王都の空は、季節外れの雷鳴に震えていた。
その
額には汗。胸は妙な
(
意識は明瞭だった。ここは自室、馴染みのある
だが、この記憶はどこから来たものなのだろう。
まるで、別の人生の出来事を、突然思い出したかのような奇妙な感覚。
これは、夢ではない。
断片的ながらも、あまりにも鮮明だった。
この世界が「白百合と紅薔薇」という物語の舞台であること。
そして、妹――マルガレーテ・ベルクヴァインが、その物語における悪役令嬢の
「断罪……公衆の面前で婚約を破棄されて、しかも“ヒロイン”に、すべてを奪われる……」
胸が凍り付くようなような未来だった。
明日から、マルガレーテは王立学院に新入生として入学する。
同級生には彼女の婚約者――第三王子ユリウス・フランツ・シュタール。
そして物語のヒロイン、平民出身の特待生――エルザ・グラーツ。
平民の特待生が入学してくることは、既に貴族の間でも話題になっていた。
けれど、まさかそれが「彼女」だとは、夢にも思っていなかった。
フィロメーラの顔から血の気が引いていく。
このままでは、妹は「悪役令嬢」として扱われ、嫉妬と誤解、陰謀に巻き込まれ――最後には破滅する。
(そんなの、絶対に駄目。許せないわ。あの子が不幸になるなんて)
フィロメーラは静かに立ち上がると、足音を忍ばせて妹の部屋へと向かう。
寝台の中で、マルガレーテは静かに眠っていた。
琥珀色の髪が薔薇色の頬を縁取り、まるで童話の眠り姫のように愛らしい。
フィロメーラは、その寝顔を見つめながら、目元を優しく和らげた。
「守ってみせるわ……マルガレーテ。私の、かわいい妹」
妹を守るには、物語の筋書きを壊すか、書き換えるしかない。
それが前世の記憶を取り戻した自分に与えられた運命。
いや、「姉」として当然果たすべき責務だった。
◆
翌朝。
入学式を目前に、フィロメーラは朝食の卓についた。
「お姉さま、顔色が悪いわ。眠れなかったの?」
マルガレーテが
普段よりも少しだけ素直なその声音に、フィロメーラの胸がちくりと痛んだ。
「ええ、少しね。緊張しているの。貴方の“未来”に」
「……もう、からかっているの?」
唇を尖らせたマルガレーテに、フィロメーラは微笑みを返す。
「いいえ。本当に、誇らしいのよ」
マルガレーテがきょとんとした顔で目を瞬かせる。
その愛らしい仕草を見つめながら、フィロメーラは心の中で、静かに誓った。
(この子を、“悪役令嬢”になどさせない。どんな手を使っても――物語の筋書きなんて、変えてみせる)
朝食の席には両親も同席していた。
父である侯爵は新聞に目を通しており、母はマルガレーテの制服姿を確認している。
「二人とも、気をつけていらっしゃいな」
母が微笑んだ。
「マルガレーテ、ユリウス殿下の側に立つには、言葉遣いも仕草も大切ですからね」
「はい、お母さま。
そんな妹の言葉を聞きながら、フィロメーラは胸の奥にまたひとつ、不安を抱えた。
◆
学院の正門前。すでに王家の馬車が停まっていた。
その前に立つのは、蜂蜜色の髪に紫の双眸を持つ美しい少年――ユリウス・フランツ・シュタール。第三王子の名に相応しい、威厳と品位を湛えた立ち姿。
そして彼の隣に控えるのが、ユリウスの側近であり、フィロメーラにとって最も扱いにくい相手――
「おはようございます、フィロメーラ嬢、マルガレーテ嬢。春眠暁を覚えずですか。そのお姿でも優雅でいらっしゃるとは、いっそお見事ですね」
皮肉を含んだ挨拶が耳障りだ。しかし、声は良いのだ。残念ながら。
更に悪いことに顔もいい。黒髪に紺青の双眸が鮮やかで、凛々しい少年。
ハインリヒ・クライスラー。
クライスラー侯爵家の嫡男。
フィロメーラとは、簡単に言ってしまえば犬猿の仲だ。
ベルクヴァイン家とクライスラー家は政治的に対立している。
それもあってフィロメーラは目の敵にされているのだが、マルガレーテには当たりが柔らかい。ユリウスの婚約者だからだろうか。
妹にきつく当たらないのなら、フィロメーラにとって、理由は何でもよかった。
「おはようございます、ユリウス殿下。ごきげんよう、ハインリヒ様。相変わらずの物言いが、実に見事でいらっしゃいますこと」
「恐れ入ります。貴方ほどではないですが」
バチバチと火花を散らすような応酬に、ユリウスが苦笑する。
「本当に、いつも飽きないね、君たちは。元気でいいことだとは思うけど……さて、改めて。おはよう、マルガレーテ」
「おはようございます、ユリウス殿下。ハインリヒ様も」
マルガレーテは可愛らしく頬を染め、きれいに一礼してみせた。
ユリウスが頷く。そして、マルガレーテに手を差し出した。
「行こうか」
「はい」
ハインリヒもまた、ユリウス殿下の未来を支える存在。
そして……当面、私の「敵」ではない。
「エスコート致しましょう。フィロメーラ嬢」
「あら、クライスラー家のご嫡男であられる貴方が、
ハインリヒはにこりと笑って見せた。
嫌味な笑顔だ。
「ええ、学院中の度肝を抜いて見せるのも楽しいでしょう」
「――ハインリヒ様が宜しいのなら、構いませんけれど」
フィロメーラは軽く吐息を零すとハインリヒの差し出した手に、そっと手を乗せた。
「お姉さま、参りましょう。私たちの“物語”が始まるわ」
マルガレーテが、学院の門を潜る――
その一歩一歩が、定められた未来の歯車を狂わせる鍵になるだろう。
フィロメーラは息を深く吸い込み、胸の奥に灯る小さな炎を信じた。
この一年で、すべてを変えてみせる。妹の未来も、彼らの運命も――。