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Karte01/Chapter002-2:光あれ⑵

「………え?」


 ぼこり、と胸骨の中央の皮膚が不自然に腫れ上がっていた。違う、「腫れ上がる」という表現は正しくない。皮膚自体は腫れてなどいない……正確には、皮膚の下にある〝何か〟によって、胸部の皮膚が強く持ち上げられていたのだ。これは、一体──?


〝それ〟を確認したのと同時に、再び異変が室内を包む。

 心臓部に、黒い霧がかかっている。モニターの画面が一度途切れ、無影灯が僅かに点滅して。


 混乱しながらクレマリーに視線を投げかける。口から漏れる困惑は僅かに震えていて、上ずったメゾソプラノだった。


「な……なんですか、これ……ッ、何なんですか、この現象……ッ!! 魔術か何かですか、それとも何らかの感染症ですか……!?」

「魔術ではない。お前が見ているこれは、集団幻覚でも何でもない。だが、〝科学で説明しきれない〟異常である事は確かだ。……ルミエール、ヴェルティで年々自殺者が増えているのは知っているな?」

「知って、ますけど……それがこの患者と何の関係が、」

「最後まで聞け」


 クレマリーはそう彼を咎めると、一度瞼の下に瞳を隠す。次にそれを開いた時、彼女の白い睫毛まつげの下で揺れる双眸そうぼうは、忌まわしき記憶と後悔と、憎悪の色を強く孕んでいた。


 厳かに、彼女は告げる。

 死神の存在を、ルミエールの本当の〝使命〟を──彼女は告げる。


「……この国には〈病魔びょうま〉が蔓延はびこっている。病魔とは人に取り憑くようにして……或いは囁きかけるようにして感染し、精神を蝕む新型の病の事だ」

「病魔……」

「そして──この国ヴェルティで流行している病魔こそが、人に希死念慮を抱かせ、思考能力を奪って自殺へ導く死神。その名を……〈スアサイダル〉。……この患者もそれに感染していたという事だ。〈スアサイダル症候群〉に感染した患者は体の何処かに宝石のような腫瘍が形成される……この胸部の違和感こそがその証拠だ」

「うそ、でしょう……」


 初めて聞く病気だった。

 まさか、この国ヴェルティを衰退させていたのが、先程から続く異常を起こしていたものが、新型の病だったなんて──!


「そんな病が、本当に、」

「実際に今までで数例以上、自殺者の体内から鉱石の腫瘍が出てきている。……この病は間違いなく存在する」

「そんな──」


 ……医学書に載っている病気なら、研修医時代に調べた。有名な病気なら、手術を執刀できる自信はなくとも治療法を頭に入れてある。

 けれど……知らない病に侵された患者を眼前にして、それなのに自分は病の事を何も知らなくて──。


 感染者を、自殺に導く病? そんなものが、そんな邪悪が、存在していていいのか。そんな脅威が、この国に蔓延まんえんしているというのか。


 日々増え続ける自殺者。国を染める緋色。そしてそれは、死神が下した審判で。


 病魔〈スアサイダル〉。自殺の名を冠した、死そのもの。

 人智を超えた、幻想の病。


 ……怖い。どうしよう。何だその病気。治療法はあるのか──?

 真っ白になった頭で救いを求めるようにクレマリーを見上げる。それに対し彼女は「安心しろ」と力強い声で告げた。思わず喉が、ごくりと鳴った。


「治療法ならある。〈スアサイダル症候群〉の治療は外科手術による腫瘍の切除だ。腫瘍がある限り、患者は抱く必要のない希死念慮に苛まれる──が、腫瘍を切除してしまえば正常な思考が出来るようになる。〈スアサイダル〉は人の心の弱い部分に付け込んで感染する病魔と院長から聞いている……ゆえにオペが終わっても心理治療をしなくてはならないがな」

「腫瘍の切除……そ、それで、患者は助かるんですか……ッ!?」

「あぁ……助かる可能性はぐんと上がるだろうな。この患者の場合は、心臓に腫瘍が形成されているのだろう。自殺行為を決行したくらいだ……腫瘍はかなり成長している。だがこれを取り除けば、オーバードーズを行った頃よりは気持ちが楽になるだろう」

「心臓……」


 ──心臓手術は、高い技術力が求められる。

 心臓は生命維持に必要不可欠な臓器だ。その手術の失敗……それは即ち死を意味する。……今の自分には、一人で出来そうもない。

 この場に居るのは、僕と彼女だけだというのに……!


