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第三十四話

あれから一刻過ぎた頃、男は呼び鈴を鳴らした。男はなにやら店の者と話している。


ほどなくして店の男が真新しい肌衣と衣装、湯の入った小さな桶、唾壺だこ、水差しと湯呑みをもって来て男に渡した。一方、寝台に横たわったままの清蓮せいれんは、放心状態で天井の一点を見つめていた。


(なにが……起こった? 彼は……なにをした? しがみついて……、挙句に変な声まで出して……)


清蓮は無意識に指で耳元から首筋を撫で、男が触れた軌跡をたどった。


ああでもしないと店の男は納得しなかっただろう。致し方ないことだ。男もそれがわかってやったのだろう。だから触れたところを消すように手拭いで拭ったのだ。だがそうしたところで今しがたの出来事だ。


清蓮は男が触れたあの感触を思い出すと、再び体が火照ってくるのを感じた。清蓮は目を閉じて、深呼吸を繰り返し、火照る体と心を鎮めようとした。


男は店の男から頼んだものを受け取ると、清蓮のそばにそれらを置いた。気配に気づいた清蓮は身を起こして男を見る。互いの様子を探るように見つめ合う。清蓮は静寂が我慢ならず、一刻も早く彼から話を聞きたいと口火を切ろうとすると、先に男が口を開く。


「脱いで……」


「えっ⁉︎」


またしても予想だにしなかったことを言われ、さっと男と反対側の縁に身を寄せ警戒する。


「君はまた、なにを言ってるんだ⁈ 今度は脱げたと⁈ 」

(さっきは自分を捕まえに来たと言ってたけど、それは嘘で、本当は女を買いに来たんだ!いや、待て。遊女を買うというのなら、男の私でなく他の女性を買えばいい。私が皇太子だと、男だとわかっても、そう言ってくるということは……。男でも女でも構わないということか⁈どうする?どうやってここから出る?彼はかなりの手練だ。勝てるのか?」


清蓮は、頭の中で目まぐるしく思考を回転させていた。すると、なぜか男はくすくすと笑い出した。清蓮は、男が急に笑い出すのを見て、


(なぜ笑う?全くわからない……彼はつかみどころがない、というかなんというか……)


清蓮は困惑するばかりだ。


「殿下、聞こえている……」


男は落ち着き払った声でそう言う。


「えっ? 聞こえてる? なにが⁈ 」


「独り言……」


「えっ!︎ えぇーー!」


男の言う通り、清蓮はぶつぶつ大きな声でつぶやいていたのだ。清蓮は男に背を向け、うわーっと顔を隠しては言い訳を始める。


「頭が混乱すると、思ったことをつい口にしてしまう癖があるんだ。自分では声に出してるつもりはないんだけど、周りの人たちからは、気をつけろって。


あぁ、またやってしまったんだ! 言っておくけど、別に君のことを悪く言うつもりはなかったんだ。人にはそれぞれ事情も好みもあるからね。なにをするのもその人の自由だ。


でも、失礼なことを言ったのは間違いないから、気を悪くしたならすまない。ただ、どうなんだろう? 君の相手として私は? 他にもっといい人がいるんじゃないのかな?


あ、いや、そうじゃない、そういうことが言いたいんじゃない! あぁ、本当にごめん。いろんなことが次から次へと起こって、もう頭のなかがおかしくなって、自分でもなにを言ってるかさっぱりわからないんだ……」


清蓮は話せば話すほど収拾がつかなくなり、どこかに隠れてしまいたい気分だ。そんな清蓮の醜態も男には新鮮だったようだ。


くすくすと笑った男の切れ長の目は、まるで夜に煌めく三日月のように美しく変化した。反対に硬質の美貌は柔らかな陽射しを受けたかのように眩しく煌めく。


清蓮は男の様子を見て自分の醜態はどこへやら、男の笑顔に魅入ってしまった。清蓮は嬉しくなって、そんなに笑わないでくれと照れ笑いする。


「貴方は……、とてもおもしろい人だ」


男は断言するように言った。その口調は穏やかで誠実だった。


「君は……、不思議な人だね。あ、別に悪い意味で言ってるわけじゃないからね」


清蓮も素直に話す。


「分かっている」


ずっと緊張した中で過ごしてきた清蓮にとって、穏やかな言葉のやりとりは清蓮を安心させた。

今日、初めてちゃんと話をしたのに、ずっと前から知ってるみたいだった。


清蓮は彼と演舞場で初めて会った時から、どこかで会ったことがあるような既視感を感じていた。清蓮はすぐにその考えを否定した。こんな綺麗な男を忘れるはずないのだからと。


男は清蓮が逃亡中に怪我した背中や腕の傷の手当をしようと、脱ぐよう言ったようで、誤解していた清蓮は、


「はは……。私は君の親切を勘違いして、本当に君に失礼なこと言ったね。許してくれ」


私を捕まえに来たと言った男の意図はわからないけど、どうやら宮廷に連れ戻そうとしているわけではなさそうで、清蓮は心から安堵した。


(きっと温蘭おんらんの町中での騒動の時に、私を見かけたのだろう。それなら辻褄が合う。でも、なんで私が怪我してることを知ってるのかな?仙術といい全くもって、神がかっているな……。まぁ、姿見も神々しいから、彼が自分は神様だと言ったら信じてしまうかもな)


清蓮は今度は彼に聞かれないように心のなかで思いを巡らし、一人合点した。



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