目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

Karte01/Chapter001-1:死の夜明け⑵

 ──〝死の国〟

 この国……国家ヴェルティがそう呼ばれるようになったのは、ここ最近の事だ。

 本国における死者は年間二百万人に達し──そのうち自殺者が、ついに五万人を超えた。住まう者が次々に彼岸にいざなわれる、文字通りの死の国。

 経済は大打撃を食らい、人口は急速に減少し……ヴェルティは今、衰退の一途を辿って破滅の危機に瀕している。


 何故急に死者、それも自殺者が増えているのか。

 国民の精神力が急激に低下したとでもいうのだろうか。

 社会的な問題が急増した訳でも、貧困に悩まされている訳でも無く、では一体、どうして?


 ルミエールは精神医学には明るくない。けれど、この現状はどう考えても異常だ。人々が次々に自殺行動を起こし、理由もなく死んでいくなど!

 何か、何か原因がある筈なのだ。この国を覆う大きな陰謀と、迫りくる魔の手が──何か、きっと。


「──ルミエール先生、こちらを頼みます!」


 その声にはっとして、意識を呼び戻す。

 看護師の一人、若い女性が慌てた様子でルミエールを急かし、担架の傍に引き寄せた。

 そこに横たわるのは、黒い髪をウルフカットにした若い女性だった。彼女の左腕はリストカットの傷で真っ赤に染まり、血が白いシーツに染み込んでいく。口元には吐瀉物がこびりつき、彼女がオーバードーズを図った事を明示している。

 呼吸は浅く、時折途切れそうになる。ルミエールがモニターを確認すると、血圧は既に50を切っており、心拍数は180を超えていた。異常に速く、不規則な波が画面を埋め尽くす。


「ショック症状……!」


 これは、他の誰かがどうにかしてくれるのを待つなどと悠長な事を言ってはいられない。ルミエールは声を震わせながらも、反射的に止血バンドを手に巻き付け、輸液ラインを確保した。


「──心タンポナーデ! 心臓外科の先生いらっしゃいませんかッ!」

「心臓外科です。……心筋裂傷、心膜損傷、大動脈破裂の疑いがあります。今から緊急手術をしますので、この患者、運びます」


 隣で、自分の先輩達が次々と〝自分達にしか出来ない治療〟を施していく。それを視界の端に捉えながら、ルミエールは一人、唇を噛んだ。心臓外科医のひよっこである自分に、心臓を一人で受け持つ資格も技量もない。初期研修が終わったばかりの未熟者が、こんな場面で患者を救える筈がないのだ──そう思いながら、与えられた仕事をこなそうと手を動かし続ける。

 気道を確保しながら胃管を挿入。薬剤を吸引し、温めた生理食塩水で洗い流す。二回。三回。四回──。単調なその処置を繰り返しながら、患者の女性の蒼白となった顔を見つめ、小さく、小さく呟いた。


「……お願いです、生きて、ください……ッ」


 目の前の彼女の瞳は半開きのまま、何処か彼方を映しているように見える。

 見てなど、くれないのだ。認めてなど、くれないのだ。虚空を映す真っ黒な瞳に背筋を冷やす思いを抱きながらも、ルミエールはただひたすら、彼女の身体に向き合った。命を救おうと、奮起した。


 けれどそんな闘いはむなしく、状況は悪化する一方だった。


 救命センターに運び込まれる患者は増えるばかりで、看護師が「また一人!」と叫ぶたびに新たな担架が現れる。

 ──間に合わない。人手が足りない、器材も、病床も、何もかもが足りない!

 泣き叫ぶアラームが、遠くに聞こえる錯覚を覚えた。誰かを殺してしまうのでは、という不安が、雷雲のように重く室内に垂れ込める。絶望が、枷となって一同の首に巻き付く。そしてその不穏な空気を、確実なものとして定義するように──。


「……ッ!?」


 ふと気付く、小さな異変。

 吐き気を催すような邪気を孕んだ空気に、喉がひりつく。

 その気持ち悪さから顔を上げれば、部屋の隅に、薄暗い黒い霧が漂い始めていた。


 最初は幻覚に思えた。そうでなければ、誰かの電気メスが立ち昇らせる煙に見えた。けれど〝それ〟は徐々に形を成し、まるで生き物のように蠢いて……!


