目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第3話 陰謀の罠と揺れる決意

 ――王太子エドワードとの婚約破棄から、半月ほどが過ぎた。


 ウィンザー公爵家の屋敷は、表向きは平穏を取り戻しているように見える。あの日、父は私に向かって「しばらく大人しくしていろ」と言い渡し、私もまた「表立った行動は控える」よう努めてきたからだ。おかげで社交界では「捨てられた公爵令嬢は塞ぎ込んでいる」などと、ありがちな憶測が広まっているらしい。


 けれど、これはあくまでも“外面”に過ぎない。実際には、私は夜な夜な手持ちの証拠を整理し、第二王子アレクサンダーの腹心であるレオ・グレイヴスと密かに連絡を取り合い、王太子周辺の腐敗を探る作業を続けていた。父には「書物の整理をしている」「気晴らしに庭を散歩している」などと伝えているが、時々は父に怪しまれているような視線を感じることもある。


 それでも、私には退くつもりはなかった。アレクサンダー殿下に託した希望を実現するためには、一度動き始めた以上、立ち止まるわけにはいかないのだ。王太子エドワードの不正に気づく者たちを少しずつ味方につけ、やがて殿下が決定的な一手を打てるよう、情報を精査していく――それが私の使命だと思っている。


 もっとも、具体的に何がどこまで進んでいるのか、私の目に届く範囲は限られている。アレクサンダー殿下は「内部調査」を進めると言っていたが、王宮には王太子派の取り巻きが多く、情報を得るだけでも困難を極めるはず。だから、私は私にできること――つまり「ウィンザー家の情報網」を使った裏付けや、関係者の動きを注視することに専念している。


 そうして迎えた、ある日の午後。


 私は父に呼び出され、久しぶりに応接室の扉をくぐった。そこには母の姿もなく、父が一人でソファに腰掛けている。相変わらず渋い表情だが、以前よりも落ち着きを取り戻しているようにも見えた。


「父様……私をお呼びだと伺いましたが、どのようなご用件でしょうか」


 私は丁寧に一礼してから、促されるまま椅子に腰を下ろす。父は一息ついてから低い声で切り出した。


「スカーレット。お前が今、どのように動いているのか、私は知らないわけではない。……王太子への不正追及をやめてはいないのだろう?」


 突然の直球に、私は軽く息をのむ。父はまっすぐに私を見つめており、その瞳には厳しさと、そしてどこか陰りのようなものが混じっている。


「……私は、ウィンザー家としての責務を果たそうとしているだけです。国を守るためには、王太子殿下の腐敗を見過ごすわけにはいきません。父様だって、そう思っているのでは……」


「思っている。だが、お前は“無茶をするな”と言ったはずだ。それに、裏でアレクサンダー殿下と連絡を取り合っているのだろう?」


 ――どうやら、そこまで見抜かれているらしい。私は素直に頷く。


「殿下は、私の持つ証拠を『役に立つ』と仰ってくださっています。表に出せば、王太子殿下を追及するのに十分な糸口になるはずです」


 そう答えると、父は険しい顔で唸るように言った。


「スカーレット……。お前はまだ分かっていない。王太子を告発するというのは、王家に対する重大な挑戦だ。しかも、相手は国の次期王として多くの取り巻きを抱えている。これまでにも、王太子の不正をそれとなく指摘しようとした者が“突然の死”や“失踪”に見舞われた例がないわけではない。……お前がどうなるか、想像できないのか?」


 胸がずきりと痛む。私の身を案じている父の気持ちは分かるし、私も自分が無事でいられる保証などないことは承知している。


 それでも、と私は唇をかみしめる。


「分かっています。それでも、私は……」


「……もういい。お前が聞く耳を持たないのは、よく分かった。だが、私のほうも何もしていないわけではない。ウィンザー公爵家として、『もし王太子の不正が確実なものであれば、国のためにそれを止めなくてはならない』という結論は出している。だから、お前が集めた証拠を私にも見せろ。私が精査する」


