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第6章

第6章

第1項|「地獄の門番パン」

第1節|土曜日の午後4時過ぎ


花翁町の街角にある居酒屋「天屋碗屋」で仕込みを終えた環が、パンを買いに「BLOOD & BREAD」に足を運んだ。


店内には、店長の飽君と副店主の優愛がいるだけ。二人は、いつものように仕事に追われながらも、和やかな雰囲気が漂っていた。パンの焼きたての香りが店内に広がる中、環が店の扉を開けると、優愛が顔を上げて微笑んだ。


「優愛姉ちゃん!」


環が元気よく声をかけると、優愛は驚いた表情を見せつつ、すぐにその顔をほころばせて答えた。

「あら?環、どうしたの?早いじゃないか。」


環はふわりと微笑みながら、何気なくパンをひとつ手に取ってレジカウンターに歩み寄った。店内にはふたりのやりとりが響き、まるで本当の姉妹のように自然な会話が続いた。

その後ろでは、店長の飽君が微笑みながら、二人の様子を見守っていた。


「週末だし、環もしっかり腹ごしらえしないと!」

優愛が満足げに言い、後ろから飽君がにやりと笑って続けた。

「ヘヘっ、そうだな、ちゃんと食べないと、働けねぇからな!」


優愛はひとつのパンを環の前に差し出す。そのパンを見た瞬間、環は目を丸くして驚きの声を上げた。


「な、な、なに!?このパンは!?」


優愛は得意げに言った。

「名付けて、地獄の門番パン!週末のエネルギーチャージにピッタリだよ!」


環はそのパンを見て、さらに驚きが増した。黒く艶めいた生地の上には、真っ赤なチリペッパーソースが大胆にかけられ、中央にはまるで焼き印のように髑髏のデザインが浮かび上がっていた。

パン全体が、まるで「食べたら命の保証はしない」と言わんばかりの強烈なビジュアルを持っている。


「わ、わ、わ!?燃えてるの!?これ…!?」


環は思わず後ずさりしながら、目をキラキラとさせて見つめた。パンの見た目もさることながら、その辛さに対する不安と興奮が入り混じった表情がとても面白い。


後ろから、飽君の豪快な笑い声が響く。

「あはは、どうだ?そんなに驚くなよ!食べてみろよ、これはオレが自信を持っておすすめするパンなんだぜ!」


環は半信半疑ながらも、優愛の挑戦的な目つきにどうしても抵抗できず、恐る恐るそのパンを手に取った。パンの表面は温かく、ほんのりと香辛料の匂いが漂っていたが、それを噛みしめる前に、環の口の中はすでにヒリヒリとした予感でいっぱいになっていた。