「何、あれ……」


 誰かが漏らす困惑が、合図となった。

 霧は広がりを見せ、それに呼応するようにモニターが不規則なノイズを立て始める。目の前に横たわる女性から思わず胃管を抜去すれば、その薄い唇が小さく震える。ルミエールはそちらに視線を遣った。意識が覚醒したのかと思うのも束の間、ノイズを吐き出すバイタルモニターは、文字化けし出したゴシック体の数字を無情に示す。それは、意識が戻るというには有り得ない数値を示していて……!


「死ね…………」


 彼女が、小さく呟いた。その声は、彼女自身のものとは思えないほど冷たく、胸の内を抉る何かしらの呪いを孕んでいた。ルミエールの背筋に悪寒が走る。彼女の唇が微かに動くたび、黒い霧が彼女の周囲に集まり、まるで何かに引き寄せられるように渦を巻く。


「ルミエール先生、モニターが狂ってますッ!」


 看護師の一人がそう叫びながら装置を叩く。それで改善するならどれほどよい事か。

 患者の女性の心拍数はさらに急上昇し、血圧が40を切る。黒い霧は救命センター全体に広がり、場を包む温度が3℃ほど下がった感覚さえ覚える。その霧がひとつ渦を巻くたびに、患者の一人が呪詛を口にする。


「死ね……死ね……」

「死ね………」


 まるで合唱のように、部屋がその声で満たされていく。ルミエールは一歩後退り、シャツの内側を舐める汗の玉を感じていた。


「何ですか……この声……ッ」


 死ね、死ね、シネ──。

 その呪歌は静謐を帯びながらも激烈に鼓膜に突き刺さり、救命センターの室内に重い狂気を持ち込んだ。


「……治さなきゃ。私が、私が救わなきゃ、救わな、きゃ」


 そう誰かが呟く声が、眼前に聞こえた。

 彼女はメスを手に取り、それを震える指で握り締める。


「救わないと、俺が、」


 もう一人が剪刃を握り、患者の創部を開こうと力を込める。


 何が起きているのか、分からない。

 ただひとつ、分かってしまうのは──。


 このままだと、自分達は──取り返しのつかない事をしてしまう。

 救わないと。助けないと、守らないと……! ルミエールは右手にぎゅうと力を込める。


「ぁ、あ………」


 震える手で、胃管を握り締める。それを目の前で呪詛を繰り返す女性の口を塞ぐように、一息に──。




「──やめておけ」




 その手を、誰かの白い指先が咎めた。

 振り返った瞬間、ルミエールの言葉は喉に詰まった。そこに立っていたのは、天使と呼ぶにふさわしい白き白衣の使徒。白髪を長く流し、ルビーのような紅い瞳を持つ、凛とした出で立ちの女性。

 彼女は無言で手袋を装着し、救命センターの喧騒の中を悠々と歩み出る。

 赤いドレスのような衣服に黒いスキニーパンツ。紅玉の瞳が無影灯の光を反射して鋭く輝くが、その表情には無だけが宿っており、けれどその顔立ちは人形のように美しく──。


「高所からの飛び降りが三名。首吊りが二名。練炭使用が一名。刺傷が五名。道路への身投げが十名。オーバードーズが十六名。リストカットが六名──複合的な要因の患者も居るが、合計で三十九名が搬送」


 形のよい唇から流れるアルトの声は、不思議と場の困惑を鎮めるような落ち着きがあった。ルミエールは呆然と彼女を見上げた。白き戦士の存在感は異質で、まるでこの混乱を一瞥する王者のようだ。


「そこ、メスを下ろせ。その手技は処置じゃない、衝動だ。誰の命も救えない」


 そう横目で女医の一人を映せば、彼女は大人しくメスを下ろし、小さく息を呑む。


「そこは気道確保を優先しろ。気管チューブが遅い。そこは血圧が落ちているだけだ。ノルアドレナリン2mg、急げ──そこ! 心マ止めるな! アドレナリン1mg、静注!」


