」と罵声を上げ、保守貴族は「そんなことがあるものか」と動揺し、改革派の中には「やはり……」と苦い表情を浮かべる者もいる。
「黙れ……! お前、正気か? そんな無根拠なデマを、こんな場で口にするとは……!」
「いいえ、デマなどではありません。こちらに、殿下の取り巻きが保管していた“裏帳簿”と、これまでの資金の流れを示す書類がございます。――この国の公金を私物化し、武器の横流しさえ企てていた形跡までありますわ」
私が封筒を掲げると、どよめきはますます大きくなる。王太子エドワードの顔が青ざめ、隣のイザベルが「嘘よ……! そんなはずないわ!」と悲鳴を上げた。周囲の耳目が私に集中する中、アレクサンダー殿下が国王陛下の側に進み出る。
「父上、私はこの件について以前から調査を進めておりました。証拠の一部を確認済みですが、スカーレット・ウィンザーの言葉に虚偽はないと判断しています。どうか、公正な場でこの書類の真偽を検証させてください」
「アレクサンダー……お前までそんな……」
国王陛下の表情は困惑に包まれている。だが、周囲を取り巻く視線は、もはや疑惑から避けられない段階にある。もしここで王太子を庇い立てすれば、“国王が不正を容認した”という汚名を被ることになるだろう。
「父上……これは紛れもない“国家の危機”です。もし本当に王太子が汚職を働いているなら、いずれ国外にもそれが知れ渡る。そんなことになれば、我が国は大混乱に陥るでしょう。――どうか、真実を追求させてください」
アレクサンダー殿下の必死の訴えに、国王陛下は眉をひそめ、思わずため息をつく。王太子派の重臣たちは大声で「無礼だ」「この場を乱す気か」と怒鳴っているが、それでも国王としては“無視はできない”と判断したのかもしれない。
「……分かった。ならば、ここで是非を問いただすのは不可能だ。即刻、別室にて書類を確認し、関係者を集めて事実を検証しよう。――王太子エドワード、お前にも弁明の機会を与える」
「ふざけるな、父上……! あんな女の言いがかりを真に受けるのか!」
エドワードが激高して声を荒らげるが、国王陛下は毅然と首を振る。
「お前の潔白を証明したければ、正々堂々と証拠を示せばよかろう。できるな?」
「ぐっ……」
顔を真っ赤にして言葉を詰まらせるエドワード。その隣でイザベルが「殿下……落ち着いて」と声をかけ、なんとか取り繕おうとしている。その姿は、“もうこれ以上、逃げられない”状況に追い詰められた人間の焦りを色濃く映し出していた。
第四節:運命の分かれ道――王太子の失脚と、新たなる未来
こうして、国王陛下や主要な貴族、そして私とアレクサンダー殿下を含む数名は、大広間から別室へと移動することになった。祝宴は一時中断され、舞踏会の招待客たちは何が起こったのか分からないまま、ざわつき続けている。私も足早に移動しながら、胸の鼓動が高まるのを感じる。
(ここからが本当の勝負……。しっかりしなくては)
別室に入り、長机の上に私たちが用意した書類が並べられる。アラン・フェルドやボリスら数名の協力者も待機しており、やがてそこへ王太子とイザベル、そして彼らの取り巻きである貴族数名が険しい表情で入ってきた。
「さあ、どうぞご覧くださいませ。こちらが“裏帳簿”です。これに記されている金銭の流れは、あまりにも不自然。さらに、王太子殿下やラファエル家の名義で幾度も大金が動いています。正規の王宮会計に記載されていない以上、これはれっきとした『公金横領』と見なされるのでは?」
私は淡々と説明しながら、アレクサンダー殿下が補足を加える。王太子派の重臣たちは顔を顰め、書類に目を走らせるが、言い訳の余地は少ないはずだ。
「これは捏造だ……! お前たちが仕組んだ罠に決まっている!」
王太子が叫ぶが、国王陛下は厳しい口調で遮る。
