「じゃあ俺…上のテナントに挨拶しに行って来るわ!」
「はい、よろしくお願いします」
ちょっとおどけて敬礼して、オーナーの残柄明人を見送った。
いつの間にか凛の横に、アシスタントの里田一樹も来ていて、同じように敬礼している。
「…私たちは、近隣にポスティングでもしに行こっか!」
「はい…!」と元気よく、素直に返事をしてくれた一樹は、22歳の好青年。
…私と同じ日に採用が決まったスタッフだ。
オープンが明日に迫った美容室Lucy。
すでにホームページを開設して、SNSのアカウントも作った。
オーナー自ら作ったチラシを持って、凛と一樹は店を出る。
「…そうなんですか?情報助かります〜!」
さっき出て行ったばかりのオーナーが、誰かと一緒に階段を降りてきて、店の前で鉢合わせた。
あ…っと思ったものの、どう声をかけたらいいか迷って、立ち止まる。
「あとね…コンビニは角を曲がったとこにある店が、一番混まない!」
へぇ…と声を上げるオーナーが、凛と一樹に気付いた。
「酒井所長、この2人、うちのスタッフで…凛と一樹って言います。今後とも、よろしくお願いします!」
とっさに頭を下げながら…酒井所長を私は知っている。
…元夫の上司。
結婚披露パーティーに来てくれて、お祝いの言葉とご祝儀をもらった。
昨日は驚いた。
残柄オーナーの車で荷物を運んできたビルが、文仁の勤める弁護士事務所と同じビルだったから…
結菜と一緒にいたから…その話はできなかったけど、文仁はどう思っただろう。
離婚した元妻が、同じビルの1階に勤めているなんて。
頭を下げる凛を見ても、酒井所長は気づかないのか…表情が変わらない。
…忘れられたかもしれない。
とは言っても…あとで改めて挨拶に行かなくては。
その辺の事情も、まだ残柄オーナーにも伝えてない。
とりあえず、今はこのままポスティングに行くのが正解だと、凛は一樹と一緒に住宅街へ向かった。
「凛、上と…わけありなんだって?」
酒井所長に教えてもらった、美味しいと噂のキッチンカーに出向いたという残柄オーナー。
麻婆丼とハンバーグ丼、そして唐揚げ丼を買ってきたらしく、私たちに差し出した。
「わっ!マジですかぁ…?俺、唐揚げがこの世で一番好きなんっス!」
一樹が迷いなく唐揚げ丼を持っていったので…凛はさりげなくオーナーを盗み見た。
その途端目が合って…ちょっと悪そうな笑顔を向けられて困る。
「…わけありっていうか…元夫が3階の弁護士事務所に勤めてて…」
「ええっ?!凜さんって、バツついてんっすか?」
オーナーに「…言い方」と、軽く咎められ、私に手を合わせる一樹。
「いやいや。本当にバツイチだし、全然いいよ」
…オーナーは表情が変わらない。
イチかバチか…ハンバーグ丼を選んでみる。
…表情に変化無し。
…よしよしよし。
「俺が不安なのはね、凛が働きにくくならないかってことなの」
残った麻婆丼を引き寄せながら、オーナーが言う。
「せっかく選び抜いて来てもらったスタイリストだしさ?…それに」
「それに?…」
「相手が好む方を選ばせてあげようとする気遣いができる子…好きなんだよねぇ…」
やり取りを聞いていた一樹が、本気で驚いたように言う。
「…おおっと…?!これは、恋の始まりか?Lucyは…夫婦で営む美容室に変貌を遂げるのか…?」
早速茶化す一樹を軽くいなすオーナー。
「そんな風になったら…一樹、邪魔者かもなぁ…」
ブルーアッシュの色味が強いショートの髪を、かきあげながら笑う残柄オーナー。
度の入っていないメガネを外し、隣でのけぞる金髪をクシャっと撫でた。
「…とりあえず、メガネは封印しようっと。…剣崎さんと被るから」
元旦那さんに挨拶されたよ…と言う残柄オーナー。
連絡はしておいたけど…そんな気遣いをしてくれた文仁に、感謝と申し訳なさの両方の感情を持つ。
離婚してすぐの就職活動で、凛はうっかり剣崎姓で履歴書を作って面接に挑んでしまった。
採用されてから間違いに気づいて、旧姓の仁科で名刺を作ってもらったものの…そんなわけで凛が剣崎姓だったのを、オーナーは知っているのだ。