 白き彼女の声は低く、けれど確信に満ちており、看護師達──そして医師達もその指示に従って動き始めた。隣で矢継ぎ早に指示を飛ばす見知らぬ白衣の戦士を見つめ、信じられないと小さく零す。


 ──あれだけの混乱を、混沌を、鎮めた。

 たった一人で。五分にも満たない時間で。


 そこでルミエールは知った。

 自分達には、〝光〟が必要なのだと。

 暗闇の中を、死と生の狭間を歩む自分達には、照らす太陽が必要なのだと。


 そして、確信した。

 この女性は──間違いなく、自分達の〝光〟なのだと。


 彼女は一通り指示を飛ばし終えると、くるりと振り返ってルミエールに向かい合う。そしてその姿を頭から爪先まで眺めると、最後に彼が担当する患者の女性へ目を向けた。つかつかと歩み寄ると無表情で患者の胸に手を当て、暫くその拍動を確かめるように瞳を閉じる。何処までも真っ直ぐな彼女の佇まいを、ルミエールは傍で見ていた。


「……心臓か」


 その声は低く、まるで墓地から響くような重みを従えている。


「へ、っ?」


 思わずそう、裏返った声が喉から漏れた。

 ……心臓? 心臓が、どうしたって? リストカットともオーバードーズとも結びつかないそれの訳が分からなくて、けれど何か〝理由〟がある事を本能で悟って、彼女を見上げる。


「心臓、って……どういう事ですか」

「だから、心臓だ。そこに、死を呼ぶ病魔の呪いが埋め込まれている」

「死を呼ぶ……呪い?」


 声が上ずり、混乱が頭を支配する。その考えを咎めるように黒い霧がさらに濃くなり、患者達の呟きが一層大きく、一層強く繰り返される。


「死ね……死ね……!」


 その瞳が一瞬だけ焦点を結び、ルミエールをじっと見つめたように見えた。向けられた視線に、息を呑む。身体が自然と跳ねる。まるで死そのものが語りかけてきているような気持ちの悪いそれが、あまりに不気味で。


「何……なんですか……!? 何が、起こっているんですか……ッ!?」


 彼女に問いかけてもどうにもならない事を半ば分かっていながら、それでもルミエールはあまりの恐怖と不安に、そう問うしかなかった。女性は「そうだな」と抑揚のない一定のトーンで呟いた後、ルミエールの方を向く。


「……お前、ルミエール・シュヴァリエか?」

「へ……っ? そう、ですけど、今はそれどころじゃ──」

「いや、ちょうどよかった。……とりあえず名乗っておこう。私はクレマリー。クレマリー・ルーヴィル。出身はリューデン。専門は精神科と総合外科。院長の命令で、今日からお前は私の上司だ。そんな訳でこれから──」

「ちょ……ッ、ちょ、ちょっと待ってください!!」


 先程自分が「今はそれどころではない」と言ったというのに、あまりの急展開に彼女──クレマリーの言葉を遮る。クレマリーは「何だ」と少し不貞腐れたような顔をしながら、それでも此方が何かを言うのを待っていた。


「クレマリーさん……でしたっけ、あの、僕が上司ってどういう……! だ、だって僕、この前研修が終わったばかりなんですよ……!?」

「それがどうした? 言っておくが、私は今日来たばかりだぞ。私よりはお前の方が先輩だろう」

「そ……それは、そうかも、しれませんけど……」

「大丈夫だ、手術の事や病気の事は一通り頭に入れてある……手は焼かないだろう。お前はただ、私と一緒に〝使命〟を果たしてくれたらいい」

「〝使命〟……?」

「嗚呼……〝使命〟というのは──」


 クレマリーはそうまで言うと、喧々たる救命センターを横目に映した。鳴りやまない危険域のバイタルアラーム、輸血の追加を叫ぶ声と喉の奥まで纏わりつく鉄錆の匂い。ルミエールも、此処でうだうだと会話をしている余裕が無い事を悟りながら、けれど話に頭が追い付かなくて、彼女を見遣る。