 私は思わず目を瞬かせる。父がこんなふうに“前向き”な発言をするのは珍しい。


「父様……私の持っているものは、すでにかなりの数がありますが……」


「ああ、構わない。お前がウィンザー家の人脈を使って集めたというなら、私の手元にある情報ともすり合わせて、どこまで立証可能かを調べたい。……これは、私からの“協力”だと思ってくれて構わない。ただし、誰にも悟られないように細心の注意を払え。お前の動きが大きくなれば、必ず王太子派が嗅ぎつける」


 この言葉は、明確に“私を支持する”姿勢を意味している。父は慎重な性格だからこそ、ようやくここまで踏み込んでくれたのだろう。思わず胸にこみ上げるものがある。私は深く頭を下げた。


「ありがとうございます、父様。必ずや、お力になります」


「ただし、アレクサンダー殿下とは適度な距離を保て。あまりにも接近しすぎると、王太子派から“妄想”を植え付けられる可能性もある。――お前が『第二王子と通じてクーデターを企てている』などという噂が広まれば、我々の動きは一瞬で潰される」


 それはまさに、私も恐れていた最悪のシナリオの一つだ。アレクサンダー殿下自身もそういった内紛を望んではいない。私たちの目的はあくまでも「国を正常な方向へ導くこと」――クーデターなどという血生臭い手段ではない。


 私は決意をこめて答える。


「承知しました。殿下にも、必要以上の接触は慎むようにお伝えします。でも、もしも急を要する場面があれば……」


「そのときは私に相談しろ。……お前が勝手に動いて、取り返しのつかない事態になってからでは遅い」


 父はそう言うと、ひとつ大きく息を吐いた。彼なりに覚悟を決めてくれたのだろう。この国や王家の未来を憂いながら、私たちが取るべき道を模索しているのだ。


 こうして、私と父の間にはかすかな“共闘”の空気が生まれた。まだ心強いというほどではないかもしれないが、少なくとも父が完全に背を向けてしまう可能性は遠のいた。私はそれを心の支えとし、早速書類の複製を用意して父に渡すことにした。


 それから数日後、私はアレクサンダー殿下の腹心であるレオ・グレイヴスと連絡を取り、一度だけ密会の機会を設けてもらった。父の忠告どおり、殿下本人と直接会うことは避け、あくまでも“使者”を介する形にするためだ。


 場所は王宮のはずれにある小さな書庫――普段はほとんど使われていない旧管理棟で、一部の公文書が埃をかぶって眠っていると聞く。そこなら人目も少なく、私が仮に訪れても「古い資料を探しに来た」と言い訳が立つ。


 夕暮れ近くに馬車で王宮へ向かい、使用人口から書庫へ入り込む。冷えた石造りの廊下を渡って行くと、ランプの灯りに照らされてレオ・グレイヴスが待っていた。


「スカーレット様、こんにちは。お待ちしておりました」


「こちらこそ、お忙しいなかありがとうございます。……殿下は、いかがですか?」


 レオは周囲を警戒するように一瞥したあと、小声で答える。


「殿下はお変わりありません。ただ、最近になって王太子殿下の取り巻きが王宮内で妙に活発に動いている気配があります。人事異動や会計担当の交代が相次ぎ、あれこれと裏で手を回している様子が……。殿下もその動向を注視されている最中です」


 やはり、王太子エドワードは自分に不利な証拠が表に出る前に対策を講じているのだろう。内部文書を差し替えたり、余計なことを知る者を排除したり――そんな恐ろしい想像が容易に浮かんでしまう。


「私のほうも、父の協力を得て少しずつ情報を突き合わせているところです。でも、もし王太子派が証拠の隠滅を始めたとすれば、これ以上、悠長に構えてはいられませんね」


「ええ、殿下も同じご意見です。近いうちに“確証”となる資料を押さえる必要がある、と。そこで――実は、殿下には少々気になる手がかりがあるそうです。どうやら、王太子殿下の旧知の商人が、裏帳簿を保管しているという噂があるのですが……」


 裏帳簿――それが事実なら、王太子の不正を示す決定的な証拠になる可能性が高い。私も自然と身を乗り出す。


「その商人は、どこに?」


「王都の外れにある“商人地区”というのをご存知ですか? あそこは平民や移民、時にはならず者も入り混じる雑多な街でして……。殿下がご自身で行くのは危険すぎる。しかし、貴族の私設兵を動かせば、逆に警戒されて証拠を消されるでしょう」


