手術室の自動扉が重く閉まる。無影灯の青白い光がルミエールの汗ばんだ額を照らし、全ての影を取り払っていく。
目の前の担架には、黒髪の若い女性が横たわっている。相変わらずリストカットの傷が左腕を肘から手首にかけての広範囲を紅く染め、口元にはオーバードーズの吐瀉物の痕跡が残っている。彼女の呼吸はやはり浅く、モニターの心拍数は、先程と同様に180前後を行ったり来たりしていた。看護師が慌ただしく手術室の準備を整えているが、その切羽詰まった雰囲気と裏腹に、患者は深い沈黙を落としていた。
「ルミエール、胃洗浄はどこまで進んだ?」
クレマリーの声が即座に割り込む。その声音は氷のように冷たく、だが同時に熱を帯びて鼓膜に響く。それに対し、ルミエールは必死に言葉を振り絞った。喉がひりひりと痛み、音は震えを抱いている。
「ッ、え、っと、五回──五回の陰圧吸引と洗浄を行いました」
「五回か。……折り返し地点、というところだな。今から続けろ。私は止血を行う」
「……わかり、ました」
ルミエールは暴れる心臓と震える腕をいなしながら、手に持った胃管を握り締め、患者の唇に触れた。
少し痛いですよ、頑張ってください──そう呟きながら胃へとチューブを導き、手元のシリンジをゆっくりと押し込む。管の中に人肌と同じ温度の生理食塩水が流れ込み、それは目の前の彼女の胃を優しく洗い流して。
……オーバードーズを行った患者にすべき処置は、「体に成分が吸収される前に取り除く」事だ。輸液で体内を洗い流して、薬剤で排出を促して、そして胃の内容物を取り除く。
まだ助かる。まだ助けられる。まだ──。
それはルミエールのエゴなのかもしれない。だが彼は芽生える不安をぐっと飲み込んで目の前の命に対峙する。助ける為に。彼女に救済をもたらす為に。それは「死による仮初の救済」ではなく、真の意味での救済だ。
注いで、出して。注いで、出して。注いで……。
200から300ミリリットルの注入・排液をおよそ──追加で五回。
注入を繰り返すたびに血圧が微弱に上昇する。そして同時に、管の奥底から声を発そうとするような動きが見られる。けれどルミエールはそれに臆さず、〝光〟を信じて対峙した。彼女が吐こうとする呪詛が、決して彼女の本心によるものだとは思わない。これがきっと、信じるという事なのだ。自分は信じている。目の前の彼女が、こんな呪いを吐き出したい訳ではないという事を。
注入する生理食塩水の量が合計で2リットルに達する頃には、排液は澄んだ自分自身の色を思い出していた。ルミエールは小さく「よし」と呟いて──。その額に、汗がじわりと滲む。
管を抜いた彼女の体内に、今度は活性炭と
──これで、少し持ち直してくれたらいいのだけれど。
頭の中で処置の流れを思い返して、何も忘れていない事、やり残していない事を確認する。大丈夫。きっと大丈夫。まだ
「──血圧上73、下41……少しずつ回復しています!」
看護師の一人が、モニターを見上げてそう告げる。ルミエールはそれを聞いて、ほっと胸を撫で下ろした。
「よ、かったぁ……」
どうやら処置は正しく機能して、体内を蝕む異物から彼女の命を守る事が出来たらしい。浅かった心拍も、血圧も──緩やかに回復の
先程救命センターで見た恐ろしい地獄が脳を掠める。まるでホラー映画のワンシーンのような、現実離れした光景。それが今、この手術室という聖域で起こっていない事を確認し、無意識に全身の力を解いた。
途端に足から力が抜けて、がくんと膝が
クレマリーは、止血バンドで抑えきれないほど深い傷の
その手腕に、思わず息を呑む。
──速い。それに、物凄く正確だ……!
縫合は手術の基本だ。ルミエールも何度も練習を繰り返しているが、丁寧さを意識すると遅くなり、スピードを意識すると雑になる。しかし、それをクレマリーは──まるで「手元を見なくとも出来る」と言わんばかりのスピードで、それでいてミシンを用いたように綺麗に縫い合わせている。
まるで、神業だ。時の流れも忘れて、ルミエールはそれに魅入った。
……不意に、縫合中のクレマリーと目が合った。彼女は一瞬手を止めると、再び視線を落としてハサミで糸を切る。そしてもう一度ルミエールの方を見ると、表情を変えずに淡々と告げた。
「……ルミエール、安心するのはまだ早い。手術は終わってないんだからな」
「え……? だ、だって胃洗浄も傷口の止血も終わったんですよね……? 他に何が、」
「だから、〝心臓だ〟と言っているだろう。むしろここからが本番だ。これを見てみろ」
そう言いながら彼女は患者の女性のシャツに手を伸ばすと、するりとそれを脱がせてしまう。な、何をやってるんですか──! そう言いながら裸体を見まいと両手で顔を覆う。心臓に何か原因がある、と聞いているというのに、身体は素直だ。仮にも女性の裸体を、男である自分が何の理由もなく見るなど!
──何の理由も?
彼女は言った。心臓に、死を呼ぶ病魔の呪いが埋め込まれているのだと。
死を呼ぶ病魔とは。心臓に、一体何が?
何かとてつもなくよからぬ事が起こる気がして、けれど僅かに芽生えた好奇心と、小さな医師としての使命感に背を押され、顔から手を数センチだけ離した。
微妙に白く、けれど薄暗がりが包む視界の中、クレマリーの声が飛んできた。
「ルミエール、ここだ……心臓部を見てみろ」
「ですが──」
「いいから早く」
嫌な予感と、救いを望む声が聞こえた感覚に襲われ、彼女の言葉通り患者の胸部を視界に映す。漆黒から白銀に移り変わる世界。白い陶器のような肌。そして、そこにある異物を──ルミエールは、見てしまう。
「………え?」