 クレマリーは無表情のまま、ルビーの瞳で此方を一瞥した。その視線は鋭く、まるで心の奥底まで見透かしているようで。


「驚くのも分かる。混乱するのもな。だが、今は患者を救うのが先決だ。動かなければ彼等は死ぬ──そして、そんな彼等を救う事、それがお前に課せられた〝使命〟だ」

「でも……ッ、ぼ、僕は……ッ」


 あまりにも真っ直ぐ此方を射抜く声への反論は、自分でも、泣き言だと思った。

 自分は医師のひよっこだから、一人では立てないのだと。闘えないのだと。そんなもの、この修羅場ではただの泣き言だ。世迷言だ。自分は確かに、患者からすれば医師なのだ。それなのに──。

 そんなルミエールに言い聞かせるように、クレマリーは唇を開いた。


「ルミエール、患者を救う気はあるか?」

「え……?」

「苦しんでいる患者を、救う気はあるか?」


 彼女はそう、冷静なトーンで問う。その言葉にはやはり抑揚が無かったが、確かな優しさが感じられた。

「救う気はあるか」──その質問に対し、僅かな休符の末に唾を飲み込んで口を開く。


「……勿論です。僕はそのために、医者になったんですから……」

「なら大丈夫だ。絶対に救うという強い意志があれば、お前は闘える。そして、お前は独りで闘う訳ではない──私が居る」

「!」

「不安だからと誰かに頼ってばかりでは、一生上手くならないぞルミエール。お前と私でやるしかないんだ。患者は、私達に救われるのを待っている。さぁ、どうする? やるか? やらないか?」

「……ッ」


 紅玉の瞳が、ルミエールの姿を映し出している。宝石をそのまま埋め込んだような真紅の両眼には、一点のかげりも曇りも存在しない。そこにはただ、最善の未来へ向かうための光があった。叡智があった。その強い眼光に気圧けおされて、ひゅ、と喉が小さく鳴る。

 ルミエールは彼女の瞳を見つめたまま、贈られた言葉を反芻した。


 ──苦しんでいる患者を救う気はあるか?

 患者は、私達に救われるのを待っている──


 不安がないかと言えば、嘘になる。

 何度も見てきた。成功した手術と、そして失敗した手術を。力強く笑いながら手術室へ向かい、項垂れて帰ってきた先輩を、辞めていった先輩を、幾度も見てきた。

 もし万が一失敗して、命を救えなかったら……そう思うと、手が震える。足がすくむ。喉がからからに渇いて動悸がする。だけど………。

 だけど、救えるのは自分達しか居ないのだ。自分達が動かなければ患者は助からない。


 自分達が動かなければ、最善の未来は訪れない。

 何度だって繰り返そう。救えるのは、自分達しか、居ないのだ。

 怖いなどと言っている場合ではない。

 何のために僕は学を積んできた?

 何のために此処に勤めている?

 そして、何のために医師になった?

 決まっている──患者を、救うためだ。


 今そこに、救いを願う患者が居るのだろう。苦しんでいる人が、居るのだろう。

 だから──。


 声を発するより、肺から息を吐き出すより、体が動く方が先だった。そんなベストタイミングで、看護師が「先生、直ぐ手術室へ!」と叫び、担架が動き出す。彼等を導くように、ルミエールは一歩を踏み出した。


「……やります、僕が……僕達でやりましょう」

「いい返事だ。やはりお前を上司に選んで正解だったな」


 くすり、クレマリーは息を漏らして口角を持ち上げる。


 そこで初めて、ルミエールは彼女が無感情なのではなく、ただ、感情を表に出す事が苦手なだけなのだとった。

 二人は患者の担架に手を添え、緩やかに押し出して白色の床を踏みしめる。


 背後で救命センターのモニターが一斉にノイズを吐き出し、赤い光が闇へと呑み込まれていく。遠くで、誰かの唸り声が途切れ、黒い霧が新たな犠牲者を求めて広がっていく。

 けれどそこにはもう、絶望は無かった。恐怖は無かった。

 彼等は皆、光を信じて患者に寄り添っていた。命を救おうと、戦場に立っていた。


 ルミエールは、隣を進む白き医師──クレマリーが零した呟きを聞いていた。


 曰く──「さぁ、オペレーションの時間だ」と。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?