「ちょ、ちょっと待って!本当にこれ食べて大丈夫…?」

環が不安げに言いながらも、パンを口に運んだ瞬間、彼女の顔が真っ赤になった。


「うわぁぁぁぁ!!こ、これはヤバい!!」

パンを食べた途端、環の体がビリビリと熱くなり、口からは火を吹くような辛さが広がる。周囲にいた店員たちも思わず笑いながら、その様子を見守った。


「ほら、どうだ?効くでしょ?」

 優愛が得意げに言うと、飽君が後ろでますます爆笑している。


「ま、待って、あれ、これほんとに死ぬかと思ったわ!」

環は必死に水を求めて店内を見回すが、優愛はそんな彼女をただ見守って、クスクスと笑っていた。


「おいおい、環、ちゃんと食べてから言えよ!あれぐらいで死ぬなんてことないって!」

飽君の冗談交じりの言葉が、環の辛さを少し和らげてくれた。


「でも…でも、これってすごいエネルギーが湧いてくる感じがする…!」

環はしばらく水で口をすすぎながらも、最後には意外にも満足そうな顔をして言った。


「やっぱり、これを食べないと週末は乗り切れないよな!」


優愛は誇らしげに笑いながら、パン屋の棚に戻ると、また次の仕込みを始めた。


「ふふ、まぁ、これでしっかり働けるってことだ。いい調子だな。」


飽君もまた、笑いながら頷いた。


「その調子で、今日はもっと働けよ、環!」


「環、躍動してるよーー!!」

「うぉぉぉぉーー!!」


元気を取り戻した環は、にこやかに言った。

「また来るね!!」


その言葉を残し、環は店を出ようとした。飽君は奥のキッチンに戻り、再び忙しさに戻る。店内には、優愛と環だけが残った。


環が一歩、足を踏み出すと、静かな間が流れる。しばらくして、環は少しだけ身をかがめ、優愛に囁いた。


「優愛姉ちゃん…」


優愛はその言葉に反応し、すぐに顔色を変えた。まるで何かを察したように、表情がピンと引き締まり、目線を落とす。


環がそのまま続ける。

優愛はしばらく黙ったまま、ゆっくりと、そして小さく頷いた。

その頷きは、重く、決意を込めたものだった。


二人の間に走った緊張感は、言葉にできるものではなく、ただ静かに残ったままだった。環はその緊張を抱えたまま、そっと店を後にした。


静かに閉じられた扉の音が、BLOOD & BREADの店内に響き渡る。


第2項|「●」

第1節千夜せんや


‥‥もしもし‥‥


‥‥今日、開けられるか‥‥


……えぇ、お待ちしておりますゎ…


土曜日午後10時。


よぅ‥‥


ふふふ……


予約があって初めて開店する屋台。●と書いて、丸屋漆黒と読む。


千夜は、聖都東地区・楼社市(ろうじゃし)出身の25歳の女性で、屋台「●(丸屋漆黒・まるやしっこく)」を切り盛りしている。身長は164cm、体重は52kg。しなやかで均整の取れた体型が特徴。


丸屋漆黒は完全予約制で、予約のある日だけ開店している街外れの屋台である。


彼女の髪は長く、薄紅色のデジタルパーマが優雅に揺れる。服装は髑髏柄の着物をゆるく着こなすスタイルで、肩の力を抜いた佇まいに、どこか凛とした美しさが漂う。

首から下には繊細なタトゥーが施されており、その模様は彼女の過去や信念を物語るようでもある。


一人称は「たーし」、話し方はいつもおだやかで柔らかい。普段は温厚な性格だが、仕事となると手際よく、無駄のない動きで客をもてなすプロフェッショナル。

彼女の屋台では酒を一通り取り揃え、日替わりの一品が毎晩の楽しみとなっている。常連客の間では、彼女の「最速の手さばき」と「癒しの声」が密かに評判だ。


そんな千夜の信条は、「働き過ぎる者、ゆっくりしんさい。」——それは、自らの生き方にも、訪れる客たちにも向けた、優しいひとこと。屋台の灯りの下、千夜は今日も、誰かの疲れをそっと癒している。