「なるほど……。つまり、私やウィンザー家の人間が大っぴらに踏み込むのも得策ではない、ということですか?」


「はい。ですが、そこに潜り込める人材がいれば、裏帳簿を確認することができるかもしれない。……殿下はそう考えておられますが、まだ具体的な方法が見つからないようです」


 私は思案する。王都の外れの商人地区――普段、貴族や上層市民が訪れるような場所ではない。治安が悪く、密輸や闇取引が横行しているという噂もある。そこで“王太子と取引している商人”がいるのなら、おそらく相当のワルか、あるいは腕利きのブローカーだろう。


「その商人が持つ裏帳簿を手に入れれば、王太子殿下の資金の流れが把握できるはず……。そうすれば、私たちの手元にある証拠と組み合わせて、一気に“黒”を証明できますね」


「おっしゃるとおりです。ただ、この件にあまり時間をかけている余裕はありません。今、王宮内部で書類の改ざんや関係者の口封じが進んでいるとすれば、裏帳簿の存在もそう長くは残らない可能性が高い」


「急がなくては……。しかし、私が直接潜り込むのも危険すぎます。私はウィンザー家の令嬢――目立つ要素しかないわ」


 書庫の半暗がりの中、私とレオは小声で作戦会議を続けた。最終的には、「裏帳簿があるらしい“倉庫”の場所」を突き止め、そこへ密かに潜入するか、あるいは商人に取引を持ちかけて裏帳簿を手に入れるか――いずれにせよ、それ相応の“交渉人”や“工作員”が必要になる。アレクサンダー殿下は、王宮から隠れて動いてくれる人材を探しているらしいが、まだ見つかっていないようだ。


「……もし、私が誰かを紹介できるかもしれない」


 突如としてそんな言葉が口をついて出た。私自身も驚くが、ふと脳裏にある人物の顔が浮かんだからだ。


「ご存じないでしょうけれど、私の遠縁にあたる“准男爵家”の青年がいて、もともと冒険者のような活動をしていたらしいのです。貴族とはいってもとても小さな家で、主に傭兵稼業を営んでいました。彼なら、闇社会にも顔がきくかもしれません」


 かつてウィンザー家は領内の有能な人材を“名誉”という形で取り立て、ささやかな称号を与えることがあった。その一人として、子供の頃に私が顔を合わせたことのある青年がいたのを思い出したのだ。彼の名はアラン・フェルド。十代半ばで領地を出たあと、さまざまな武勲を立てて生計を立てていると聞く。


「もしアラン・フェルドがまだ王都にいるなら、お願いしてみる価値はあると思います。ただ――私も正確な居所を知らないのですが」


「なるほど。どのみち、誰か信頼できる『交渉役』が必要です。もしフェルド様がご協力くださるなら、殿下も心強く感じられるはず」


 レオはそう言って、安堵した様子を見せる。私は内心で少し不安を抱えながらも、頷いた。アランとは数えるほどしか会話をしたことがないし、彼が今どうしているのかも分からない。けれど、ほかに妙案が浮かばない現状、わずかな望みに賭けるしかない。


「分かりました。私も当たってみます。アランの消息が掴めたら、レオ殿を通して殿下にお伝えしますね」


「ええ、よろしくお願いいたします。……スカーレット様、どうかお気をつけて」


 そう言って、レオは短く礼をして書庫を出て行った。私もそっと後に続く。周囲に人影はなく、ほの暗い廊下を抜けると、夕闇に染まる王宮の敷地が広がっていた。


 ――この先、私たちは更なる危険地帯へ足を踏み込むことになるかもしれない。だが、裏帳簿が手に入れば、王太子殿下が“言い逃れ不能”となる決定打となる。そうなれば、私やアレクサンダー殿下が水面下で集めた証拠を一挙に突きつけ、王太子を失脚させる道筋が一気に開けるはずだ。


 重い覚悟を胸に抱えながら、私はひとまずウィンザー家の馬車へと戻っていった。


 その夜、私は父に相談しようか迷った末、まずはアランを探すところから動こうと決意した。あまり早い段階で父に話せば、再び「危険だ」と止められる可能性が高い。どうせ動くなら、“アランが正式に協力してくれる”という確証を掴んでからのほうが交渉しやすいだろう。


