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第3話 待ち人

 セシルの元には、毎日後宮中の妃が見舞いの品を携えて来訪する。

 しかしセシルに直接会うことができるのは、正妃だけと決められていた。

 見舞いの品はすべて従者たちが検分し記録をつけ、危険がないか皇帝に報告する。その上で、愛妾たちが後宮を去るときに皇帝から返されることになっていた。

 まして愛妾たちの持参した食べ物は、セシルの部屋にすら持ち込まれなかった。金と同じ価値のある香辛料の一袋さえ、皇帝はすべてその場で突き返すようにと命じた。

 皇帝が徹底した拒絶を命じているのは、ある事件のためだった。

 五年前、セシルが十八のとき、野心を持った貴族の愛妾が後宮入りし、セシルの食事に毒を盛ったことがある。

 中毒性の強い麻薬で、どんな屈強な男でも、もう殺してくれと懇願する苦しみが現れる。

 セシルも毒が抜けるまでの一月間、地獄の日々が続いた。口の中がただれ、粥を含んだだけで痛みに涙があふれた。体の内側に巣食うような寒気で、ほとんど眠れなかった。壊れてしまったようにひどい下痢が続いて、部屋は臭気が立ち込めていた。

 そんな娘を一目見たら、どんな寵も冷めると思ったのだろう。

 けれどセルヴィウスはその間、政務を持ち込んでほとんどセシルの部屋から出なかった。セシルの体を抱いて夜通しさすり、食事を拒むセシルの口をこじあけ、解毒剤を溶かした水あめを舌で直接舌根にぬった。セシルの流した汚物で体が汚れても、「セシルもできぬのだから」と湯あみを拒んだ。

 ようやくパンをふやかしたスープを飲み、体をさいなむ苦しみから解放された朝、セシルは深い眠りから目覚めた。

 そこは今までのセシルの部屋ではなかった。琥珀色のカーテンに、部屋にいながら広い庭を見渡せる巨大な窓、セシルの好きなレモングラスの香り。

 かねてからセルヴィウスが後宮の最奥に増築を進めていた、セシルの新しい月の宮だった。

 セシルの身もすっかり清められ、真新しい絹の夜着があたたかかった。

 その中で、ずっと側にいたセルヴィウスだけがいなかった。

 兄上はどこ? 子どものように訊ねたセシルに、女官は表情をこわばらせながらも、大事な用がおありなのですよと言った。

 セルヴィウスがやって来るのは、確かに時間がかかった。

 ようやく現れたセルヴィウスに、セシルは泣いてしまった。そんなセシルを腕につつみ、セルヴィウスは柔らかく笑った。

――よく耐えたな。悪い夢はもう終わりだ。

 セルヴィウスの言う通り、獣じみた日々が夢だったかのように思えた。

 実際、そのときにはすべてが終わっていた。

 正妃以上に高位の貴族だったというのに、彼女もその後ろ盾であった父侯爵も、手足となった従者に至るまで、セルヴィウスが目の前で首をはねさせた後のことだった。

 一月間。彼女らも地獄の中にあった。拷問を受け、セシルに盛った毒の解毒剤について、もう何も話せなくなっていた。

 後でその事実を知ったセシルは食事も取れないほどに塞ぎこんだが、それでもセルヴィウスを責める言葉は出てこなかった。

 そのときから、セシルの口に入るのは、専属の医師と料理人が知恵を絞ったものだけだ。セシルが身につけるのは糸の一本まで皇帝が手配したものだ。

 寵は冷めたどころか、むしろ越えてはならない線を越えてしまったようだった。

 今は愛妾たちが来訪しても、気を煩わせるからと、セシルには知らされない。セシルは昼の間、セシル付きの女官としか顔を合わせることはなかった。

「姫宮、お休みください」

 夜、暖炉の前でうたたねをしているセシルに、しきりに女官がベッドに入るよう勧める。

「まだ……」

 セシルはぐずるように首を横に振る。

 そんなセシルの様子に、女官たちはほほえましそうに顔を見合わせた。皇帝の訪れを待っていると思ったらしかった。

(今日は、いらっしゃるのかしら)