 だが、どうやらそう不安に駆られているのはルミエールだけのようだった。クレマリーは「麻酔を入れるぞ」と看護師に指示を出して麻酔を注入すると、直ぐに顔を上げた。

 人形のような無機質な顔立ちに、救済への希望が宿っている。


「只今より、〈スアサイダル症候群〉の腫瘍切除術を行う──メス。」

「はい」看護師の一人が、彼女の右手に白銀の剣を握らせる。


「く、クレマリーさんッ、僕達二人では、無理ですッ……! ベテランの先生を呼びましょう……!」

「無理じゃない、出来る……私を誰だと思っている? リューデン医学界──そして精神医学界の第一人者、Dr.リズベルトの一番弟子だぞ。大丈夫だ……私が、必ず助ける。」

「Dr.リズベルト……?」


 聞いた事があった。いや、聞いた事があるなどというものではない。

 ルミエールは、彼を知っている。


 リズベルト・ゴッドフレイ。

 隣国リューデンが医学の中心地と呼ばれるようになるまで医学に従事した名医。

 かの国が進む未来を照らした道標みちしるべ

 そのオペレーションは最早芸術。至高の領域まで磨き上げられた技術に、医師や医学生達の多くが憧れを寄せている。勿論ルミエールも、一人の外科医として医学生時代から彼に憧れていた。

 そのリズベルト先生の一番弟子が、まさか目の前に居る彼女だなんて……ッ!


 クレマリーは看護師からメスを受け取ると、流れるような動作で開胸を行った。

 胸骨きょうこつ上部から真っ直ぐにメスを入れ、皮膚を切開する。途端に深紅しんくが線を染めて、彼女のメスを迎え入れた。深く侵入した細い指に握られた正義が中央にある胸骨を縦に二分する。湿った音と共に開かれた胸部、そこに開胸器を当てて胸骨を左右に広げ、術野を作り──。

 ……熟練の心臓外科医に並ぶほどの腕だった。

 その速さと正確さに唖然としていたルミエールを、クレマリーがそこで呼び止める。


「……ルミエール、見ろ──これが腫瘍だ」

「え──あッ!」


 心臓部を覗き込むと、そこには心膜に張り付くようにして形成された鉱石のような異物が、水晶のようにキラキラと無影灯むえいとうの光を反射して生えていた。

 おおよそ人体に形成されるとは信じ難い腫瘍に、ルミエールは思わず息を呑む。光を散乱させるクリスタルは体内に虹色をばら撒いて、ひたすらに自身の存在感を押し付けていた。


「…これ、が……〈スアサイダル症候群〉の腫瘍……」


 モニターが再び、ノイズを吐き出す。数字が文字化けし始め、心臓から生えたクリスタルの腫瘍から、黒いもやが溢れ出した。それは女性の胸腔内に満ち、地面に漏れ出ながら、足元で意志を持つ生命体のようにとぐろを巻いた。


「……ね……死ね……」

「ッ!!」


 女性の口から、呪詛が零れ始める。それは脳をぐらぐらと揺らし、心に不安と焦燥感を芽生えさせる。ルミエールの手から、器械が滑り落ちた。それを嘲笑うように、こえは徐々に声量を増す。

 ──有り得ない。全身麻酔が投与され、胸部を開かれているというのに。一体彼女に、何が起こっているというのだ……!?


「狼狽えるな」


 クレマリーの凛とした声にはっとする。短く息を吸えば、今自分が此処に立っている〝理由〟が鮮明に脳内に回帰する。クレマリーは一度視野を持ち上げてルミエールを映すと、無感情に、けれど激励を込めて言葉を綴った。


「集中しろ、ルミエール。私達は彼女を救うために此処に居る。死神の声に惑わされるな──しっかりと見ろ。これが、彼女を蝕む悪の根源だ」


 もう一度、術野に目を戻す。心臓──心膜、左心室上の表面に、赤い鉱石のような塊が脈打っている。まるで生き物のように蠢き、表面は不気味な光沢を放つ。その周囲には救命センターで見た黒い霧が薄く漂い、彼女の精神状態に異常を生じさせているのがこの異物である事を明確に告げていた。


「心膜もぼろぼろだ……心臓に刺さっていないのと、胸骨にヒビが入っていない事だけが救いだな」

「……ッ、これ……切除出来るんですか……!?」

「当たり前だ。オンビートで行う」


 彼女はそう言うと視線を術野に戻し、ハサミやセッシを持ち替えながら腫瘍を臓器から剥がしていく。


 腫瘍を削り、持ち上げ、電気メスで組織から剥離はくりして。じゅう、と煙がひとつ棚引くたびに腫瘍の欠片が持ち上げられる。その速さと正確さは、まるでドラマのワンシーンを見ているようで──。

「速すぎる……」と隣でバイタルチェックをしていた看護師がそう漏らす。一定を保つバイタルの音が1を数える間に、クレマリーの腕は緋色のドレスを纏ってワルツを踊る。


 黒い靄がうねる。渦を巻き、手術室の中に立つ命を彼岸に誘おうと手招きしている。その霧が足元に触れるたび、そして肌を撫でるたびにルミエールの心に恐怖が芽生えた。煩く吼え続ける心臓。乾ききった喉と、肺に空気が取り入れられないような苦しみ。それと同時にバイタルモニターは異音を立てながら画面を白黒させ、患者の唇は呪いを吐き出し──。

 けれど、クレマリーはそれに動じる事なく手を動かし続ける。

 それはまるで、暗雲を切り裂くように。夜の帳が降りた世界に、陽光が差し込むように。鮮やかな手技が術野を舞い、強まる呪いも異常事態も、彼女に対し、「やめろ」「やめてくれ」と懇願しているように見えた。


 手術室の空間が、彼女に支配されていた。



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