王都の中央に建つレグニッツ公爵家の邸宅は、静謐そのものだった。
外に聞こえるのは風にそよぐ木々の音、そして控えのメイドたちの軽やかな足音。
その一室、窓辺に佇む令嬢の姿があった。
アリステリア・ディ・レグニッツ――この国で最も格式ある名門の娘にして、王太子レオナードの婚約者。
銀糸のような髪を整えながら、彼女は無言のまま紅茶を口にした。
一見すると、ただの優雅な令嬢の午後のひととき。
だが、部屋の空気はどこか張り詰めていた。そう――まるで、静かすぎる湖の底に潜む巨大な何かを感じるような、異質な緊張感がある。
彼女自身にその自覚はない。
だが、その冷静すぎる目、感情をまったく動かさない声色、そして完璧な所作の一つひとつが、周囲の人間に“何か狂っているのではないか”という誤解を抱かせるに十分だった。
(今日もまた、くだらない対面があるのね……)
アリステリアは、飽きたようにため息をつく。
そのときだった。
「おい、アリステリア」
ノックもなく扉が開かれ、乱暴に声が飛び込んできた。
「ご機嫌麗しゅうございます、殿下。……せめて三回、ノックしていただければ完璧でしたのに」
「貴様に礼儀を尽くす価値などない」
そう言い放ったのは、王太子レオナード・フリードリヒ・ヴァルトハイム。
金髪碧眼の美形ながら、性格はお世辞にも王の器とは言えない男だった。
彼はアリステリアを見るなり、ため息を吐く。
「またその顔か。まったく、何を言っても感情のひとつも見せない。やはり貴様は人形だな」
「まあ。褒め言葉として受け取っておきますわ」
「……皮肉のつもりだったが」
「理解しております。ですが、いちいち感情的に反応するほど、私は暇ではありませんの」
表情一つ変えずにそう返され、レオナードは少しだけ言葉を詰まらせた。
彼の言葉は、まるで刃のように人を傷つける。だが、アリステリアにはまったく通じない。
「まったく……だからお前はつまらんのだ。俺の言葉に何も感じぬなど、女として欠陥だ」
「殿下のお言葉に、感動しろと?」
「当然だ。俺が婚約者に選んでやったのだぞ。普通の女なら、膝をついて感涙している」
(そういう女性がいたら、一度お目にかかってみたいものですわ)
口には出さず、アリステリアは静かに微笑した。
その笑顔がまた、どこか人間味を欠いていた。完璧すぎる微笑は、温度を持たない仮面のよう。
「さて、今日は何のご用件かしら?」
「……近いうちに、新しい客人を連れてくる」
「客人?」
「聖女だ。“平民”だが、癒しの力を持ち、神の祝福を受けた奇跡の娘。俺は、彼女に真実の愛を感じた」
「奇跡の娘……平民……ふふっ」
アリステリアは、小さく笑った。
笑った。それだけでレオナードは不快そうに眉をひそめた。
「何がおかしい?」
「いえ。まったく同じ文句で、先月も別の方をご紹介されましたから……。殿下はとても情熱的でいらっしゃるのね」
「貴様……!」
声を荒げようとしたその瞬間、アリステリアは彼を見据えた。
一切の怒りも、嘲りもなく、ただ静かに、冷たく。
水底のような、凍てついた青の瞳で。
「殿下。……“真実の愛”は結構ですけれど、どうか私を巻き込まないでいただけるかしら」
「……!」
「私が黙っているのは、恥を晒したくないからです。あなたが“聖女”とやらに夢中になるのは自由ですが、あまり多くの人の前でお話しされないほうがよろしいかと。聞いていて痛々しいですもの」
レオナードの顔が、怒りとも羞恥ともつかない色に染まった。
「貴様……何様のつもりだ……!」
「公爵令嬢アリステリア・ディ・レグニッツですわ」
そう言いながら、アリステリアは椅子から立ち上がる。
優雅な所作。だが、床を踏みしめるその音には、確かな威圧があった。
「殿下。ご滞在中の紅茶も、おもてなしも、これまで十分に尽くしてまいりました。ですが、これ以上侮辱を重ねられるのなら――」
「なら、どうする?」
アリステリアは一瞬だけ沈黙し、そして――
「……私の時間を、無駄にしないでいただきたいのです」
淡々としたその言葉に、なぜかレオナードは怯んだ。
脅されたわけではない。怒鳴られたわけでもない。
けれど、まるで背後から氷の刃を突きつけられたかのような、そんな寒気を覚えた。
そして、アリステリアのその静謐な威圧こそが、王宮の誰よりも恐れられていた。
その日、レオナードは黙ったまま部屋を去った。
アリステリアはため息をつき、再び窓辺の席へ戻る。
「静かに過ごしたいだけですのに……」
小さく呟き、ぬるくなった紅茶に目を落とす。
――だがこの日を境に、王宮の空気は少しずつ、確実にきな臭くなり始める。
そして彼女は、まだ知らない。
「静かに生きたい」というただそれだけの願いが、
数多の変態たちを引き寄せる呪いとなることを――。
仮面の婚約