地面にうつ伏せになって固まる下士官。地面からは砂煙が舞い上がる。
少女を握りつぶそうと全力で押しかかったのであろう。しかし、そこには少女の姿はなかった。
「......!あれ!」
数人の水夫が指差す。その先には少女の姿があった。
牛のような下士官の背中に、ちょこんと両足でバランスを取って立ちながら。
こんなことが、とイノセンティオは自分の目を疑う。
少しの沈黙の後、下士官がゆっくりと体を起こす。
すっ、と少女は地面に身軽に舞い降りる。
イノセンティオは思い出す。子どもの時に見たジプシーたちの見世物を。まるでその演者のように少女の身は軽く、そしてしなやかであった。
「そちらが悪い。謝るのはあなたでしょう」
少女の声。やや高めではあるが、落ち着いた感じである。それはまるで下士官をたしなめるようにさえ聞こえた。
「勝手に人の船の帆を盗もうとするから」
下士官はその言葉に激昂する。
「人の船――だと!この娘!いいかこの船は世界に冠たるスペイン海軍の軍船だ。おれはその海軍の軍人。こんなボロ船をどうしようが勝手だろうが!」
そう言いながら腰の短剣を抜く下士官。イノセンティオは再び身構える。喧嘩は日常茶飯事とはいえ、武器を使った私闘は固く禁じられている。そんなことは下士官は十も承知だろうが。
「ボロ船ではないよ」
そう言いながら少女は黒い船を見上げる。
「サン・ファン・バウティスタ号というありがたい名前がある。主に洗礼を施した聖者の名前が――」
隙あり!と見たのか下士官は短剣を逆手に持ち、少女に飛びかかる。
今度こそ逃げ場がない、と誰もが思った。
しかし少女はその場でマントを翻し、一閃する。
大きな音とともに下士官の大きな身体が吹っ飛ぶ。
誰もが目を疑う。
地面に仰向けになり、目を剥いてよだれを垂れ流す下士官。痙攣もしているようだ。
手にしていた短剣は地面に転がり、刃が真っ二つに折れていた。
一方少女の方はそれには全く介さず、くるりと踵をかえその場を立ち去ろうとする。マントの端を少し気にしながら。
短めの髪が揺れる。黒みがかった黄色い髪だった。肌の色も、それに似て。
「伍長、大丈夫ですか?」
何人かの水夫が下士官を取り巻き、手当てをしようとしていた。
「またか」
イノセンティオの後ろで声がする。聞き覚えのある声。
「新入りだろうて。知っていればあの娘に手出ししようなんて思うやつはいない」
それはこの港で水先案内をつとめるエンリコ老人であった。
大航海時代の全盛期にこの港にやってきたマニラ植民市の生き字引のような老人であった。
「あの娘は――どうやらメスティーソのようだな。我がスペインのものか?」
「ああ」
エンリコ老人はそう答える。
「母はスペイン人だが、父は――日本人の子どもさ」
日本という言葉にイノセンセンティオは思い出す。
眼の前のこの船サン・ファン・バウティスタ号は日本で作られた船であったことを――