 誤解されていた方がいい。セシルは目をこすりながら待ち続けた。

「姫宮、お待ちかねの方がいらっしゃいましたよ」

 女官が声をかけたとき、セシルの顔が輝いた。

 女官は少し悪戯っぽく言葉を続ける。

「姫宮はすでにお休みですと申し上げて、お帰りいただきましょうか」

「そんな!」

 後宮の住民が皇帝を追い返すことなどできない。もちろん冗談だったが、半分以上眠りの中にあったセシルはうろたえた。

「まだ封を開けていないはちみつ酒をお出しして、お待ちいただいてください。すぐに向かいます」

 とっさにもてなしに思いついたものは、お酒が苦手なセシルが唯一飲むことのできる甘い蜜酒だった。

 セシルは慌ただしく支度を整えて、居室を二つ渡った先にある客室、「歌月の間」に向かう。

 セシルが待ちわびた来訪者はそこにいた。

 正妃メティスはセシルが入って来たのをみとめると、すぐに席を立って礼を取った。

 下級貴族の出であるメティスは、生まれながらの皇族であるセシルとは立場が違うと、皇后となった後もセシルに臣下の礼を取っていた。

 豪奢な金の巻き毛と宝石細工のような華々しい容姿だが、賢明でがまん強い娘だと、皇帝は初めてセシルに彼女を引き合わせたときに告げた。

 後宮で唯一、セシルと他愛ない話ができる相手。セシルは本当の姉よりこの皇后と親しかった。

「陛下?」

 けれど傍らに、セルヴィウスの姿もあった。セシルが言葉に迷う様子を見せると、彼はいわくありげな暗い微笑を浮かべた。

 嫌な予感がしていた。いつものように、メティスと話ができる雰囲気ではない。

「……義姉上。どうぞ、おかけください」

 セシルが椅子を勧めると、メティスはようやく顔を上げる。

 吸い込まれるような青い瞳を見て、セシルはどうして彼女が皇妹に生まれなかったのかと思う。

 大輪の薔薇のように美しい女性だった。夜の化身のように艶やかなセルヴィウスと並ぶと、絵のように映える。

 自分がセルヴィウスの愛妾の一人であったなら、どんなにかよかっただろうと思う。彼女に傅かれるのは今も慣れない。

「お別れを申し上げにきました」

 メティスは席につくことなく、その場で膝をつく。

「え……」

 瞬間、セシルは何を耳にしたかわからなかった。とっさに言葉もなく、ただ見返す。

「後宮を退き、生家に戻ります。もうお会いすることはないかと」

「お、お待ちを。何を仰るのです、義姉上」

 淡々と告げられる言葉が空恐ろしくなって、セシルは慌てて言葉を挟む。

「義姉上は皇后陛下でいらっしゃいます。皇太子殿下のご生母でもあらせられます。後宮の主の」

「後宮の主は、月の姫宮でございます」

 後宮の住民は、セシルのことをそう呼んで首を垂れる。メティスもためらいなくその事実を口にした。

「とんでもない。お考え直しください。陛下も……」

 セシルはセルヴィウスを振り向く。彼は蜜酒の入ったグラスを片手に、ゆるりと坐したままだった。

 形の良い唇が、蜜酒を一口含む。ちらりとセシルを見やった目は、夜の帳の中で向けられたときのように濡れていた。

 何度となく口移しで含まされた蜜酒の味を思い出して、セシルはとっさに目を逸らす。

(こんなときに何を考えているの)

 セシルは自分が恥ずかしくなって、膝の上で震える手を握りしめる。

「私が、一体何だというのです」

 首を横に振って、セシルは声を振り絞る。

「陛下の傍らで政務が執れますか。陛下の御子をお育てできますか。何一つできないでしょう?」

 セシルの目がじわりとにじむ。セルヴィウスは眉を寄せて、グラスをテーブルに置いた。

「セシル」

「お留まりください。月など陛下には必要ありません。必要なのは……」

 義姉上です、と言いかけたセシルの隣で、セルヴィウスが動いた。

 手を伸ばしてセシルの口を覆うと、顎をつかんで自分の方を向かせる。

「月のない夜など、ただの暗闇だ」

 光のない目で、セルヴィウスはセシルを見据える。

「まったくの闇なのだ。そなたはそれを理解した方がよい」

 瞳に食らわれるような錯覚があって、セシルは言葉を失った。

 けれどどうにか体を引いてセルヴィウスの手から逃れると、椅子から降りる。

 驚くメティスの前で手を床につけて、セシルはセルヴィウスに頭を下げる。

「お願いです、陛下。義姉上にどんな落ち度があるというのですか。どうか」

「姫宮、おやめください!」

 額を床につけたセシルを、メティスが悲鳴のような声と共に助け起こそうとする。

「……ゆえに、もう近づけぬことに決めたのだ」

 セルヴィウスはすくいあげるようにしてセシルを抱き上げると、冷えた目でメティスを見下ろす。

「そなたは賢い娘だ。自らの落ち度もわかっておるだろう」

 メティスは目を伏せてうなずく。

 セシルを抱いたまま、セルヴィウスはメティスに背を向ける。

「十年間、よくやった。それに免じて罪は問うまい。明朝、去れ」

 何も言わずに頭を下げるメティスを置いて、セルヴィウスは寝室の方に足を向ける。

「義姉上……義姉上!」

 セシルが伸ばした手は空を切って、メティスの姿は扉の向こうに消えた。

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