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Karte01/Chapter002-3:光あれ⑶

 ……何分が経過しただろう。ものの数分だったのかもしれないし、何時間か経過したのかもしれない。無言のまま腫瘍に向き合っていたクレマリーは器具を置き……両手で体内からクリスタルの結晶を持ち上げた。からんと器具が金属のトレーの上で跳ねて、そこでようやくルミエールは此処が現実なのだと思い出す。

 彼女のてのひらに収められた〝それ〟は拳大ほどの大きさで、しっかりと見るとやはり鉱山で採掘される鉱石のようにしか見えなかった。

 クレマリーは〝それ〟を一同に見せるとトレーの上に置き、ぼろぼろになった心膜を素早く縫合し──。


「……オペレーション、完了」


 クレマリーが呟くのと同時に、黒い霧が雲散する。モニターのノイズが止まり、ドロシーの心拍数が安定し始めた。血圧は60まで回復し、警告音が鎮まる。手術室に、重い静寂が戻った。


 ルミエールは息を吐き、へたり、とその場に座り込んだ。目の前のトレーには、紅い鉱石の腫瘍が置かれている。まるで死そのものを閉じ込めたような、不気味な死神の落とし子。クレマリーがそれをピンセットで摘まみ、密封容器に収める姿を眼前に捉える。


「……分かったな、ルミエール。これが、この国で起きている事の真相──そして同時に、私達が闘うべき〝理由〟。病魔〈スアサイダル〉……それを撲滅し、この死の国に夜明けをもたらす事。それが、お前に課された〝使命〟だ」


 彼女は無表情のまま淡々とそう言い切って、ルミエールに視線を向ける。


「……いいか、ルミエール。闘いに身を投じるのに必要なのは技術でも能力でもない。それは、勇気だ。特に〈スアサイダル症候群〉という未知の病に立ち向かうには、自分が先陣を切って戦場へ降り立つという、勇気が必要だ」

「勇気……」

「今回は、稀に見るパンデミックだった。私が見た症例でも、今回のように呪詛を吐き、辺りに霧が満ちるような事例は一つも無かった。つまりお前は、最初の手術である程度の山場を経験できたという事だ」

「……。」

「今後、どうなるかなど誰も分からない。けれどお前には私が居る。私には、お前が居る。共に闘い、この死を呼ぶ病を撲滅する事──私がお前に頼みたいのは、ただそれだけだ」


 ルミエールはクレマリーを見上げ、そして手術台の上に横たわる女性に目を遣った。彼女の瞳は閉じ、呼吸は穏やかだ。虚ろだった瞳は閉じられ、けれど見ている夢は、悪夢でない何かに変化していた。

 モニターはノイズなど吐かない。無影灯は点滅などしない。平穏に戻った世界で、これから自分は、非日常へと飛び込むというのか?

 先程何も出来ず、クレマリーが闘う背中を見ていただけの、どうしようもなく駄目な自分が。じわり、目頭に熱いものが込み上げてくるのを感じ、慟哭のままに息を吸った。


「……ッ。僕は、未熟者です。クレマリーさんのような腕もないし、頭もよくありません。どうして──どうしてそんな僕が、選ばれたんですか」


 不安から、また泣き言が漏れる。けれどクレマリーはそれを咎めず、穏やかな口調で諭した。彼女の紅玉の瞳が無影灯を反射し、血のような色が此方を覗いている。薄手のガウンの下の赤いドレスが、手術室の無機質な白に彩りを与えている。

 彼女はゆっくりと、言い聞かせるように唇を解く。


「お前だからだ。ルミエール・シュヴァリエ」

「理由に、なってません……」

「そうか? それ以外に理由などないのだがな」


 その言葉はあまりに淡々としていて、冗談にすら聞こえなかった。だが、その声色には、確かな信頼と温度が宿っている。


「お前の心は、どんな絶望にも屈しない光を持っている。死にたくないと、死んでほしくないと、真っ直ぐに射抜く光を持っている。……〈スアサイダル症候群〉は心を喰らう呪いだ。病だ。だがお前は、患者を救いたいという純粋な意志で、それに立ち向かえる。私のメスだけでは足りない──私には、お前のような〝光〟が必要なんだ」

「光……僕が……?」


 信じられない。

 あれほどの才と技術を持った凄腕の医者が、こんな底辺の未熟者を〝光〟と言うなど。

 けれどクレマリーは、「そうだ」とはっきり告げてから、もう一度名を呼んだ。「ルミエール」と己の名を、強く、強く、真っ直ぐに。


「死んだら全てが終わりだ。患者達を取り巻く状態が改善する未来は絶対に訪れない。だから私達は命を救って──それから人々が生きやすくなるよう最大限の手伝いをする。手術だけが医者の仕事じゃない……それが出来るのがお前だ。お前は光の名を冠した、救うための存在なんだ」

「!!」

「また誰かを頼るのか? 誰かがやってくれると甘えるのか? 違うだろう。お前は、それを望んではいない筈だ。救いたいんだろう。だから、此処に居るのだろう」


 クレマリーの言葉が、ルミエールの心にじんわりと溶けてゆく。

 それはまるで、暗雲を晴らし、陽光が翳った空から覗くように。氷がけて、緩やかに水位を上昇させるように。


 自分が此処に居る理由。誰かを救いたいと願った、あの日の記憶。

 自分がメスを握る理由。その資格を得るために奮闘した、あの日々の記憶。

 それらがルミエールの心に炎を灯した。

 ルミエールの想いに、確かに形を与えた。


 あの時、確かに思った。

 死んでほしくない、と。

 誰かを救える存在になりたい、と。

 目の前の命に、何かをしてやりたかったのだ──無力で何も出来ない自分は嫌だと、そう確かに誓ったのだ。


 それが自分の胸に灯る光だというならば。

 誰かを導ける、光であるならば。

 それを信じて、進めばいい。

 自分を信じて、進めばいい。


 クレマリーの言葉が、そっと心の闇を照らしていた。


「彼女の心は傷ついている。腫瘍は取り除いたが、ここからが私達の聖戦の幕開けと言っても差し支えないだろう」


 ルミエール。彼女はもう一度、名を呼んだ。

 その言葉には、曇りも、不安も、何も無かった。


「私と一緒に──闘ってくれるか」


 断る選択など、もう頭に無い。

 ルミエールは彼女を見据えると、強く頷いた。


「……闘います。あなたと、一緒に」


 こうして、ルミエールはクレマリーと共に、幻想の奇病──〈スアサイダル症候群〉と闘う覚悟を決めた。

 まだ胸の内には不安がある。疑問がある。

 けれど、今はもう、それを考えない。

 これが自分に与えられた──自分にしか出来ない、唯一無二の救済劇サルヴェイションなのだろうから。



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