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第7話 離婚報告

「そうか…結構、短かったな」


「1年ほど…ですね」


「…理由、聞いてもいい?」


「私の、力不足で…」


「毎晩可愛がってやればよかったのにさ…カッコつけて、我慢したんじゃないの?!」


所長に脇腹を突つかれ…思わず身をよじる。


「そ…っ!…んなんじゃありませんよ」


エスケイ法律事務所。所長の酒井さんは、40代のすこぶる優秀な弁護士だが…何ごとも茶化して終わろうとする困った癖があった。


俺が話しているのは、離婚したというデリケートな話のはず。

それを笑い話に変える力技はたいしたものだと思う。



…凛が出て行って、1週間。

ひとつ案件が落ち着き、酒井所長に離婚の報告をした。


「…指輪は?」


「あ…これは、外れなくて…」


ははぁ…ん、と、訳知り顔をするので、次に何を言うかわかった。


「未練か…」

「違います」


速攻で否定した。

…外れないのは本当だ。


「健康的なうまい食事で、少し太ったのか、外れないんです。…向こうには一応事情を伝えておこうと思ってます」


「うまい食事ねぇ…全然太ってないよ?でもいいんじゃない?剣崎くんモテるし。女避けにはめとけば?」


そうします…と言って自分の席に戻る。


相手をすれば、いつまでも話は終わらない。

酒井所長は「人がいい」のだが、俺は「人たらし」だと思っている。





真っ暗な家に帰るのは、自分で思うより精神的にこたえた。


たった1年。

…されど1年。


凛によって快適な空間が保たれた部屋は、早くも朽ち始めている。



「よしよしよし…これを混ぜないと、悪夢を見そうだ」


冷蔵庫に入れてある大きめのタッパー。1人暮らしだった凛が持ってきたぬか床だ。


何のために毎日こねるのか…凛は「おいしくするため」としか言わなかったが、要するにぬか床内の菌を均一に保つためらしい。


理由がわかれば、やる気も出るというもの。


今のところ、毎日こねくり回している。自分で漬ける気にはならないが。


なぜそんな気にならないのか。

深掘りは自分を傷つける。

そう気づいて、自分の本音に手を付けてしまった後悔が走る。


俺は、離婚したくなかったのか…


自分の胸の内は置いといて、彼女に寂しい思いをさせたことは事実だ。

それが離婚を決意させたのだから。


…結婚する人には、寂しい思いをさせたくないと、強く誓って結婚したのに。


やはり俺は、父親の子供だと思う。

外面が良くて身内には冷たい。

自分だけで完結しがちで、人の思いに気づけない。


凛の申し出に異論を唱えなかったのは、結局父親に似ている自分に失望したからだ。


こんな時、自分の非を認めて改善を約束する男もいるだろう。

離婚したくないと声高に叫んで、土下座して謝って、機嫌を取りまくって。


俺は、それでもダメだったら…と考えてしまった。


本格的に嫌われるのは、怖かった。

凛には、今まで感じたことのない愛しさを感じて…大切な人だったから。


傷つけたとしたら、これ以上傷つけたくなかったし、もう…嫌われたくなかった。


お互い、自分の醜いところまで見せあって、とことん付き合い抜くということはできない性質。


それをしようとすれば、多分お互い苦しくなる。


だったら…

自由にさせてやろう。


俺にできるのはそれくらいだ。

…非常識なプロポーズを受けてもらっただけで、ありがたい。


凛は…俺とは違うタイプの、明るくて裏表のない男とのほうが相性がいいかもしれない。


クールに見えて、実は人一倍優しくて傷つきやすい。

俺も傷だらけで、そんな凛を包み込めなかった。


だから…凛には。

凛だけは、幸せになってほしい。



「あ。こねすぎたか…?」


気づけば独特な匂いが充満したキッチン。…でも嫌ではない。

畳の青臭い匂いに妙に落ち着きを感じるのと同じ感覚。



リビングの窓を開けて…凛が残していった鉢植えに水をやるのも習慣になった。


どんな花が咲くんだろうな。


…はにかんだ笑顔が脳裏に浮かんだ。






「…川上…?」


寝る前にシャワーを浴びて、何気なく手にした携帯に、メッセージが来ていることに気付いた。



『文仁げんき?結菜だよ!寂しくしてるんだって〜?!ご飯でも食べに行こ♥』



賑やかなスタンプと絵文字だらけの文面…


川上結菜、と言われても、すぐに顔が思い浮かばない。




「あぁ…やたら女の子アピールのすごい子か」


凛が結婚披露パーティーに呼んでいた。

…同窓会にも確かにいた気がする。



『久しぶり。なかなか忙しい。時間が空いたらそのうち行こう」


…うまい文面を考えるのも面倒だ。

思いつくまま文字を打って確認もせず送信した。…少し冷たいかもしれないが、まぁいいか。


その後も何度か同じような誘いのメッセージをもらったが…新たなクライアント案件を受けたので、本当に時間がなくなった。



……気づけば、1ヶ月が過ぎていた。





「剣崎さん知ってます?このビルの1階、なんかお店が入りそうですよ?」


新卒のパラリーガル、竹尾が、ランチから戻って嬉しそうに言った。


「…へぇ…」


「嬉しくないです?!…カフェとかパン屋だったらいいなぁ…」


女子みたいなことを言うので、呆れて竹尾の顔をガン見しながら…俺は弁当屋だったらいいと思う。


「…ちょ、あんま見ないでくださいよ…剣崎さんに見られるとさすがにテレます!」


男のくせにキモいことを言う奴だ…




「木村さんの離婚訴訟の件です。

…ちょっと出ます」


所長にそう告げて、先輩女性弁護士の田倉さんと一緒に事務所を出た。


田倉さんはふくよかな体形が安心感を与える40代の先輩。

今回のような、夫からの暴力を理由に離婚したいという女性クライアントには、うってつけの弁護士だ。


でも家庭があって、1人では心もとないと、俺も一緒に担当することになった。


「あ!ここ…美容室になるんだ?!」




エレベーターを降りて、田倉さんが宝物を見つけたように言う。




竹尾が言っていた新しい店のことか。




事務所の入っているビルの1階。






今日はそこに、看板がかかっている。






「Lucy.HAIR.make…」




「ルーシー.ヘア.メイク…」読み上げながら、白地に黒い文字で書かれた手書きのような看板が、やけに洒落ている…と思っていた



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