「ならば、エドワード。具体的にどこが捏造なのか、説明してみせよ。私にも見せなさい」
陛下が自ら書類を確認すると、その表情はみるみる険しくなっていく。続けて、殿下と私が持参した“その他の証拠”――私が婚約破棄後に必死で集めた資料や領収書の断片、複数の証言書――も照らし合わせると、もはや偶然では説明のつかない矛盾が浮かび上がる。
「あの……これは、ですね……! 違うんです、殿下は、私は……!」
横にいたイザベルが泣き崩れそうな顔で慌てるが、ここまで証拠が揃うと「ただの言いがかり」では済まされない。取り巻きの貴族たちの間にも動揺が広がり、一部は「……もうごまかせん」と呟く者までいる。
「王太子殿下。あなたはこの件、どう釈明なさるのですか?」
アレクサンダー殿下が静かな口調で問いかける。エドワードは顔を真っ赤にして目を逸らし、逆上したように声を張り上げた。
「兄弟であるお前が、俺を貶めるために仕組んだに決まっている! お前は王位を奪い取りたいのだろう! そのためにこの女を利用して、俺を陥れたのだ……!」
濡れ衣も甚だしいが、予想できた反応でもあった。アレクサンダー殿下は苦い笑みを浮かべる。――そして、王太子に向かって一歩踏み出し、はっきりと言った。
「兄上、私には王位など欲しくもありません。私が望むのは、この国が正しくあることだけです。……もしあなたが真っ当な王になるなら、私は身を引くつもりでした。ですが、こうして明るみに出た不正は、国を腐らせるものです。――この場を以て、あなたには“次期国王としての資格がない”と判断せざるを得ません」
「なっ……貴様っ……!」
王太子は激昂し、殿下を殴りかかりそうな勢いだったが、国王陛下の一喝がその動きを止めた。
「エドワード! 止めぬか! ……これ以上、王族の品位を貶めるな!」
その声には怒りと悲しみが混じっているように聞こえる。陛下は息を整えながら、しかし毅然たる眼差しで王太子を見据えた。
「……いま、私は王として、そしてお前の父として問う。これらの書類は捏造ではないのか?」
王太子は口を開きかけたが、すぐに視線を落とす。何か言葉を紡ごうと唇を震わせているが、出てくるのは荒い息ばかりだ。いつもの傲慢な余裕は消え失せ、その姿はまるで迷い込んだ獣のように見えた。
「……あぁ……くそっ……」
とうとう、言葉にならない声だけが漏れ出す。もはや反論のしようがない証拠を前に、王太子であっても逃げ場はない。――こうして、私は心の中で“勝った”と確信する。あのエドワードが、こんなにも無力な姿を晒す日が来るなんて……。
すぐ隣では、イザベルが恐怖に駆られたように顔面蒼白となり、取り巻きの貴族たちも沈黙する。もはや言い逃れは不可能なのだ。国王陛下はしばらく目を閉じたまま沈黙していたが、やがて重苦しい口調で告げた。
「……エドワード、今ここにある書類を裏付ける関係者の証言が揃えば、お前は重罪に処されることになる。国外追放か、あるいは――」
その先の言葉を聞くまでもなく、エドワードは力なく膝をついた。イザベルも半泣きのまま取り巻きに支えられている。私に向かって睨みをきかせようとしたが、すぐに視線を逸らした。その姿は、もはや哀れとしか言いようがない。
「……スカーレット・ウィンザーよ。お前は、よくぞここまで証拠を集めたな。……かつての婚約者への情など、さぞ複雑だっただろうが、これはお前の勇気ある行動だと認めよう」
国王陛下は苦しげに言い、私を見つめる。その目には後悔の色があるようにも思える。私の婚約を決めたのは、先王――つまりエドワードの祖父とウィンザー家との間の取り決めだったが、陛下もそれを引き継ぎながら十分に目を光らせなかった責任を感じているのかもしれない。
「いえ、私は……ただ、この国が間違った方向に進むのを見過ごせなかっただけです」
そう答えると、アレクサンダー殿下が優しい声音で続ける。
