狭い路地裏に、重たい靴音が響いた。
古びた石畳の上を、黒ずくめの男たちが無言で取り囲む。その中心、堂々と歩み寄るのは、筋肉質な体躯と短く整えられた髭面の男──
グレオ=バートン。商会ギルドの幹部にして、帝国高官たちと繋がる裏社会の実力者。
「探し物を見つけてくれて、感謝するよ。ミルディアの小娘」
グレオが不敵に笑い、ノエルとメルを見下ろすように言った。
ノエルは震える手でペンダントを握りしめ、後ずさる。だが、メルは相変わらず気楽そうに口元を緩めた。
「ふふん、うちはただ、商売しとるだけやで?」
軽口を叩きながらも、メルの瞳は鋭く、状況を計算していた。
(おそらく、グレオは尾行されとる……いや、確実や)
この路地裏に現れた時点で、メルは確信していた。──アッシュ=ヴェルガス。先日、帝国の裏で動いている情報屋。ある依頼で、グレオの失墜を狙っている男。
以前、接触してきた時の態度、目線、話し方。あの瞬間、メルはすでに見抜いていた。
(今この場で、グレオの手の者やなく、アッシュが近くにおる……)
普通なら気付かぬふりをする場面だが、メルは違った。
グレオを前に、あえて必要以上に大きな声で話し始める。
「いやぁ、ほんま、グレオさんとこうやってお話しできるなんて、光栄やわー! それにしても、このペンダントな?」
わざとらしく、ペンダントを掲げ、路地裏に声を響かせた。
「これが、帝国の獣人差別政策と資源搾取の証拠品やなんて、ほんまにえらいこっちゃな!」
グレオの顔色がわずかに変わる。
部下たちも周囲を警戒するように目を光らせた。
しかし、メルは内心、別の人物へ向けてメッセージを送っている。
(聞いとるやろ、アッシュ。あんたが欲しがっとる決め手、うちが持っとる)
さらに続ける。
「うちも命は惜しいからな、ちゃんと“話の通じる人”となら、取引してもええ思てるんよ!」
表向きはグレオへの言葉。だが、その裏には明確な意図が込められている。
薄暗い路地裏に、緊迫した沈黙が流れた。
「取引? 必要ない」
グレオ=バートンの冷たい声が、路地裏に響いた。
次の瞬間、黒ずくめの部下たちが一斉に動き出す。
「ペンダントを奪え。こいつらごと消せ」
ノエルが小さく悲鳴を上げ、ペンダントを胸に抱きしめる。
メルは歯を食いしばり、瞬時に周囲を見渡した。
(くっ……逃げ場、あらへん……)
これまでか──覚悟を決めたその瞬間。
ズン、と重たい音が鳴り、視界の端に黒い影が現れた。
「……っ!」
黒ずくめの男たちが次々と地面に倒れる。
メルとノエルの目の前に、冷静な気配と共に現れた男──
アッシュ=ヴェルガス。
長身の黒い外套、整った顔立ち、その瞳には冷徹な光が宿っている。
「……やるやんか、危機一髪やな」
メルは笑いながらも、アッシュに警戒の色を見せたまま後ずさる。
アッシュはそんなメルを一瞥し、低く呟く。
「交渉は成立だ」
言葉の意味を理解した瞬間、メルの口元がニヤリと歪んだ。
「さすが、話が早い」
「おい……貴様、何者だ!」
グレオ=バートンが怒鳴り声を上げる。
アッシュはポケットから小型の通信機を取り出すと、無造作にグレオへ投げた。
「自分で確認するんだな」
グレオは警戒しつつも、地面に転がった通信機を拾い上げ、耳に当てる。
数秒後。
グレオの顔色が、みるみる青ざめていった。
「こ、これは……」
耳に響くのは、アッシュが裏で流した機密情報と、メルが握っていたペンダントの情報。そこには帝国の獣人差別政策、資源搾取の裏付け、そして商会ギルド幹部であるグレオの関与まで、すべてが記されていた。
「終わりやな、グレオ=バートンさん」
メルが軽く笑い、ノエルの手からペンダントを受け取る。
「助かったで、あんたのおかげや」
そう言って、メルはアッシュにペンダントを渡した。
アッシュ=ヴェルガスはペンダントを受け取ると、まるで最初からそこにいなかったかのように、音もなく消えていった。
静寂が戻った路地裏。
緊張がふっと抜け、メルは腰に手を当てながら、深く息を吐く。
「ふぅー……危機一髪やったな」
ノエルも同じように、力が抜けたのか、その場にしゃがみ込む。