 しかし、アラン・フェルドの消息を簡単に掴めるだろうか。幼い頃の記憶では、彼は私より少し年上で、茶色がかった髪を持ち、非常に快活な笑顔が印象的だった。けれど、今はもう何年も会っていない。私の知る“少年”はとっくに大人になっているに違いない。


 そこで私は、侍女のオリヴィアと相談し、まずはウィンザー家の使用人の中から、フェルド家にゆかりのある者、あるいはフェルド家の所在を知っている者を探すことにした。すると、驚くほどあっさりと「知っています」という反応が返ってきた。使用人の一人が、かつてフェルド家の従者と面識があったというのだ。


「お嬢様、フェルド家の屋敷は王都の西区画にあるそうです。とはいえ、小さな邸宅ですので、普段は留守がちで……アラン様も旅に出ておられることが多いとか」


 オリヴィアが教えてくれた情報によれば、フェルド家は形式上こそ“准男爵”という貴族扱いだが、実際は軍務や傭兵仕事で家計を支えている。アランもまた、青年期から武術に優れた才能を発揮し、各地の紛争地帯を渡り歩いてきたらしい。そのため、王都の屋敷はほぼ留守同然だという。


「それでも、まったく連絡がつかないわけじゃないのね?」


「はい。アラン様が帰還されるときには、いつも決まって“ギルド”へ顔を出されるようです」


「ギルド、というのは……冒険者や商人、傭兵の団体組合みたいなものでしょう? たしか、王都の商業区にあるとか」


「ええ、そこに行けばアラン様やフェルド家の動向を知る人がいるのではないかと。もし彼が今、王都に戻っていれば会えるかもしれません」


 私はそれを聞いてすぐにでも行きたくなったが、もちろんそんな大胆な行動はリスクが大きい。ウィンザー家の令嬢がギルドを訪れるなど、目立つに決まっている。何より、父に黙って出歩けば後で大きく叱責されるだろう。


 そこで、私は一計を案じる。――“男装”をしていけばどうだろうか、と。かつて、まだ王太子の婚約者であった頃、王宮の式典で男性の軍服を模した衣装を試しに着てみたことがある。そのとき、意外にも顔立ちが中性的だと評判になり、「遠目には男に見えるかもしれない」と侍女たちに囁かれたものだ。


「男装……ですか?」

 オリヴィアは驚きながらも、私の言葉に真剣な表情を返す。


「そう。もちろん、人目を完全に欺けるわけではないけれど、ギルドのような雑多な場所なら、多少怪しくとも目立たないかもしれない。一人で乗り込むのは危険だから、あなたをはじめ、信頼できる数名を連れていく。そして、“商人の子息”を装って情報を探るの」


「お嬢様……本気なのですね」


「ええ。父様に黙ってここまで大掛かりなことをするのは気が進まないけれど、あまり時間がないの。それに、アランに直接会って交渉するなら、なおさら素性を隠したほうが安全だわ。……下手に“ウィンザー家の令嬢が助けを乞う”なんて言ったら、彼も身構えてしまうかもしれない。まずは私のほうから様子を探りたい」


 オリヴィアは戸惑いながらも、最後には「分かりました」と頭を下げてくれた。本来なら命がけの行為だが、彼女は私を幼い頃から守ってくれてきた侍女であり、どんな苦労も共に乗り越えてくれると信じている。


 それから数日のうちに、私は必要な物資や衣装を極秘裏に整え、密かに男装する段取りを進めた。屋敷内でも少しずつ変装の練習をし、動きやすいように髪をまとめ、帽子やウィッグなどを試す。何度か鏡の前で姿を確認したが、背はそれなりに高いほうなので、遠目から見れば確かに“少年”か“青年”に見えなくもない。


 そして迎えた当日の早朝、私はオリヴィアをはじめ、数名の信頼できる侍女と下男を連れ、ひそかにウィンザー家を出発した。父には「知人の家へ出かける」とだけ伝えてある。ひょっとすると何か感づいているかもしれないが、今は問い詰められないよう、できる限り急いで屋敷を後にした。