第2節きょう


予約の電話を入れたのは、京である。


京——花翁町を護る寡黙な漢


花翁町に生きる男、京。31歳、身長184cm、体重70kg。かつて極優會の幹部を務めていたが、今はその肩書きを捨て、花翁工務店の建築作業員として働く。


肩につくほどのセミロングの明るい茶髪は、無造作に流されることが多いが、時折後ろで束ねることもある。

黒の髑髏柄のタンクトップを纏い、引き締まった筋肉質な身体には、首から腕、手の甲にまで刻まれたタトゥーが浮かぶ。戦いを生き抜いた者の証だ。


性格は寡黙でクール。しかし、それは冷たいのではなく、余計な言葉を必要としない生き方をしてきたから。

仲間思いで、正義感が強い。この町を、ここで生きる人間を護ることが、今の京のすべてだ。


「てめぇらみたいな生きる価値もねぇ奴がいるから、俺はこの町を、この町民を護ってんだよ!!」


その一言に、彼の信念が詰まっている。


仕事の後、たまに訪れるのが完全事前予約制の屋台「丸屋漆黒」。土曜日、午後10時。予約の電話を入れたのは京だった。


千夜との短いやり取りが交わされる。多くを語らずとも通じ合う二人。その夜、京は何を語り、何を思うのか。


ワインを片手に、静かに煙草をくゆらせる。その瞳の奥に、まだ燃え尽きない炎が灯っている。


「千夜もやるかい‥‥」

「えぇ、頂こうかしら……」


千夜が盃を艶やかに呑む、その仕草一つひとつが、ただの夜を特別なものに変えていく。

予約がなければ開かないこの屋台、「丸屋漆黒」。ただの屋台ではない、ただの酒ではない。


「御ご馳走様……」


しっとりと盃を置く千夜の手が、静かに屋台の側へと移る。

今夜の日替わりのひとつ——もって菊のあれ。


もって菊の花びらを一枚一枚、丁寧に摘み取る。

たっぷりの沸騰した湯の中に、大さじ1杯程度のお酢を落とす。

静かに菜箸を動かし、花びらを湯に潜らせる。


——30秒。


時間が来れば、ざるにあげ、冷水で締める。

軽く水を切り、調味料を少しずつ加える。

お醤油、お酢をほんの少し。


そうして出来上がった一皿を、京の前にそっと差し出す。

屋台の灯りに照らされ、ほのかに艶やかに輝くもって菊のあえもの。


千夜の指が、わずかに濡れている。

それは湯気に触れた名残か、あるいは…


静かな夜。

ただの屋台のはずなのに、そこには何か、特別な空気が漂っていた。


第3節|蝉丸


「遅くなっちまった、待たせたか?」


低く響く声が、静かな夜の空気を揺らす。

良水製粉所長の蟬丸だ。


屋台の灯りに照らされた暖簾がわずかに揺れ、また一人の客がその奥へと足を踏み入れる。


千夜は盃を持つ手を少しだけ止め、ゆるりと視線を上げる。

「ふふ……いいえ、いらっしゃい。」


その声は、ただの挨拶以上に、どこか含みを持ったものに聞こえる。

ここは丸屋漆黒。

ただの屋台ではなく、予約があって初めて開く、特別な場。


新たな客が腰を下ろし、静かに酒を注がれる音が響く。

この夜、またひとつ、物語が紡がれていく——


軽い口調だが、その背中には確かな信頼が滲む。


「千夜、酒くれ!」


千夜はふっと微笑み、盃を手に取る。

「ふふ、あいよ……」


しっとりとした声とともに、酒が静かに注がれる。

陶器の盃に落ちる琥珀色の液体が、灯りに照らされて揺らめく。


夜はまだ始まったばかり——


「京、どうだ、儲かってるか……」


静かに酒をあおる男が、ふと問いかける。

京は盃を傾けながら、肩をすくめるように答えた。