ひと通りのオープン準備が済み、早めに解散になった。
一樹は風のように店を飛び出していき、凛は時計を確認しながらオーナーに言った。
「私も…元夫の事務所に挨拶に行ってきます。酒井所長、いらっしゃるみたいなので」
ランチを食べ終わって、文仁にメッセージをしておいた。
残柄オーナーが挨拶に行って、その後すぐに酒井所長と顔を合わせたこと。
『オーナーさん、人当たりのいい明るい感じで、うちの所長に似てるかもな』
すぐに返事が来て助かった。
改めて私からも挨拶に行くと伝えると、酒井所長の予定を教えてくれた。
「そっか。じゃあ…明日から改めてよろしくね」
残柄オーナーに見送られ、凛は3階のエスケー法律事務所のドアを叩いた。
「…悪いな。ちょっとクライアントとの話が長引いててさ」
出直そうと思ったが、文仁が大きく扉を開けて、中で待つよう言ってくれた。
…冷たい飲み物が出され…ちょっと驚いた。
何でもやってもらうのが当たり前、という夫ではなかったものの、文仁は食事の支度はもちろん、お茶を淹れるのも下手だったから。
味…ではなく、そこら中を水浸しにしたり、コーヒーのカスをばらまいたり。
文仁がキッチンに立つことは、ほとんどなかった。
ありがとうを言いながら、思わず給湯室あたりを探してしまう。
ちゃんと後始末をしたのか気になって…
「…それにしても、驚いたな?」
凛の脇に立って、話しかけてくる文仁。
「うん。まさか同じビルだなんて…」
ビル…とは言っても5階建てで、入っているテナントは5軒。
都内で人気の場所にしては、こじんまりしたビルだった。
「新しくオープンするお店に決まって良かったんだけど、場所をハッキリ聞いてなくて…」
「そうか。…でもこのビル、飲み屋とか入ってないから、いいと思うよ」
その言い方が柔らかくて…少しだけホッとした。
淹れてもらったお茶を飲みながら、ふと、結菜と腕を絡ませていた文仁の姿を思い出した。
まさに、ロックオンされてたな。
もう陥落したのか…そうではないのか。
私には関係ない事とはいえ…まだ離婚して2ヶ月にもならないのに、文仁は切り替えが早いと思った。
「言っとくけど、結菜とは何でもないよ?」
「え?…」
頭の中を読まれたようで、焦って文仁を見上げた。
「何度も誘われて仕方なく飯に行ったら、バラ祭りってやつに引っ張り出されただけ。ひたすら疲れたね。…2度と2人で会うことはない」
そうなんだ…と言いながら、ホッとしている自分を感じる。
「凛は?…美容室の残柄オーナー、王道をいくイケメンじゃん」
「それ…あなたが言わない方がいいよ。嫌味だと思われるから」
「…なんで?」
…文仁は昔からそう。
甲斐や、よくいるイケメンと違って、自分の容姿に関心がない。
だから、どれほど女性に熱い視線を送られているのか、わかってないのだ。
結菜のことにしてもそう。
しつこく食事に誘う意味が、本当にご飯だけのはずないのに…。
「お待たせしました!凛ちゃん、久しぶりだね?」
そこへ、クライアントと一緒に酒井所長が個室から出てきた。
「…わざわざ挨拶にきてもらって…気を使わせちゃったね?」
「いえ…この度は私からの挨拶が遅れてしまって…申し訳ありませんでした。…不思議なご縁で職場が近くなりまして…改めて、よろしくお願いします」
ペコリ頭を下げる凛に、酒井所長が豪快に笑った。
「いいよ!…それより、離婚したのにまたこんな近くなっちゃって…ホントは凛ちゃん、どう思ってるの?」
明るくさっぱり…そしてズバっと質問されて、私は逃げ場のない袋小路に追い詰められた気持ちになった。
「…いえ特に…感想はないといいますか…別に拗れて別れたわけでありませんので…職場が近くても、何ら問題はありません…よ?」
たどたどしく言葉をつなげる凛。ふぅん…と言って、背中をソファに預けた酒井所長の視線は、何となく不安になる…。
「じゃあ…これからも仲良くしようよ!1階と3階なんだからさ!」
所長は早速、明日のオープンに合わせ、カットの予約を入れてくれた。