 目的地は、王都の商業区にあるギルドの建物。そこでは冒険者や商隊、傭兵たちがそれぞれの依頼や情報を交換し合っている。入り口には粗野な身なりの男たちがたむろしていて、私たちが馬車を降りるなり、興味深げにこちらを見る。


「お嬢様……いえ、今は“旦那様”とお呼びすべきでしょうか」


 オリヴィアが冗談めかしてささやく。私は苦笑しながら、自分の顔が極端にこわばっていないかを気にする。服はシンプルなズボンと上着で、胸元の膨らみが目立たないようにサラシを巻いている。帽子を深くかぶってやや下を向けば、女性であることは分かりにくいはずだ。


 侍女や下男たちも、普段とは違う“身分のはっきりしない従者”として同行している。こういう場所では、明らかに上流貴族の従者という雰囲気を漂わせれば疑いを招くため、できるだけ地味な服装に変えているのだ。


「……行きましょう。あまり堂々としすぎるのもまずいけれど、怯えていると逆に怪しまれそう」


「分かりました。気をつけて」


 私たちは足早にギルドの建物へ向かい、中へ入る。室内には様々な人々が行き交い、カウンターで依頼を請け負う者、壁に貼られた求人票を眺める者、酒を飲み交わす者など、雑然とした活気に満ちていた。


 胸がどきどきと鳴る。貴族の社交場にはない独特の熱気が、肌を刺すようだ。私は顔を伏せ気味に歩きながら、カウンターのほうへ近づく。そして、小声で受付係の女性に話しかける。


「すみません。……あの、フェルドという名の冒険者(傭兵)の方を探しているのですが」


 私の低い声に、受付係の女性はちらりと私を見やる。視線には警戒の色が混じっているが、別段不審者扱いはしない。


「フェルド……アラン・フェルドのことかしら?」


「ええ、そうです。お会いしたいのですが、今はいらっしゃらないでしょうか」


 受付係は小さく唸りながら、手元の大きな帳簿をめくっている。その横で私は唾をのむ。どうか在籍していてくれればいいけれど……。


「アラン・フェルドなら、半月ほど前に国外へ出たと記録がありますね。でも、『またすぐ戻る』とも聞いたわ」


「つまり、今は留守、ということですか?」


「ええ、何か急ぎの用事? 彼の連絡先を預かっているわけじゃないけど、もし伝言なら聞いておくわよ」


 困った。想像以上にあっさりと空振りしてしまうとは。私は少し言葉に詰まってから、答える。


「……そうですか。では、もしアラン様が戻られたら、“古い知人が訪ねてきた”とだけ伝えていただけませんか。名前は……そうですね、“スカー・フェル”とでも。これを預けておきます」


 そう言って、私はあらかじめ用意していた小さな紙切れを女性に手渡した。そこには“スカー・フェル”という偽名とともに、ウィンザー家の存在を匂わせない簡単な宿の連絡先が書いてある。あくまで私が仮に滞在している“下宿”という体の住所だが、実際にはオリヴィアが手配してくれた貸し部屋だ。


「分かったわ。彼が帰国したら伝えるようにする。でも、いつになるかは保証できないわよ?」


「ありがとうございます。助かります」


 受付係の女性は軽く肩をすくめ、帳簿を元に戻した。どうやら、これ以上は情報を期待できそうにない。私は軽く頭を下げてカウンターを離れる。後ろでオリヴィアや下男たちが心配そうにこちらを見ている。


(仕方ない……。ひとまずアランが戻るのを待つしかないのか)


 思いのほかあっさり進展が止まってしまい、落胆の念が胸を落とす。もしアランがしばらく帰らないとなれば、王太子の不正を暴くための裏帳簿を手に入れることは一層難しくなるだろう。時間がないというのに、どうにかならないものか……。