「んー、まぁ建築現場は忙しいが、あっちの方は売り物が売り物だけに大儲けは出来ねぇが、需要はあるからなぁ……」


建築の仕事、派手に儲かるものではない。

だが確かな技術を求める者はいる。

そして京は、そんな確かな物を提供する仕事を選んだ。


「そうか、それは何より……」


静かな応えが、屋台の灯りの下に落ちる。

それを聞いた千夜は、ふっと目を細め、盃を置くとそっと立ち上がる。


蝉丸には、今夜は違う日替わりを。

千夜は器を取り出し、別の料理を静かに準備し始めた。


——この屋台では、同じ酒を酌み交わしても、出される肴は客ごとに違う。

その夜、千夜が選んだ日替わりには、どんな意味が込められているのか。


盃の向こうで、夜が深まっていく。

千夜は静かに手を動かしながら、湯気の立ち上る小鍋を覗き込む。


今夜、蝉丸に出すのは——秋鮭の白子の甘辛煮。


料理酒と水を同量、鍋の中で静かに沸騰させる。

そこへ、たっぷりの料理酒をまとわせた白子を、丁寧にカットしながら滑らせるように入れていく。


じゅっ……


静寂の中、甘辛い香りが立ち昇る。

みりん、三温糖、白だし、醤油——

調味料を加え、じっくりと煮詰めていく。


アルミホイルをそっと被せ、煮汁が白子に染み渡るのを待つ。

じっくり、ゆっくり。時間をかけて、旨みを閉じ込める。


やがて、甘辛い照りが生まれた頃合いを見計らい、器へと装う。

仕上げに、小口切りの青ネギをぱらりと散らし、白ごまを指先で軽く振る。


カウンター越しに、千夜が盃の横にそっと置いた。


「……秋の味、召し上がれ。」


夜の静寂の中、千夜の声が低く響く。

酒とともに、ほんのりとした甘辛さが口の中に広がる頃、屋台の灯りが僅かに揺れた。


「ちっと時間の掛かるアテだけどね……」


千夜はそう呟きながら、しっとりとした照りを帯びた秋鮭の白子を器に盛る。

ゆっくりと、しかし確実に仕上げられた一皿が、盃の隣にそっと置かれる。


蝉丸は箸を伸ばし、一口。


「こりゃ!こりゃうめぇ!」


目を見開き、しばし言葉を失う。

白子のとろける食感に、甘辛いタレが絡みつく。

噛むほどに広がる濃厚な旨み、そこに酒が重なり、舌の奥で溶け合っていく。


んんん!


喉を鳴らし、再び盃を傾ける。

酒の熱と、料理の甘辛さが混ざり合い、まるで秋そのものが喉を流れ落ちていくような感覚。


「秋は今、喉に来たり!」

蝉丸は満足げに息を吐き、もう一度箸を伸ばす。

千夜は微笑みながら、静かに盃を磨く。


第4節|秋の宵闇


外は秋の夜風が吹いている。

丸屋漆黒の屋台の灯りの下、季節はゆっくりと深まっていく。


「千夜もこっち側な来ねぇか……」

「全く関係無ぇ話じゃねぇからな……」


蝉丸の低く落ち着いた声が、屋台の静けさに溶けるように響く。


千夜は一瞬、盃を拭く手を止めた。

暖簾の向こうで風がわずかに揺れる。


「……ふふ、仕方ないわね。」


千夜は静かに前掛けの紐を解き、ふわりと外す。

それを店の片隅に掛けると、すっと屋台の内側から客側へ回った。

滑らかな動作で腰を下ろすと、京が無言のまま盃を手に取り、静かに酒を注ぐ。


「さてと……」


蝉丸は軽く喉を鳴らし、酒をひと口含む。

ゆっくりと盃を置き、視線を巡らせる。


京、千夜、そして蝉丸。

この場にいる3人にとって、この話は無関係ではいられない。


——やがて、蝉丸は静かに、しかし確かな言葉で話を始めた。

宵闇は、永遠かの如く、静かな怨炎が焦げ付いて行く。


第3項|「聖都東教会(プロテスタント聖十字派)

