「はぁっ……! はぁっ……!」
真夏の夜の暗い森の中。十二歳の少女は、必死になって走っていた。暗闇に紛れ、もう何日間旅していただろう。
その少女は、私だった。
「はぁ……はぁ……」
出発してからしばらくは大きな道沿いを走っていたが、そんな道も馬車が一台かろうじて通れるくらいの細い道になり、途中からは森の木々の間を歩く事にした。持ち物は極少数で、食べ物と合わせて小さな鞄に詰められる程度の物だった。どうせ最初から何も持っていなかったのだから。
旅のペースは段々と落ちて来ていた。それでも、領地からの距離を考えると、もうそろそろ国境に近付いている筈だった。
でも、後ろから急に馬車の車輪の軋みと馬の嘶が聞こえて来て、身体中に緊張が走った。誰かに追いつかれたのか。心臓がドクンと跳ねると同時に、側の道から聞こえて来る音に耳を凝らしながら、私は走り出した。
「あっ……!」
木の根に足を取られ、私は転んだ。今の声を聞かれただろうか。馬車の音は近付いて来ていた……
私は目を見開いて、地面に伏せた。
パカッ、パカッ、パカッ、パカッ……
「いや〜、びっくりしたのう。まさかこんな夜遅くに、子供が一人で森の中を旅しておるとは思わんかったわ〜」
私は馬車の後ろの荷台に座っていた。
通りかかったのは屋敷の者ではなく、全く知らないお爺さんだった。彼が通り過ぎるまで声を殺して待っていたが、最後になって私は彼に助けを求める事にした。
そしてその親切なお爺さんは、何も訊かずに私を馬車に乗せてくれた。
行商人なのか、荷台には箱や樽が幾つも載っていた。その隙間に私は静かに座っていたが、暫くしてからお爺さんは私に話しかけて来た。彼は隣国であるルーイヒューゲルの言語を話す人だった。
「で? 一体何があったんじゃ」
来た。当たり前だ。見知らぬ人を拾うんだったら、一応身元確認の為、こんな質問はするだろう。特に子供相手には。
「どうかしたんじゃろ? 一人で夜遅くにどこか行こうとするなんて」
いつかは訊かれるかもしれないと思っていたので、あらかじめ決めておいた設定を頭の中でもう一度確認した。そして話し始めようとした時……
言葉が、出てこなかった。
マズイ。何か答えないと、怪しまれる…… そう思いながらも、まるで喉が塞がった様な感覚は消えなかった。
私が焦っていると、前の御者台からは、のんびりとした声が聞こえてきた。
「まぁ、話したくないんなら、別に無理せんでもええんじゃが」
私がゆっくりとお爺さんの方を向くと、彼は真っ直ぐ前を見ながら、こう付け加えた。
「でも、話を聞くくらいなら、ワシでもできるからのう」
そう言われて、私は何をどう説明するべきか、考えた。
私は、家族と一緒に住む屋敷から逃げている最中だった。以前私の母親の侍女として屋敷で働いていた人を訪ねる為に、ルーイヒューゲルへと向かっていた。
私の名前は……もう、どうだっていい。今となっては過去の名前で、もうこれからは使わない物なのだ。
私は八歳の時に、自分が転生者だと言うことに気が付いた。前世では、こことは全く違う世界で生活していた――若くして命を落とすまでは。
転生先のこの世界は、前世でプレイしていた乙女ゲームの世界だった。前世の私はそのゲームに結構ハマっていて、配信されていたキャラは全員攻略済みだった。
だが困ったことに、私はそのゲームの中の悪役令嬢として転生してしまったのだ。
悪役令嬢の私は、ラウタエベネと言う国の外れにある領地を治める侯爵家の生まれだった。母は公爵家の次女として生まれ、政治の駒として侯爵家の一人息子である父と政略結婚をさせられた。私を産んだ時の難産の影響で、母は私が一ヶ月になった頃に亡くなってしまった。母は私と同じ赤毛で、今は倉庫と化した部屋の一つに収納された肖像画を見ると、相当な美女だったようだ。
家の跡取りだった父は私の母が亡くなってすぐに再婚した。継母は伯爵家の長女で、母とは違う雰囲気の美女だった。そして私の一歳の誕生日の二ヶ月程前に異母妹が生まれた。
それが何を意味するのかは、前世の記憶が蘇った後で理解した。
私は母親ではなく、父親に似た。上手く言えば……凛々しい、野生的な顔立ちだ。率直に言うと……令嬢としては、残念極まりない。その上私は十二歳でもとても背が低く、要するに見栄えが悪い。一方、異母妹は華やかで可憐な顔立ちをしている。いずれにせよ、私は父親にも、継母にも可愛がられることはなかった。高級な贈り物は全て異母妹へ行き、私の部屋は質素な物ばかりになった。
母親の侍女だった女性はドロシーと言って、母と親しかった様だった。だが、私に物心が付く前にドロシーさんは解雇された。それでも、母の数少ない遺品の中から、今はルーイヒューゲルに住むその侍女から届いた手紙をまだ封を切られていない状態で見つけた。例の肖像画の隣に放置されていた箱の中で。
問題は、私が前世の記憶を取り戻した時に把握した。この世界で私は、お話の舞台である貴族学園で進められるヒロインの恋路を邪魔する悪役令嬢。醜くて、わがままで、嫉妬に狂う存在だ。そしてゲームのヒロインは私の異母妹で、彼女がどの攻略キャラを選んでも、悪役令嬢の私は何らかの形で断罪され、最終的には国から追放される。
だから、私は考えた――何をどうしたら、追放ルートから解放されるのか。
答えは、追放フラグが立つ前にそれをへし折ること。そしてそのフラグとは、幾つかあった。
一つ。異母妹と同じ貴族学園へ私も進学すること。
二つ。異母妹が狙う攻略キャラを私も好きだと思われること。
三つ。攻略キャラグループに私が目を付けられること。
だが、どの学園へ通うかは子供の分際で決められることではない。同時に、他の人が私について何を考えるか、そして私に目を付るかは、私がコントロールできることではない。
よって私は考えた。追放される未来を防ぐ為には、学園へ送られる前に家から逃げ出すことではないだろうか。むしろ、追放される前に国から出てしまえば、尚更良いのでは。
去年の秋に十二歳になった私と異母妹は、後二ヶ月程で学園へ通い始める。悪役令嬢としての追放ルートを回避するには、私はその前に他国へ
その為に、私は四年間準備して来た。私に対して愛情も何もない家族と屋敷や使用人達にも、もう未練は無かった。どうせ只の辺境地令嬢の一人なのだ。他人が気にかけることは無いだろうし、家族だって私を探す事すらしないだろう。
全てを思い返した私は泣かないと再決心して、鼻を啜った。
「ちと、お前さん」
手短に「ルーイヒューゲルへ人を探しに行くんです」と答えた私に、お爺さんはまた話しかけて来た。
「わしゃーこんな年でのう。耳が遠いんじゃ。前に来て、隣に座ってくれんかのう」
そう言われるとは思っていなかった私はゆっくりと立ち上がり、御者台の方へよじ登った。
「ほれ、座んなさい。あったかいお茶があるがのう……あ、いや、この時間に茶はだめか。お、コーヒー……はもっとダメじゃのう」
お爺さんはそう言いながら私に魔法瓶を渡してくれたので、私は中に入っていた紅茶を少し頂いた。それは生温くて、ほんの少し甘い味がした。