「そうか…結構、短かったな」
「1年ほど…ですね」
「…理由、聞いてもいい?」
「私の、力不足で…」
「毎晩可愛がってやればよかったのにさ…カッコつけて、我慢したんじゃないの?!」
所長に脇腹を突つかれ…思わず身をよじる。
「そ…っ!…んなんじゃありませんよ」
エスケイ法律事務所。所長の酒井さんは、40代のすこぶる優秀な弁護士だが…何ごとも茶化して終わろうとする困った癖があった。
俺が話しているのは、離婚したというデリケートな話のはず。
それを笑い話に変える力技はたいしたものだと思う。
…凛が出て行って、1週間。
ひとつ案件が落ち着き、酒井所長に離婚の報告をした。
「…指輪は?」
「あ…これは、外れなくて…」
ははぁ…ん、と、訳知り顔をするので、次に何を言うかわかった。
「未練か…」
「違います」
速攻で否定した。
…外れないのは本当だ。
「健康的なうまい食事で、少し太ったのか、外れないんです。…向こうには一応事情を伝えておこうと思ってます」
「うまい食事ねぇ…全然太ってないよ?でもいいんじゃない?剣崎くんモテるし。女避けにはめとけば?」
そうします…と言って自分の席に戻る。
相手をすれば、いつまでも話は終わらない。
酒井所長は「人がいい」のだが、俺は「人たらし」だと思っている。
真っ暗な家に帰るのは、自分で思うより精神的にこたえた。
たった1年。
…されど1年。
凛によって快適な空間が保たれた部屋は、早くも朽ち始めている。
「よしよしよし…これを混ぜないと、悪夢を見そうだ」
冷蔵庫に入れてある大きめのタッパー。1人暮らしだった凛が持ってきたぬか床だ。
何のために毎日こねるのか…凛は「おいしくするため」としか言わなかったが、要するにぬか床内の菌を均一に保つためらしい。
理由がわかれば、やる気も出るというもの。
今のところ、毎日こねくり回している。自分で漬ける気にはならないが。
なぜそんな気にならないのか。
深掘りは自分を傷つける。
そう気づいて、自分の本音に手を付けてしまった後悔が走る。
俺は、離婚したくなかったのか…
自分の胸の内は置いといて、彼女に寂しい思いをさせたことは事実だ。
それが離婚を決意させたのだから。
…結婚する人には、寂しい思いをさせたくないと、強く誓って結婚したのに。
やはり俺は、父親の子供だと思う。
外面が良くて身内には冷たい。
自分だけで完結しがちで、人の思いに気づけない。
凛の申し出に異論を唱えなかったのは、結局父親に似ている自分に失望したからだ。
こんな時、自分の非を認めて改善を約束する男もいるだろう。
離婚したくないと声高に叫んで、土下座して謝って、機嫌を取りまくって。
俺は、それでもダメだったら…と考えてしまった。
本格的に嫌われるのは、怖かった。
凛には、今まで感じたことのない愛しさを感じて…大切な人だったから。
傷つけたとしたら、これ以上傷つけたくなかったし、もう…嫌われたくなかった。
お互い、自分の醜いところまで見せあって、とことん付き合い抜くということはできない性質。
それをしようとすれば、多分お互い苦しくなる。
だったら…
自由にさせてやろう。
俺にできるのはそれくらいだ。
…非常識なプロポーズを受けてもらっただけで、ありがたい。
凛は…俺とは違うタイプの、明るくて裏表のない男とのほうが相性がいいかもしれない。
クールに見えて、実は人一倍優しくて傷つきやすい。
俺も傷だらけで、そんな凛を包み込めなかった。
だから…凛には。
凛だけは、幸せになってほしい。
「あ。こねすぎたか…?」
気づけば独特な匂いが充満したキッチン。…でも嫌ではない。
畳の青臭い匂いに妙に落ち着きを感じるのと同じ感覚。
リビングの窓を開けて…凛が残していった鉢植えに水をやるのも習慣になった。
どんな花が咲くんだろうな。
…はにかんだ笑顔が脳裏に浮かんだ。
「…川上…?」
寝る前にシャワーを浴びて、何気なく手にした携帯に、メッセージが来ていることに気付いた。
『文仁げんき?結菜だよ!寂しくしてるんだって〜?!ご飯でも食べに行こ♥』
賑やかなスタンプと絵文字だらけの文面…
川上結菜、と言われても、すぐに顔が思い浮かばない。
「あぁ…やたら女の子アピールのすごい子か」
凛が結婚披露パーティーに呼んでいた。
…同窓会にも確かにいた気がする。
『久しぶり。なかなか忙しい。時間が空いたらそのうち行こう」
…うまい文面を考えるのも面倒だ。
思いつくまま文字を打って確認もせず送信した。…少し冷たいかもしれないが、まぁいいか。
その後も何度か同じような誘いのメッセージをもらったが…新たなクライアント案件を受けたので、本当に時間がなくなった。
……気づけば、1ヶ月が過ぎていた。
「剣崎さん知ってます?このビルの1階、なんかお店が入りそうですよ?」
新卒のパラリーガル、竹尾が、ランチから戻って嬉しそうに言った。
「…へぇ…」
「嬉しくないです?!…カフェとかパン屋だったらいいなぁ…」
女子みたいなことを言うので、呆れて竹尾の顔をガン見しながら…俺は弁当屋だったらいいと思う。
「…ちょ、あんま見ないでくださいよ…剣崎さんに見られるとさすがにテレます!」
男のくせにキモいことを言う奴だ…
「木村さんの離婚訴訟の件です。
…ちょっと出ます」
所長にそう告げて、先輩女性弁護士の田倉さんと一緒に事務所を出た。
田倉さんはふくよかな体形が安心感を与える40代の先輩。
今回のような、夫からの暴力を理由に離婚したいという女性クライアントには、うってつけの弁護士だ。
でも家庭があって、1人では心もとないと、俺も一緒に担当することになった。
「あ!ここ…美容室になるんだ?!」
エレベーターを降りて、田倉さんが宝物を見つけたように言う。
竹尾が言っていた新しい店のことか。
事務所の入っているビルの1階。
今日はそこに、看板がかかっている。
「Lucy.HAIR.make…」
「ルーシー.ヘア.メイク…」読み上げながら、白地に黒い文字で書かれた手書きのような看板が、やけに洒落ている…と思っていた