第1節|日曜日 午後12時。


教会の鐘が鳴ることはない。

だが、この時間になると、自然と人々が足を運ぶ。


聖都東教会。

花翁町の片隅にひっそりと佇む、黒ずんだ木造の古い建物。

扉は開かれているが、誰かが熱心に呼び込むこともなければ、布教活動の声が響くこともない。ただ、そこにある。

そして、町の人々はそれを知っている。


日曜、午後12時。


それは神の為の時間であると同時に、

「町の人々にとっての楽しみの時間」でもあった。


第2節|礼拝の始まり


教会の中は、既に満席だった。


扉の前には、少し遅れて駆け込んでくる者もいる。

年季の入った長椅子には、町の住人たちが思い思いの姿勢で腰掛けている。


「おい、今日はどんな話すんだ?」

「先週は、神の名の下に征伐って言ってたよな」

「はは、また飲んでるんじゃねぇか?」

「先週の葉っぱ、香り違ってなかったか?」


噺家の高座を待つかのような雰囲気に、

聖堂の厳粛さはまるでない。

それが、ここでは日常だった。


壇上に立つ男――牧師は、黒のキャソックを纏い、静かに聖書を開く。だが、その姿を見て「神の使い」と思う者は、ほとんどいない。


「本日は、詩篇から読もう」


低く、よく通る声が教会内に響いた。

だが、すぐにそれが聖書の講釈だけでは終わらないことを、信者たちは知っている。


第3節|牧師の説教


「人は生まれながらにして罪を持つ……そう語る者もいる。しかし、俺は思うんだ。罪ってのは、誰かに言われるものじゃなく、自分で決めるものだと」


牧師の声は静かだったが、その奥底には確かな熱があった。


「俺は数多くの罪を犯してきた。花翁の繁華街で暴れる奴等……商店で因縁つけて絡んでくる奴等……普通に一生懸命働いてる町民を働き蟻と揶揄する奴等……そんな奴等全員を、二度とお天道様の下で歩けないようになるまで徹底的に潰した」


会堂にざわめきが走る。

だが、誰も驚いてはいない。

この男の過去を知る者も、知らない者も、全員が彼の言葉に耳を傾ける。


壇上の牧師は、ポケットからスキットルを取り出し、一口飲む。中身はスコッチ。

そして、ゆっくりと煙管に火をつけ、紫煙をくゆらせた。


「何度も警察で世話になったが、俺は後悔なんてイチミリもしてねぇ。俺はさ、学は無ぇ、馬鹿だでも、そんな俺でも弱ぇ町民虐めて喜んでるようなクソ虫を許せるはずねぇだろーが!!」


教会の天井に、彼の怒声が響く。

ある者は静かに頷き、ある者は苦笑しながら聞いている。

だが、誰も「不謹慎だ」とは言わない。

むしろ、これがこの教会にふさわしい「祈り」だった。


第4節|聖書の言葉


牧師は、静かに詩篇を取る。


詩篇41:1

「貧しい人々に対して愛することを忘れず、働きかけ、善意に対する受け入れに変わらぬ態度を示しなさい」


続けて、箴言をめくる。


箴言14:31

「貧しい人を蔑視する者は、その主を侮辱する者です。貧しい人に対する慈愛深い者は、神に喜ばれる者です。」


紫煙の向こうに揺れる炎のように、彼の目は強く輝いていた。


最後に、新約聖書を手に取り、ページを開く。


マタイ25:45-46


「ほんとうにあなたがたに言います。これらの最も小さい者たちのうちの一人にしたことを、あなたがたは、わたしにしてくれたのです。」


「そして、彼らは永遠の刑罰を受けます。しかし、義人は永遠のいのちを受けます。」


静寂が教会を包む。

そして、牧師はゆっくりと笑った。


「ほら、神様も言ってるだろ?」

「悪い奴は叩きのめして良いんだぜ!!」


第5節|けがれ


礼拝の終わり。


「お前ら!!なんかあったら教会来い!!

