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第9話 近すぎる距離

「じゃあ俺…上のテナントに挨拶しに行って来るわ!」


「はい、よろしくお願いします」


ちょっとおどけて敬礼して、オーナーの残柄明人を見送った。


いつの間にか凛の横に、アシスタントの里田一樹も来ていて、同じように敬礼している。


「…私たちは、近隣にポスティングでもしに行こっか!」


「はい…!」と元気よく、素直に返事をしてくれた一樹は、22歳の好青年。


…私と同じ日に採用が決まったスタッフだ。


オープンが明日に迫った美容室Lucy。


すでにホームページを開設して、SNSのアカウントも作った。


オーナー自ら作ったチラシを持って、凛と一樹は店を出る。





「…そうなんですか?情報助かります〜!」


さっき出て行ったばかりのオーナーが、誰かと一緒に階段を降りてきて、店の前で鉢合わせた。


あ…っと思ったものの、どう声をかけたらいいか迷って、立ち止まる。



「あとね…コンビニは角を曲がったとこにある店が、一番混まない!」


へぇ…と声を上げるオーナーが、凛と一樹に気付いた。


「酒井所長、この2人、うちのスタッフで…凛と一樹って言います。今後とも、よろしくお願いします!」


とっさに頭を下げながら…酒井所長を私は知っている。


…元夫の上司。

結婚披露パーティーに来てくれて、お祝いの言葉とご祝儀をもらった。



昨日は驚いた。


残柄オーナーの車で荷物を運んできたビルが、文仁の勤める弁護士事務所と同じビルだったから…


結菜と一緒にいたから…その話はできなかったけど、文仁はどう思っただろう。


離婚した元妻が、同じビルの1階に勤めているなんて。






頭を下げる凛を見ても、酒井所長は気づかないのか…表情が変わらない。


…忘れられたかもしれない。

とは言っても…あとで改めて挨拶に行かなくては。


その辺の事情も、まだ残柄オーナーにも伝えてない。


とりあえず、今はこのままポスティングに行くのが正解だと、凛は一樹と一緒に住宅街へ向かった。




「凛、上と…わけありなんだって?」


酒井所長に教えてもらった、美味しいと噂のキッチンカーに出向いたという残柄オーナー。


麻婆丼とハンバーグ丼、そして唐揚げ丼を買ってきたらしく、私たちに差し出した。



「わっ!マジですかぁ…?俺、唐揚げがこの世で一番好きなんっス!」


一樹が迷いなく唐揚げ丼を持っていったので…凛はさりげなくオーナーを盗み見た。


その途端目が合って…ちょっと悪そうな笑顔を向けられて困る。


「…わけありっていうか…元夫が3階の弁護士事務所に勤めてて…」


「ええっ?!凜さんって、バツついてんっすか?」


オーナーに「…言い方」と、軽く咎められ、私に手を合わせる一樹。


「いやいや。本当にバツイチだし、全然いいよ」



…オーナーは表情が変わらない。

イチかバチか…ハンバーグ丼を選んでみる。


…表情に変化無し。

…よしよしよし。



「俺が不安なのはね、凛が働きにくくならないかってことなの」


残った麻婆丼を引き寄せながら、オーナーが言う。


「せっかく選び抜いて来てもらったスタイリストだしさ?…それに」


「それに?…」


「相手が好む方を選ばせてあげようとする気遣いができる子…好きなんだよねぇ…」


やり取りを聞いていた一樹が、本気で驚いたように言う。


「…おおっと…?!これは、恋の始まりか?Lucyは…夫婦で営む美容室に変貌を遂げるのか…?」


早速茶化す一樹を軽くいなすオーナー。


「そんな風になったら…一樹、邪魔者かもなぁ…」


ブルーアッシュの色味が強いショートの髪を、かきあげながら笑う残柄オーナー。


度の入っていないメガネを外し、隣でのけぞる金髪をクシャっと撫でた。


「…とりあえず、メガネは封印しようっと。…剣崎さんと被るから」


元旦那さんに挨拶されたよ…と言う残柄オーナー。


連絡はしておいたけど…そんな気遣いをしてくれた文仁に、感謝と申し訳なさの両方の感情を持つ。


離婚してすぐの就職活動で、凛はうっかり剣崎姓で履歴書を作って面接に挑んでしまった。


採用されてから間違いに気づいて、旧姓の仁科で名刺を作ってもらったものの…そんなわけで凛が剣崎姓だったのを、オーナーは知っているのだ。