「父上、このまま兄上を王太子の座に据えておくのは危険です。速やかに“王位継承権”を剥奪し、公正な裁きを下すべきではないでしょうか。そして……新たな王位継承者が必要です」
「……そうだな。私もそう思う」
その決定的な言葉により、王太子エドワードは“王位継承者の資格を喪失”することとなった。イザベルや取り巻きたちも共犯として厳しい処罰を受ける可能性が高い。実際の刑罰や処遇は、これから改めて裁判を行い、最終的には国王陛下が裁可を下す形になるだろうが――その結末はもはや見えている。
こうして、私の“ざまあ”は現実のものとなったのだ。私はかつて王太子エドワードに婚約破棄を突きつけられ、嘲笑され、見捨てられた。けれど今、彼が失脚する姿を目の当たりにし、溜飲を下げるよりもむしろ、“虚しさ”と“解放感”が同時に押し寄せてくるのを感じる。――もう、彼に縛られる必要はない。私の人生は、私の手で切り開いていいのだ、と。
終幕:新たなる未来――第二王子との誓い
その後、大広間に戻った我々を見て、ざわついていた客たちは一斉に静まり返った。王太子が見当たらないこと、イザベルの姿もないこと――そして何より、アレクサンダー殿下が国王陛下に伴われて中央へ進み出たことが、その異変を物語っている。
陛下は短く事の次第を説明し、“王太子エドワードの王位継承権は即刻剥奪された”こと、さらに“アレクサンダー殿下を新たな王太子とする”旨を宣言した。会場内は騒然となったが、中には「やはり……」という顔をする者もおり、拍手が起こり始める。腐敗を嫌っていた改革派や良識派は、これを機に国が変わるのではないかと期待しているのだろう。
「皆の者、安心してほしい。私は、兄上の不正が一部の取り巻きによる過ちなのか、それとも本人の意思によるものか、きちんと裁きたいと思う。いずれにせよ、国を混乱させるような行為は許されない。――そして、私も未熟な身ではあるが、国王陛下を支え、近い将来に王位を継ぐべく精進する所存だ」
アレクサンダー殿下はそう宣言し、深く頭を下げる。人々は少しずつ拍手を送り、やがてそれは大きな歓声へと変わっていった。――まるで、新時代の幕開けを祝福するかのように。
私は会場の端でその様子を見守りながら、胸にこみ上げてくるものを抑えきれなかった。ここまでの道のりは決して平坦ではなかったけれど、ようやく“国を救う”ための一歩が踏み出せたのだ。そして、私自身も長年の呪縛――王太子との婚約という足枷から解き放たれ、“自由”を手に入れたのだ。
そのとき、アレクサンダー殿下が私のほうを振り返り、柔らかな笑みを向けてきた。殿下は周囲に気を配りつつ、そっと私に近づいてくると、小さく声をかける。
「スカーレット、あなたのおかげで私はここまで来ることができました。あなたに助けられなければ、兄上の不正に立ち向かう力は持てなかったでしょう」
「そんな……殿下こそ、私を信じてくれたからこそ、私は行動できました。私一人では、きっと何も変えられなかった」
お互いに感謝の言葉を述べ合いながら、その瞳と瞳が重なり合う。――そして、アレクサンダー殿下は少し照れくさそうに微笑みながら、はっきりと言った。
「あなたには、これからも私のそばで“この国”を見守っていてほしい。もしあなたさえよければ……私の妃として、共に歩んでいただけないでしょうか」
「え……」
あまりに突然の提案で、私は目を丸くする。けれど、その言葉の真摯さを疑う余地はなかった。――かつて王太子の婚約者だった私が、今度は第二王子の妃になるなど、普通なら考えられないかもしれない。だが、腐敗を正すために共に戦った“同志”としての信頼は、単なる形式的な婚姻とはまるで違う意味を持つ。
「……私は、あなたを尊敬しています、アレクサンダー殿下。あなたの考える“正しさ”が、この国を良い方向へ導いてくれると信じています。だからこそ……私でよければ、お力になりたい」