 そう思いながら出口へ向かおうとすると、ふと背後から声がかかった。


「おい、そこのアンタ。今『アラン・フェルド』を探してるって言わなかったか?」


 振り返ると、筋肉質の大柄な男が立っている。髭面で傷のある顔だが、どこか人懐こい笑みを浮かべている。私は警戒心を抱きつつも、反射的に尋ねる。


「ええ、そうですが……あなたは?」


「俺の名はボリス。アランとたまに組んで仕事をする仲間だ。アンタ、アランとどんな関係だ?」


 正直に答えるわけにはいかない。私は心臓を落ち着かせ、低めの声で言葉を選ぶ。


「少し前に世話になったことがあるんです。別に深い仲ってわけでもないけど、ちょっと依頼したいことがあってね」


「なるほどな。……アランなら、最近までちょいと北方の国境地帯で傭兵隊と一緒に仕事してたが、そろそろ戻って来るって噂だ。俺も近々会いたいと思ってたところさ」


 この男が信頼できるかどうかは分からないが、ともかくアランの情報を持っていそうだ。私は少し言葉を濁しながら、話を続ける。


「そうなんですか。もし本当に戻って来るなら、いつ頃になるかご存知ですか?」


「さあなあ……明日かもしれないし、来週かもしれない。だが、王都に寄るのは確実だろう。アイツは必ずギルドに顔を出すからな。アンタ、そいつを見込んで待つつもりか?」


「そうしたいところですが、あまり長居もできなくて……。もしあなたがアランに会う機会があれば、“スカー・フェルという者が探していた”と伝えてもらえないでしょうか」


 ボリスと名乗る男は顎髭をさすりながら、じろじろと私を眺める。


「スカー・フェル、ねぇ……。分かった。アランに会えたら伝えとく。ところでアンタ、随分と細っこいが本当に男なのか? 声が妙に澄んでるような……」


 一瞬、背筋が凍る。私は慌てて帽子を押さえ、視線を外しながら言葉を濁す。


「……さあね。これは生まれつきでね、よくからかわれるんだ。あまり気にしないでくれ」


「へっ、そうか。悪い悪い。まあ、世の中にはいろんな奴がいるさ」


 どうやら納得してくれたようだ。ボリスは豪快に笑い、手を振って去っていった。私はほっと息をつき、オリヴィアたちのもとへ戻る。


「どうでした、お嬢様……?」


「アランはしばらく帰らないかもしれない。でも、ここに戻ってくる可能性はあるみたい。ギルドの人にも今の男の人にも伝言を預けたから、もしアランが帰ってくれば私に連絡を入れてくれるはず」


 オリヴィアはそれを聞き、眉を下げる。


「しばらくは待機ですね……。王太子殿下の動きも気になるというのに、じれったいですわ」


「仕方ないわ。こればかりは、アランを無理やり連れ戻せるわけじゃないもの……。もう少し粘ってみましょう。いずれ絶対に動きがあるはずよ」


 私はそう言って自分を納得させる。今はまだ、どうにもならない。だが、裏帳簿を手に入れるにはアラン・フェルドのような人材の協力が不可欠なのだ――そう自分に言い聞かせて。


 ギルドを後にした私たちは、馬車で手配している貸し部屋へ向かい、一旦拠点を構えることにした。そこはウィンザー家が街道筋の屋敷を管理するために借りていた古い家で、内装は質素だが人目につかず便利な場所だ。


 夕刻、部屋の窓から外を眺めると、少しずつ陽が落ち、町の灯りがともり始めている。私は男装を解いて軽く身を拭き、侍女たちが用意してくれた夕食に手をつける。けれど、さほど空腹も感じず、思わず溜息ばかりが出てしまう。


「お嬢様……今夜はお休みになったほうがいいですよ。ここしばらく、あまり眠れていないのでしょう?」


 オリヴィアが気遣うように声をかける。確かに、私の頭の中は王太子の不正への焦りと、アレクサンダー殿下への報告手段、そしてアラン捜索のことなどが渦を巻き、夜もよく眠れていない。


「分かったわ。あなたたちも早めに休んで。明日は少し周辺の情報を集めてから屋敷へ戻りましょう。父様が不審に思う前に、なるべく表向きは“知人宅で過ごした”ことにしておかないと」


「かしこまりました」


 オリヴィアはそう言って部屋を出て行く。私は一人きりになると、窓辺の椅子に腰掛け、遠くの夜空を見上げた。雲の切れ間に小さく星が見える。――もし今、王宮ではアレクサンダー殿下が不正摘発のための準備をしているのだろうか。それとも、逆に王太子殿下がさらなる手を打っているのかもしれない。