ひと通りのオープン準備が済み、早めに解散になった。

一樹は風のように店を飛び出していき、凛は時計を確認しながらオーナーに言った。


「私も…元夫の事務所に挨拶に行ってきます。酒井所長、いらっしゃるみたいなので」


ランチを食べ終わって、文仁にメッセージをしておいた。


残柄オーナーが挨拶に行って、その後すぐに酒井所長と顔を合わせたこと。


『オーナーさん、人当たりのいい明るい感じで、うちの所長に似てるかもな』


すぐに返事が来て助かった。

改めて私からも挨拶に行くと伝えると、酒井所長の予定を教えてくれた。




「そっか。じゃあ…明日から改めてよろしくね」


残柄オーナーに見送られ、凛は3階のエスケー法律事務所のドアを叩いた。




「…悪いな。ちょっとクライアントとの話が長引いててさ」


出直そうと思ったが、文仁が大きく扉を開けて、中で待つよう言ってくれた。


…冷たい飲み物が出され…ちょっと驚いた。


何でもやってもらうのが当たり前、という夫ではなかったものの、文仁は食事の支度はもちろん、お茶を淹れるのも下手だったから。


味…ではなく、そこら中を水浸しにしたり、コーヒーのカスをばらまいたり。


文仁がキッチンに立つことは、ほとんどなかった。


ありがとうを言いながら、思わず給湯室あたりを探してしまう。

ちゃんと後始末をしたのか気になって…



「…それにしても、驚いたな?」


凛の脇に立って、話しかけてくる文仁。


「うん。まさか同じビルだなんて…」


ビル…とは言っても5階建てで、入っているテナントは5軒。

都内で人気の場所にしては、こじんまりしたビルだった。


「新しくオープンするお店に決まって良かったんだけど、場所をハッキリ聞いてなくて…」


「そうか。…でもこのビル、飲み屋とか入ってないから、いいと思うよ」


その言い方が柔らかくて…少しだけホッとした。


淹れてもらったお茶を飲みながら、ふと、結菜と腕を絡ませていた文仁の姿を思い出した。


まさに、ロックオンされてたな。


もう陥落したのか…そうではないのか。


私には関係ない事とはいえ…まだ離婚して2ヶ月にもならないのに、文仁は切り替えが早いと思った。



「言っとくけど、結菜とは何でもないよ?」


「え?…」


頭の中を読まれたようで、焦って文仁を見上げた。


「何度も誘われて仕方なく飯に行ったら、バラ祭りってやつに引っ張り出されただけ。ひたすら疲れたね。…2度と2人で会うことはない」


そうなんだ…と言いながら、ホッとしている自分を感じる。



「凛は?…美容室の残柄オーナー、王道をいくイケメンじゃん」


「それ…あなたが言わない方がいいよ。嫌味だと思われるから」


「…なんで?」


…文仁は昔からそう。

甲斐や、よくいるイケメンと違って、自分の容姿に関心がない。

だから、どれほど女性に熱い視線を送られているのか、わかってないのだ。


結菜のことにしてもそう。

しつこく食事に誘う意味が、本当にご飯だけのはずないのに…。




「お待たせしました!凛ちゃん、久しぶりだね?」


そこへ、クライアントと一緒に酒井所長が個室から出てきた。


「…わざわざ挨拶にきてもらって…気を使わせちゃったね?」


「いえ…この度は私からの挨拶が遅れてしまって…申し訳ありませんでした。…不思議なご縁で職場が近くなりまして…改めて、よろしくお願いします」


ペコリ頭を下げる凛に、酒井所長が豪快に笑った。


「いいよ!…それより、離婚したのにまたこんな近くなっちゃって…ホントは凛ちゃん、どう思ってるの?」


明るくさっぱり…そしてズバっと質問されて、私は逃げ場のない袋小路に追い詰められた気持ちになった。


「…いえ特に…感想はないといいますか…別に拗れて別れたわけでありませんので…職場が近くても、何ら問題はありません…よ?」


たどたどしく言葉をつなげる凛。ふぅん…と言って、背中をソファに預けた酒井所長の視線は、何となく不安になる…。


「じゃあ…これからも仲良くしようよ!1階と3階なんだからさ!」


所長は早速、明日のオープンに合わせ、カットの予約を入れてくれた。


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