「…ねぇっ!聞いてる?ほんっと文仁って、不思議な人だよね?」
あれから…懲りずに何度も連絡してきた結菜に、ついに食事に連れ出されてしまった。
いつでもいいし何時でもいい。
夜じゃなくてランチでもいい、休日でも朝ご飯でもいい…とまで言われたら、ご飯くらい付き合うか…と思うだろう。
「好きなんでしょ?植物…家庭菜園?あ、ガーデニングか」
別に、凛が置いていったプランターの花に水をやっているだけだが、言葉巧みにそんな情報を抜き取られ、勝手にガーデニングマニアにされてしまった。
否定するのも面倒で、あぁ…と力なく言う俺に、無邪気というより空気を読まない笑顔が、遠慮なく飛んでくる。
「じゃあ…明後日!約束だよ?迎えに行くからね?」
明後日は土曜日で休みだと言ったら、勝手にその日は郊外で開催される有名なバラの祭りに連れて行くという。
…もう、断る気力も失せた。
「土曜日とは言っても、少しやらなきゃいけないことこあるから…事務所のあるビルで待ち合わせな」
家を知られるのを、本能で避けたい気持ちが働いたからだ。
結菜は「了解!」と上機嫌になって、やっと長い夕飯から俺を解放する気になったらしい。
…やれやれだ…。
こういう強引なところは、凛には1ミリもなかった。だから、どうして2人が友達になったのか不思議に思う。
とりあえずその…バラの祭りとかいうものに一緒に行けば、その後はしばらくほっといてくれるだろう。
そして今度こそ、2度と誘いには乗らない。
…ちょっと一緒に夕飯を食べただけで、ここまでグイグイくる結菜には、正直うんざりしていた。
そして約束の土曜日。
休日の二度寝も許されず、ノロノロと起き出して、ベッド下のサンダルに足を突っ込む。
立ち上がると感じる痛みにわずかに顔をしかめながら、身支度を始めた。
…凛が出て行ってから、おそろいのスリッパは封印し、代わりに健康サンダルを履くようになった。
それは、おそろいで買ったのに、自分だけ履き続けて古びていくのを見るのが嫌だったから。
もうひとつ思った。
古くなって捨てるとき…凛が履いていたものを一緒に捨てられるか。
…答えはNOだ。
わりと早い段階で答えは出ている。
だから、箸も茶碗もマグカップも、すべて封印した。
おそろいはおそろいとして、今もちゃんとしまってある。
まさか俺みたいな男が、ペアのものに対してそんなことを恐れるなんて自分でも意外だ。
だがそこは、足裏を自然に指圧できるスリッパが欲しかったからだと、言い訳をする…。
…目覚めてすぐの、ちょっと痛い健康サンダルはなかなかいい。
結菜との約束の前に、やらなければいけない仕事があったのは本当だ。
とはいえ休日出勤だから、気張らない普段着で行くことにする。
車を走らせ、事務所の駐車場に乗り入れ、中の階段から事務所のある3階まで登る。
…その時、独特な香りが鼻をかすめたことに気づきはしたが、たいして気にもとめずに事務所に入り、パソコンを起動させた。
『そろそろ降りてきてよ!』
携帯がメッセージを受信して、10分くらい遅れて確認したのは、きっと結菜からだと思ったから。
…いつの間にか3時間もたっていたことに気付いた。
入ってきたときと逆のルートを辿り、事務所に鍵をかけ、階段を降りた。
使ったのは、表通りに出る階段。
…結菜を車に乗せるつもりはない。
もし万が一、事故にでも巻き込まれて、一生付きまとわれることにでもなったら…と思うからだ。
「…ドラマの見過ぎか仕事のしすぎだな」
実際に、交通事故絡みの案件もある。…思うのは、人生どこで何があるかわからないということ。
車に限ったことではないが、自分の運転するものに乗せる人を吟味したいと思うのは、俺が小心者だからなのか…
やがて階下に結菜が見えた。
なぜかプリプリ怒っている様子。
俺を見つけると、階段を駆け上がって来た。
…なんで怒る?…拗ねてるのか…?
意味がわからん。
俺は彼氏でもなんでもないが…
「もうっ…!約束忘れられたのかと思って、凛にマンションどこか聞こうと思っちゃった!」
凛の名前にわずかに心が跳ねる。
次の瞬間には…勝手に腕を巻き取られ、その胸に押し付けられていた。
…何を考えているんだか。
こういうあざとい真似は、俺を一番冷めさせるんだが。
ちょっと引いても離れないので、仕方なく腕を抱きしめられた状態で、階段を1段、2段と降りながら…
階段の向こうに人がいるのが見えた。
ポニーテールにした小柄な女性。
背中に大きく「Lucy」と書かれた白いオーバーサイズのTシャツを着ている。
車から荷物を出したその人が、俺たちの方を向いた。
「…凛…」
小さく名前を呼んだのが、聞こえたわけではないと思う。
ただそこに人がいるな…くらいの感覚で、目をやった先に…俺たちがいたんだろう。
「文仁…!結菜も…?」
そこでハッとした。
結菜に腕を取られていた。
…密着して、これじゃ何かあると思われても仕方ない。
さりげなく離れようとしたのに…結菜は指まで絡ませてくる。
「偶然だね…?どうしたの?配送の仕事でも始めた?」
結菜の言い方には棘があった。
その理由が自分だとしたら。
彼女が凛にどんな思いを抱くのか想像して、軽い気持ちで誘いに乗ったことを後悔した。
「…ううん。私の、新しい職場なの。今日はオーナーを手伝って引っ越しなんだ」
前に店名を読み上げた白い看板を指さしながら、凛は言う。
…凛の就職先は、俺の勤め先と同じビル…?
「…2人は、デート?」
凛の目線が足元に落ちた。
…その目は結菜に絡められた俺の手を見ている。
「…違う。バラの祭りとかいうやつに、これから連れて行かれるとこ」
言いながら、本気の力を出して、結菜にとらわれた片腕と指を救出した。
「…そっか。じゃ、気をつけてね」
ポニーテールを左右に揺らしながら、凛は作業に戻っていった。