 ここにきて足踏み状態なのがもどかしい。だが、焦ったところで裏帳簿は手に入らない。私にできるのは、ひたすらアランが戻ってくるのを待つこと……。


 そう自問自答していると、突如として廊下から小走りの足音が聞こえ、オリヴィアが慌てた様子で部屋へ戻ってきた。


「お嬢様、大変です! 先ほどの男――ギルドで話しかけてきたボリスという方が、こちらに来られました! どうやって居場所を突き止めたのか、戸口で“スカー・フェル”に会わせろと言っています!」


「え……? あの男が、どうしてこんなに早く……」


 私は心臓が跳ねる。ボリスがアランの情報を持ってきたのか、それとも別の意図があるのか。いずれにせよ、不用意に会うのは危険だが、今はこの貸し部屋にいる以上、居留守を使っても怪しまれるだろう。


 私は急いで再び男装の服を羽織り、髪を帽子の中に押し込み、最低限の変装を整えた。


「オリヴィア、外で見張っていて。何かあればすぐ助けを呼んで」


「承知しました。でも本当にお気をつけて」


 そして私は廊下へ出る。入口近くの簡素な客間へ向かうと、すでにその場にはずんぐりとした体格の男が立っていた。――間違いない、ギルドで出会ったボリスだ。


「……驚いたぞ、アンタがこんな所に隠れ家を構えてるとは。どういう素性かは知らんが、いやはや大した奴だ」


 ボリスはニヤリと笑う。私は毅然とした態度を装って応じる。


「いきなり訪ねてきて、一体何の用です? 私は依頼を出しているだけで、あなたと取引するつもりはない」


「まあ、落ち着け。実はアランの情報を掴んだんだ。アンタも知りたいだろ?」


「……! 本当ですか?」


 まさかこんなにも早く手掛かりが出るとは思わなかった。ボリスが嘘を言っている可能性もあるが、もし本当なら見逃せない。


「おうよ。今日の夕方、街道のほうでアランと鉢合わせしたんだ。ヤツは国境の仕事を終えて、王都へ戻る途中だったらしい。明日の昼前にはギルドに来るってさ」


「明日の昼前……! 分かりました。ありがとうございます」


 思わず安堵しそうになるが、一方で疑問も湧いてくる。なぜ彼はわざわざ私の居場所を突き止めて報せに来たのか。ギルドで少し話しただけの間柄で、こんなに親切に動く理由が分からない。


「それで? その報せの代わりに、私に何を望むんですか?」


 私が少し警戒の色を込めて問いかけると、ボリスはまたニヤリと笑った。


「話が早いな。実は、明日アランが来る前に、俺と一杯やりながら話をしようじゃないかと思ってな。アンタがどういう依頼をアランにしたいのか、ちょっと興味があるんだ」


「興味……?」


「ああ。アランは腕が立つが、仕事を選ぶタイプだ。汚れ仕事はあまり好まない。アンタがどんな依頼をする気なのか、俺には関係ないと思っちゃいるが……やはり仲間として気になるんだよ。もし危険な橋を渡るってんなら、俺も少しは手を貸せるかもしれないからな」


 ボリスの言葉が本心なのかは読み取りづらい。だが、彼がアランを案じているのは事実らしい。私は少し逡巡した末、


「すみませんが、私は依頼主のプライバシーをペラペラ話すつもりはありません。それに、あなたの協力が必要とも限りませんし」


「ふっ、まあそう言うなって。こちとら善意だぜ? 実際、俺も何か面白い話がないか探してるところなんだよ。もし、アンタが俺に“話せる範囲”のことを少しでも教えてくれりゃ、手伝えるかどうか判断できるだろ?」


 押しの強い口調に、私は少し困惑する。本来なら即座に断るべきなのかもしれないが、ここで下手に突き放すと、逆に相手を敵に回す危険もある。


「……分かりました。では、今夜は遅いので明日の朝、改めてどこかでお会いしましょう。あまり人目につかない店がいい。私もここであなたをもてなす余裕はありませんし、あなたもこんな部屋じゃ落ち着かないでしょう?」


 ボリスは「おう、助かる」と嬉しそうに頷いた。


「じゃあ明日の朝、王都の西門近くに“白鷹亭”って宿屋がある。あそこの奥に小さな飲食スペースがあるんだが、そこで待ってるぜ。……変に裏切ったりしないことを祈ってる。アンタ、隠し事が多そうだからな」


