……何分が経過しただろう。ものの数分だったのかもしれないし、何時間か経過したのかもしれない。無言のまま腫瘍に向き合っていたクレマリーは器具を置き……両手で体内からクリスタルの結晶を持ち上げた。からんと器具が金属のトレーの上で跳ねて、そこでようやくルミエールは此処が現実なのだと思い出す。
彼女の
クレマリーは〝それ〟を一同に見せるとトレーの上に置き、ぼろぼろになった心膜を素早く縫合し──。
「……オペレーション、完了」
クレマリーが呟くのと同時に、黒い霧が雲散する。モニターのノイズが止まり、ドロシーの心拍数が安定し始めた。血圧は60まで回復し、警告音が鎮まる。手術室に、重い静寂が戻った。
ルミエールは息を吐き、へたり、とその場に座り込んだ。目の前のトレーには、紅い鉱石の腫瘍が置かれている。まるで死そのものを閉じ込めたような、不気味な死神の落とし子。クレマリーがそれをピンセットで摘まみ、密封容器に収める姿を眼前に捉える。
「……分かったな、ルミエール。これが、この国で起きている事の真相──そして同時に、私達が闘うべき〝理由〟。病魔〈スアサイダル〉……それを撲滅し、この死の国に夜明けをもたらす事。それが、お前に課された〝使命〟だ」
彼女は無表情のまま淡々とそう言い切って、ルミエールに視線を向ける。
「……いいか、ルミエール。闘いに身を投じるのに必要なのは技術でも能力でもない。それは、勇気だ。特に〈スアサイダル症候群〉という未知の病に立ち向かうには、自分が先陣を切って戦場へ降り立つという、勇気が必要だ」
「勇気……」
「今回は、稀に見るパンデミックだった。私が見た症例でも、今回のように呪詛を吐き、辺りに霧が満ちるような事例は一つも無かった。つまりお前は、最初の手術である程度の山場を経験できたという事だ」
「……。」
「今後、どうなるかなど誰も分からない。けれどお前には私が居る。私には、お前が居る。共に闘い、この死を呼ぶ病を撲滅する事──私がお前に頼みたいのは、ただそれだけだ」
ルミエールはクレマリーを見上げ、そして手術台の上に横たわる女性に目を遣った。彼女の瞳は閉じ、呼吸は穏やかだ。虚ろだった瞳は閉じられ、けれど見ている夢は、悪夢でない何かに変化していた。
モニターはノイズなど吐かない。無影灯は点滅などしない。平穏に戻った世界で、これから自分は、非日常へと飛び込むというのか?
先程何も出来ず、クレマリーが闘う背中を見ていただけの、どうしようもなく駄目な自分が。じわり、目頭に熱いものが込み上げてくるのを感じ、慟哭のままに息を吸った。
「……ッ。僕は、未熟者です。クレマリーさんのような腕もないし、頭もよくありません。どうして──どうしてそんな僕が、選ばれたんですか」
不安から、また泣き言が漏れる。けれどクレマリーはそれを咎めず、穏やかな口調で諭した。彼女の紅玉の瞳が無影灯を反射し、血のような色が此方を覗いている。薄手のガウンの下の赤いドレスが、手術室の無機質な白に彩りを与えている。
彼女はゆっくりと、言い聞かせるように唇を解く。
「お前だからだ。ルミエール・シュヴァリエ」
「理由に、なってません……」
「そうか? それ以外に理由などないのだがな」
その言葉はあまりに淡々としていて、冗談にすら聞こえなかった。だが、その声色には、確かな信頼と温度が宿っている。
「お前の心は、どんな絶望にも屈しない光を持っている。死にたくないと、死んでほしくないと、真っ直ぐに射抜く光を持っている。……〈スアサイダル症候群〉は心を喰らう呪いだ。病だ。だがお前は、患者を救いたいという純粋な意志で、それに立ち向かえる。私のメスだけでは足りない──私には、お前のような〝光〟が必要なんだ」
「光……僕が……?」
信じられない。
あれほどの才と技術を持った凄腕の医者が、こんな底辺の未熟者を〝光〟と言うなど。
けれどクレマリーは、「そうだ」とはっきり告げてから、もう一度名を呼んだ。「ルミエール」と己の名を、強く、強く、真っ直ぐに。
「死んだら全てが終わりだ。患者達を取り巻く状態が改善する未来は絶対に訪れない。だから私達は命を救って──それから人々が生きやすくなるよう最大限の手伝いをする。手術だけが医者の仕事じゃない……それが出来るのがお前だ。お前は光の名を冠した、救うための存在なんだ」
「!!」
「また誰かを頼るのか? 誰かがやってくれると甘えるのか? 違うだろう。お前は、それを望んではいない筈だ。救いたいんだろう。だから、此処に居るのだろう」
クレマリーの言葉が、ルミエールの心にじんわりと溶けてゆく。
それはまるで、暗雲を晴らし、陽光が翳った空から覗くように。氷が
自分が此処に居る理由。誰かを救いたいと願った、あの日の記憶。
自分がメスを握る理由。その資格を得るために奮闘した、あの日々の記憶。
それらがルミエールの心に炎を灯した。
ルミエールの想いに、確かに形を与えた。
あの時、確かに思った。
死んでほしくない、と。
誰かを救える存在になりたい、と。
目の前の命に、何かをしてやりたかったのだ──無力で何も出来ない自分は嫌だと、そう確かに誓ったのだ。
それが自分の胸に灯る光だというならば。
誰かを導ける、光であるならば。
それを信じて、進めばいい。
自分を信じて、進めばいい。
クレマリーの言葉が、そっと心の闇を照らしていた。
「彼女の心は傷ついている。腫瘍は取り除いたが、ここからが私達の聖戦の幕開けと言っても差し支えないだろう」
ルミエール。彼女はもう一度、名を呼んだ。
その言葉には、曇りも、不安も、何も無かった。
「私と一緒に──闘ってくれるか」
断る選択など、もう頭に無い。
ルミエールは彼女を見据えると、強く頷いた。
「……闘います。あなたと、一緒に」
こうして、ルミエールはクレマリーと共に、幻想の奇病──〈スアサイダル症候群〉と闘う覚悟を決めた。
まだ胸の内には不安がある。疑問がある。
けれど、今はもう、それを考えない。
これが自分に与えられた──自分にしか出来ない、唯一無二の