神の名の下で、俺が征伐してやるからな!!!」


スコッチを一気に飲み干し、紫煙をくゆらせる牧師。


信者たちは笑顔で席を立つ。

「また飲んでたな!」

「今日の葉っぱ、香りが違ってなかったか?」

「しかし噺家よりうめぇや」


有名な落語家の噺を聞きに来たかのように、

彼らは満足げに教会を後にする。


教会の入口にある寄附の木箱には、決して裕福ではない町民たちの善意が込められていた。

彼らは、ここがただの「教会」ではないことを知っている。


ここは、町のための場所。

ここは、己を省みる場所。

そして、ここは――


「アウトロー牧師の高座」 だった。


その名は――穢。牧師。


名を穢と言う。本名は違うらしいのだが、

本人曰く、「穢れて生きた人生、だから穢」 らしい。


元・極優會幹部、穢。

かつてはこの花翁町の裏社会を生きた男。

身長178cm、痩せ型の体躯に、首から腕、手の甲にまで彫られたタトゥー。背中には、今も癒えぬ大きな切り傷がある。


荒々しく生きた過去を象徴するそれは、彼の罪の証であり、贖罪の証でもあった。


今は黒のキャソックをまとい、静かに聖書を開くが、その下には、かつて髑髏柄のスーツを纏い、血の匂いのする夜を渡り歩いた過去が眠っている。


穏やかな口調の裏に、かつての狂犬の片鱗を隠し持つ彼は、日々、スコッチを傾け、煙管の煙をくゆらせながら、町を護っているのだ。


第4項|「神の望むもの」凛々の物語

第1節|凛々の独白


はぁーーー……

どうにも、あーしはさ、神仏に好かれてんだか、嫌われてんだか……


何もかもが、曖昧で曖昧で仕方ない。

生きる意味も、死ぬ意味も、見つけられないまま、ただ流されてきた。


無人の寺で茶を立て、無造作に啜る。

うー……ん……ん


天からは嬉し涙か、それとも悲しみの涙なのか、

ポツポツと雨が降ってきた。


その一滴一滴が、どこかしらに深く刺さるようで、

その冷たさに思わず肩をすくめる。


「神様、あーしに何を望む?」


雨音がその問いに答えることなく、ただ静かに響いている。

深いため息をつきながら、視線を上げる。

寺の大木が揺れ、風が吹き抜ける。

それでも、あーしの心の中は静寂に包まれている。


無音のようで、実は騒がしい。

無理にでも耐えようとする自分と、手を差し伸べて欲しい自分がせめぎ合っている。

何度も何度も、足元に降りかかる雨を見ては、ひとしきり黙り込む。


第2節|凛々の自問


開店したばかりの居酒屋でタバコを吸いながら、酒をあおる。煙が立ち上り、ぼんやりと霞む視界の中で、何かを忘れた気がした。


忘れたいことかもしれない。

それとも、忘れたくないことなのか…。


知らない事も罪。

知りすぎている事もまた、罪。


どちらに転んでも、結局は自分を裏切ることになる。

それをあーしはわかっているのに、止められないでいる。


いくら飲んでも酔わない身体を恨む。

酒が効かないって、こんなにも無力感を感じるものなんだな。


その無力感に包まれて、ただ繰り返し酒を呑んでいる自分が、どこか遠くに感じる。


「神って人さぁ・・・」

酒の味が、なぜかしら胸に染み込む。

「お慈悲って、なんだい…」


答えなんてない。

どこまで行っても、答えなんてない。


それでも生きているのは、何かしらの意味があるからなのか?


「何故、あーしを生かす?」


その問いが静かに、心に沈んでいく。

生きる意味を求め、死ぬ意味を知りたくても、

結局はどうしようもなくて、夜が降りる。


午後10時過ぎ。


静かな町の空気。

薄暗い街灯が、歩道に反射して、ぼんやりとした光を投げかける。


そんな中で、あーしは呟く。

だーーーんな、つけといて。


そう言い残すと、花翁町の深淵へと向かった。


深淵とは、あーしが足を踏み入れている場所。

それが何を意味するのかは、もう誰にもわからない。


でも、ここで何かを見つけなければ、

自分を許せない気がする。

だから、雨の中、足を進めるしかない。


店に入ると、あーしは服を脱ぎ捨て、身を清める。

新たに、伝える者として、着換える。

百道院・鴻蘭(KOURAN)、八卦見。


世間では、呪術師や魔術師、果ては占い師と言われる世界の住人である。

その肩書きに何か意味があるのか、あーしにはわからない。


ただ、求められたから、やってきただけだ。

でも今は、足元を見つめ直し、もう一度決意を固める。

ここからは、天地の喧騒へと踏み込んでいく。


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