 その言葉を最後に、ボリスは手を振って出ていった。私は彼の背を見送り、深く息をつく。


(明日の昼前にアランがギルドに現れる。ボリスは朝から私と会うつもり。……どう転んでも、波乱は避けられないわね)


 だが、これは好機でもある。もしアランと直接話ができれば、裏帳簿入手のための交渉を始められる。そこにボリスという男がどう絡むのか分からないが、場合によっては彼の力も利用できるかもしれない。


 私はオリヴィアに事の次第を報告し、明日の段取りを話し合うことにした。


「お嬢様……急展開ですね。ボリスという方、信用なりませんが、利用できるものは利用するしかないのでしょうか」


「私もそう思ってる。何らかの裏があるかもしれない。でも、彼が間に入ってくれるなら、逆にギルドや傭兵仲間に怪しまれずアランと接触できる可能性もある。……ただ、あまり深入りは禁物ね」


「分かりました。明日はまた男装なさるんですよね? 私たちも警戒を怠りません」


 こうして、私たちは新たな一日を迎えることになった。私の胸には高揚感と不安が入り混じり、眠れるかどうか分からない。それでも、今は前に進むしかない。――裏帳簿という“鍵”を手に入れるために、そして王太子エドワードを追い詰めるために。


 だが、このときの私はまだ知らなかった。明日、王都の一角で起こる出来事が、私の想像をはるかに超える危機を連れてくることになる――ということを。


 夜が更け、月が雲間に隠れたり現れたりを繰り返す頃、王宮の奥深くでは、別の思惑が渦を巻いていた。煌びやかな灯りが届かない一室で、王太子エドワードの腹心である貴族たちが囁き合っている。


「殿下、そろそろ“あの公爵家の令嬢”への対処を本格的に考えねばなりません。動きが少ないとはいえ、このまま放置すれば何を仕出かすか……」


「そうだな。まさか、あの女がこんなに簡単に大人しくなるとは思えん。――ウィンザー家も内心では我々を睨んでいるはずだ」


「近頃、陛下も少しばかり兄弟間の不仲を気にしておられるようです。第二王子殿下が何か策を講じているのではという噂も……」


 闇の中で交わされる会話は、どれも王太子周辺の焦りを示している。エドワード本人は椅子にふんぞり返り、イザベル・ラファエルを隣に従えたまま冷徹な表情を浮かべていた。


「ふん……ウィンザー家の動きなど、たかが知れている。だが、スカーレット・ウィンザーには少しばかり手を焼いた記憶があるからな。あの女は冷静だが、内側に妙な芯の強さを持っている。放っておけば面倒だ」


「いっそ、ウィンザー家を揺さぶり、あの娘を表に引きずり出してから叩き潰すという手もありますわ。ねえ、殿下?」


 イザベルが微笑みながら口を挟む。彼女は王太子の愛人としてだけでなく、裏の取引にも深く関わっているらしく、最近は社交界でますます強気な姿勢を見せているという。


「イザベル、お前は賢い女だ。……そうだな、あの娘が今どうしているか調べさせろ。もし妙な動きがあれば、先手を打って潰すだけのこと」


 エドワードの瞳には冷酷な光が宿る。イザベルと取り巻きたちは、それに応えるように薄く微笑んだ。


「もちろんです、殿下。ウィンザー家など、私たちの一存でどうにでもなりますわ」


 闇の会合は、王太子の不遜な笑い声をもって終わりを告げた。――スカーレット・ウィンザーが、間もなく“本格的な罠”に引きずり込まれることも知らずに。


 こうして、ウィンザー家の令嬢・スカーレットが王太子打倒のために動き始めた裏で、王太子派もまた“決着”を急いでいた。

 ――次なる局面は、誰もが予想しない形で訪れる。渦中にあるスカーレット本人すら、この夜の時点では己が踏み込もうとしている深い闇の全貌を知る由もなかった。


 国を揺るがす陰謀が、いよいよ姿を現し始める。

 真実を追い求めるスカーレットの決意は、裏切りの鎖を断ち切れるのか――。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?