「ペンダント……すまんかったな」
メルが頭をかきながら、少し申し訳なさそうに言った。
ノエルは首を横に振り、目を伏せる。
「いえ……それで助かったんですから……でも、やっぱりちょっと……」
寂しそうに俯くノエルの表情が、夕暮れの光にかすかに滲んだ。
沈黙が少し流れた後、ノエルがふと顔を上げて言った。
「でも……よく、さっきの人が近くにいるって分かりましたね」
メルは肩をすくめ、ニヤリと笑う。
「あいつ、前に会ったとき、グレオ=バートンの情報を集めとったんや。それに……」
メルは懐から通信細工をいじりながら、続けた。
「うちの情報にも興味津々やったからな。だから、一か八かの賭けやったんや。声、大きめに張り上げてメッセージ送っただけや」
ノエルは目を丸くする。
「でも……本当に助けてくれるなんて」
「まあ、あいつとは腐れ縁やし」
メルは鼻で笑いながら、余裕たっぷりに言葉を続けた。
「あいつ、うちに惚れてるからな」
その瞬間、どこからともなく、何か小さな物がメルの頭に「コツン」と当たった。
「……ん?」
メルが頭上を見上げ、地面に落ちた小さな紙片を拾い上げる。
そこには、たった一言だけ。
《違う》
「……まだおったんかい」
メルは心の中でツッコみ、紙片を握り潰した。
ノエルはそんな様子を見ながらも、どこか寂しげな瞳をしていた。
「姉さんのペンダント……やっぱり、なくなっちゃったんですね」
俯くノエルの横で、メルはふと、紙片と共に手の中に残されたものを見つける。
「……ん?」
小さな、透き通ったガラス片。リシアが大切にしていた、あの独特の光細工の一部だ。
「……ふっ、あいつも気が利くやんか」
メルはそのガラス片をノエルに差し出す。
「ほれ、これ」
ノエルが戸惑いながら受け取る。
「これって……」
「もう一つの仕掛けや」
メルはポケットから小型の光細工ランプを取り出し、ガラス片に光を当てる。
淡い光がガラスの内部を通り抜けた瞬間──
浮かび上がったのは、柔らかく微笑むリシアと、幼い頃のノエルが並んで写る一枚の写真。
「姉さん……」
ノエルの目に、涙がにじむ。
メルは、わざとらしくそっぽを向きながら、鼻を鳴らした。
「あのペンダントには、二つ仕掛けがあったんや」
「一つは、型そのもの。帝国の機密が刻まれた、帝国への脅迫状代わり」
「もう一つは……」
メルは、ガラス片に映る思い出の写真を指でなぞった。
「大事な、あんたと姉ちゃんの記憶や」
夕暮れの帝都に、温かな光と共に、静かな余韻が広がった。
翌朝。帝都の街はいつも通り、喧騒と雑踏に包まれていた。
市場の声、行き交う人々の足音、屋台から立ち上る香ばしい匂い。
その片隅。小さな広場で、ノエルとメルが向かい合っていた。
「メルさん、本当に……ありがとうございました」
ノエルは、深々と頭を下げる。
「うち、姉さんのこと、ちゃんと前に進める気がします」
「ふふん、礼なんてええよ」
メルは気楽そうに言いながらも、どこか満足そうに腕を組んだ。
だが、ノエルはお金の入った小さな袋を差し出してきた。
「でも、これはちゃんと……依頼の報酬、受け取ってください」
メルはその袋を見て、一瞬ニヤリと笑った。
そして、ポケットから紙切れを一枚、ヒラヒラと取り出す。
「もう、報酬はもらっとる」
ノエルが目を見開く。
紙切れには、帝国の極秘情報がびっしりとコピーされていた。
「……いつの間に……」
驚くノエルに、メルは肩をすくめて答える。
「情報は時として、金より価値があるからな」
得意げに笑うその顔は、まさに守銭奴な情報屋のそれだった。
ノエルは呆れたように、でもどこか安心したように微笑んだ。
「やっぱり、メルさんはすごいです」
そう言って、ノエルはペンダントの中の思い出を胸に、背を向けて歩き出す。
その背中を見送りながら、メルは一つ息を吐く。
「さあて、今日も稼ぐで」
そう呟くと、メルはいつもの調子で人混みに紛れ、帝都の雑踏の中へと消えていった。
太陽は高く、帝国の空は今日も変わらず騒がしい。
けれど、そのどこかに、行商人メル=ミルディアの影は確かにあった。