その言葉に、殿下の顔が少し紅潮する。私のほうも胸が高鳴って仕方ない。周囲はまだザワザワしているが、私たちの小さな会話に気づく者は少ない。殿下は声を落として続きを囁く。
「ありがとうございます。あなたが共にいてくれるのなら、私はどんな試練も乗り越えられる。――どうか、これからも私の傍にいてください」
私は深く頭を下げ、そして殿下の手をそっと取る。それが、私なりの“誓いの返事”だった。かつて、王太子との婚約は愛のない契約だったかもしれない。けれど今、私が差し出す手には迷いがない。これは国のためでもあるし、私自身が真に望む道なのだ。
エピローグ:高貴なる決別――新たな人生の扉
こうして、長きに渡った“王太子の不正追及”は、一応の決着を見た。エドワードは王位継承権を失い、彼と癒着していた貴族たちは徹底的な捜査と裁判を受けることになるだろう。イザベルを含むラファエル家も厳罰は免れず、社交界から追放されるか、あるいは領地を没収される可能性が高いという。
しかし、それで国の問題がすべて解決するわけではない。腐敗した制度を立て直し、アレクサンダー殿下を中心にした“新体制”が形になるまでには、まだ多くの障害が待ち受けている。もしかしたら、王太子派の残党が何らかの形で妨害工作に出るかもしれない。海外の諸国との外交問題だって山積みだ。
けれど、私はもう一人ではない。ウィンザー公爵家の支えもあるし、アランやボリス、さらに有志の傭兵たちも協力を惜しまないと誓ってくれた。そして何より、アレクサンダー殿下が私を“共に国を導く相手”として見てくれている。これほど心強いことはない。
私は屋敷の自室で、窓から差し込む陽光を浴びながら、一枚の紙片に目を落としていた。そこには、かつて婚約破棄を突きつけられた夜会の招待状――今となっては色あせた思い出の品が残っている。あのときの屈辱と解放感、複雑に入り混じった感情が脳裏をよぎる。だが、もう過去は振り返らない。あれは、“新しい道を歩む”ための運命だったのだとすら思える。
「――婚約破棄してくださって、ありがとう」
昔の私なら決して言えなかったであろう台詞を、今なら心の底から呟ける。それほどに、現在の状況――不正を暴き、国を良くする方向へ踏み出した自分の人生に満足しているのだ。
まもなく、アレクサンダー殿下から正式に“新たな婚約者”として紹介される日が来るだろう。そのとき、世間は「捨てられた公爵令嬢が第二王子の妃になるなんて」と再び騒ぎ立てるかもしれない。けれど私は、今度こそ堂々と胸を張って言える。“愛と信頼”で結ばれた婚約なのだと。
王太子エドワードに見下され、蔑まれ、捨てられた日々はもう二度と戻らない。あの暗い感情は、私の背中を押す原動力となり、こうして未来を切り開く結果へと繋がった。これから先、どんな荒波が待ち受けようとも、私はもう逃げない。――大切な仲間たちと、新たな王と歩む道を、強い意志をもって進んでいく。
そう、これは“婚約破棄ざまあ”の先にある、本当の幸せと自由を掴み取った物語。かつての王太子と新たな王太子――二人の王子の間で巡る因縁に、私は自分の答えを出したのだ。
――だから、もう一度だけ言おう。
「さようなら、エドワード殿下。あなたが捨ててくれて、本当に良かった」
私は微笑みながら、陽光の中で瞳を閉じる。そこには、アレクサンダー殿下が差し伸べてくれた手が、明るい未来へと導いてくれる姿が確かに見えた。
この国が、いつか真に平和で豊かな場所となるように。そして私も、ウィンザー家の公爵令嬢として――いずれ“王妃”として――その日々を支えていくのだ。
静かな風が吹き込む窓辺で、私は高らかに胸を張る。もう、誰にも私の道を奪わせない。かつては“王太子妃になるしかなかった”私が、今は“自分の意志で未来を選ぶ”のだから。