王城の噴水前広場は、午前中にも関わらず異様な熱気に包まれていた。
華やかな音楽、拍手、そして歓声。
その中心にいたのは、柔らかな栗色の髪を風にたなびかせる一人の少女だった。
「……あれが、“聖女ミレイユ”ですの?」
王宮に届けられた招待状に従い、アリステリア・ディ・レグニッツは、離れたバルコニーからその様子を眺めていた。
白いローブに包まれたその少女は、誰に対しても微笑み、手を取り、慈愛を込めた眼差しを向ける。
一歩歩けば、そこに花が咲き、笑顔が生まれる――とでも言わんばかりの絶賛ぶりだ。
「聖なる癒しの奇跡を……ありがとう、ミレイユ様……!」 「私の子が、歩けるように……! 神の祝福だ……!」
あちこちで感謝と涙が飛び交い、貴族も平民も彼女の前にひざまずいていた。
(まるで、宗教画の中にいるような光景ですわね)
アリステリアは思わず目を細めた。
確かに、“癒し”の力は本物らしい。
老いた侍女の腰痛が数秒で和らぎ、農夫の荒れた手がつやを取り戻す様を、彼女自身も目撃した。
だが――
(あまりにも、演出が過ぎる気がしますわね)
遠巻きに見ていても、それは伝わってくる。
ミレイユの微笑は完璧すぎた。
受け答えも、所作も、まるで“理想の聖女”を演じているかのように滑らかすぎる。
そこには人間らしい揺らぎが、一片もない。
「アリステリア様、聖女様が直々にご挨拶なさりたいとのことです」
王城の女官が、興奮気味に報告してきた。
「ご挨拶? 私に?」
「はい! “あなたのことを知ってから、どうしてもお目にかかりたいと願っていました”と……」
アリステリアは一瞬、わずかに眉をひそめた。
(私のことを……?)
そして十数分後――
部屋に入ってきたミレイユは、まるで慈母のような表情で一礼した。
「アリステリア様。お目にかかれて光栄です。……このような機会をいただけたこと、神に感謝いたします」
柔らかな声。温かな笑顔。
だが、その瞳の奥には、言葉にできない光が潜んでいた。
「ようこそおいでくださいました、聖女様。私などにご挨拶など、身に余る光栄ですわ」
「とんでもないことです。……私はずっと、アリステリア様のお噂を耳にしておりました。誇り高く、気品に満ち、常に静かに義務を果たす――まさに、理想の貴婦人と」
「ご評価いただき、ありがとうございます。……けれど、それは外側だけを見てのものですわ」
「それで十分です。外側に“美”を持つ方は、内側にも“強さ”をお持ちです。私は……そんなアリステリア様に、ずっと憧れておりました」
その言葉は、まるで恋人への告白のように熱を帯びていた。
アリステリアは、少しだけ背筋を正した。
(……言葉の選び方が、どこか過剰。私に対しての感情の向き方も、妙に一方向的。距離感が近すぎますわ)
ミレイユの微笑は穏やかで、声も丁寧だ。だがその態度には、どこか“入り込みすぎる者”に共通する一線の軽さがあった。
「殿下も……あなたのことをよく話されます。とても冷たく、愛がない方だと。でも、私はそうは思いません」
「まあ。ご丁寧に、王太子殿下のご評価まで……」
「ええ。私は見てきました。“本当に愛がない人間”が、あれほど冷静に王宮を渡っていけるわけがない。あなたは、強く、そして孤高であられる。……私は、あなたのようになりたいのです」
(……危険ですわね)
その瞬間、アリステリアの頭に警鐘が鳴った。
言動は整っている。表情も美しい。礼儀も完璧。
だが、この“聖女ミレイユ”には何か根本的な異常がある。
それはアリステリアが無意識に持つ、長年の観察眼が告げていた。
「それに……この数日、いろいろと悩みがありまして。殿下の御前で“癒し”を求められることも多くて……」
「お疲れのようですわね。大変なお立場ですものね」
「ええ……ですから、こうしてアリステリア様のような方に、心のうちをお伝えできて……本当に救われます」
その瞬間。
ミレイユが、アリステリアの手にそっと自分の手を重ねてきた。
「あなたの冷たさは、決して拒絶ではない。あれは……氷のように美しく、そして……心地よいのです」
「……心地よい、ですって?」
「はい。凍てつくような視線で見つめられると……身が引き締まって、心が洗われるようで」
(……)
(やはりこの方、どこかが壊れてますわね)
アリステリアは微笑みながら、そっと手を引いた。
そして静かに告げる。
「聖女様。あなたが何をお考えか、私にはわかりませんが……」
「はい……?」
「私は、ただ静かに過ごしたいだけなのです」
「……静かに、ですか」
「ええ。騒がしさや、混乱や、甘ったるい感情の渦とは、できるだけ距離を置いていたい。それが、私の平穏ですの」
ミレイユはしばらく黙っていたが、やがて、うっとりとしたように目を細めた。
「……とても素敵です。アリステリア様。私は、あなたのその価値観こそが“神に近いもの”だと感じます」
(あら、私、神になった覚えはありませんけれど?)
こうして、“理想の聖女”ミレイユは、アリステリアに強い執着を見せながら日常に入り込んできた。
誰もがミレイユを称賛し、王太子レオナードは完全に夢中だった。
だが、アリステリアは静かに、疑念を抱き始めていた。
この女――
本当に、ただの“癒しの聖女”で済むのだろうか?と。
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