「すごいね。大盛況じゃない!」
「ありがとうごさいます。今日は…残柄オーナーのご友人も多くて」
翌日、本当に来てくれた酒井所長。
しかもオープンの11時ぴったりだ。
「…どうも酒井所長…!お花までいただいて、ありがとうございます」
友人の対応をしていたオーナーが挨拶にきた。
…この流れだと、カットは私が担当するのかしら。
まさか…久しぶりの仕事としてのカットが知り合いとは。
微妙な立場も相まって、少しだけ緊張感が増す。
「…どんな感じに切りますか?」
毛流れを見ながら、希望を聞いていく。
それは髪質的に叶えられそうか難しいか、パーマやカラーが必要なのか…少しずつ目の前の髪にのめり込んでいく感覚が、凛は好きだった。
「…若い感じにしてよ」
酒井所長のオーダーはたったひとこと。凛はタブレットを操って、どんなスタイルを「若い」と感じるのか探っていく。
「…剣崎みたいな感じ?」
これは腕前を試されているのか…
差し出したヘアスタイルの画像をろくに見ずに、鏡の中の酒井所長は、笑って凛を見ている。
「剣崎は、とてもオーソドックスなスタイルなんです。髪質的にも、緩やかなクセがあるので少し伸びても毛先が馴染んで…」
「フツメンが剣崎を真似ても、同じにはならないよなぁ…あいつはどんなふうにしてもバッチリ決まるだろうしな?!」
そうですね…と言いそうになって、グッと言葉を飲み込んだ。
その上で、改めて酒井所長に似合うヘアスタイルを提案していく。
「髪が細いので、刈り上げて短くするのがおすすめです。ソフトモヒカン風に切ってセットすれば…」
酒井所長は笑顔で笑って、提案にうなずいてくれた。
薄毛対策をしたい…という要望で、ヘッドスパもメニューに加え、かれこれ2時間近く施術に時間を取られた。
今日は時間があるのだろうか…
最後の仕上げで肩を揉んでいるとき、文仁が迎えに来た。
「所長…カットだけじゃないんですか?」
ちょっと凛に目配せをして、目を閉じる酒井所長に声を掛ける文仁。
「あー…なんか約束あったっけ?」
「…クライアントがお待ちです。…もう15分も…!」
「剣崎くんが話聞いてくれてもいいんだけどなぁ…あの奥様、剣崎くんの顔ばっかり見てるよ?」
「そんなことないですよ…」
ものすごくモテるのに…文仁は昔から、好意を寄せる女性に塩対応だ。
2人のやり取りを聞きながら、凛は手早くヘアスタイルを整え、文仁に引き渡す。
「夕方、剣崎くんも来るといいよ。…予約入れてくれる?」
はい…と言いながら、文仁を見上げる。
…結婚している時は、バスルームや玄関が、即席の美容室だった。
確かに伸びてはいるけれど…
「じゃあ、お願いします。君を、指名していい?」
なぜかドキっとする。
…そうか。お客様としてカットするのは初めてだからだ。
「どうせならヘッドスパもしてもらいなよ」
酒井所長のひとことでメニューが決まる。
…何となく、心もとない気持ちになった。
2人が店を出る時に、また残柄オーナーが挨拶に来て、一緒に見送った。
「夕方、剣崎さんのご予約いただきました。カットとヘッドスパです」
「…そうなの?じゃあ…俺が入ろうかな」
「あ…一応、ご指名いただきまして」
「ふぅん…」
不穏な空気は一瞬だけ。
ぱっと笑顔に切り替わり、「それじゃ…よろしく頼むよ!」と肩を叩いて、お客様のところへ戻って行った。
Lucyは、セット面が5面、半個室のカウンセリングルームに、受付と、シャンプー、ヘッドスパを行うブースがある。
受付のソファは開放感にこだわり、シャンプーやヘッドスパを行うブースは、少し照明を落としてリラックスしてもらえるよう配慮している。
「疲れや、心の凝りを置いて帰ってもらえるような」
…美容室にしたいと、残柄オーナーは話していた。
酒井所長は、まさにその通りになっていただけたと思う。
…次は文仁。
今までは、鏡がないから、よく見えないから…と言って完璧を諦めていたけど、今日はそうはいかない。
そして本音を言うと、とても緊張していた。
これは…明らかに文仁に触れる緊張だ。
「いらっしゃいませ!剣崎さまっ!」
陽が傾いた頃、一樹の元気な声が、文仁を迎えた。
上着を脱いで、ワイシャツ姿の文仁が、小走りに近づく凛に気づいた。
一樹と同じように「いらっしゃいませ…」と頭を下げ、すぐにカウンセリングルームに案内した。
「今日は…どんな感じに、」
「ちょっと、やめてくれる?」
先に笑い出したのは文仁。
メガネケースに細い黒フレームのメガネを置いた。
「だって…仕事なんだもん」
なぜだか顔に熱が集まる。
…顔だけじゃない、全身が熱い。
「ほっぺ赤いよ…?」
「わかってる…いちいち言わないで…!」
屈託のない笑顔。…こんな笑顔を見るのは久しぶりだ。
忙しそうで…書斎にこもって…寝るのも別になって。
今ならどうしてそんな風になったのか、聞ける気がした。
「短くして。…寝起きにワックスつけて後ろにやるから…って、知ってるよな?」
うん…と頷く。
説明されなくても、文仁の朝のスタイリングのやり方は知ってる。…使ってるシャンプーも、髪のクセも好みも…全部知ってる。
「…話が早くて助かります」
「じゃあ…スタイルチェンジなしで、カットしていきましょう」
カウンセリングルームからシャンプーブースに案内して、一樹がヘッドスパのお客さまを担当していることに気づいた。
…シャンプーも自分でやるようだ。
さっきから妙にドキドキがおさまらない胸元のあたりで手を組んだ。
少し落ち着きたくて…文仁から離れたかった。
…こんなこと、初めてだ。
凛は文仁を椅子に座らせ、頭を支えながら、自動でシャンプー椅子を倒す。
バックシャンプーなら、横になる姿勢にならずともシャンプーができる。
スペースも取られず、多く出回っているが、Lucyでは、従来の仰向けに寝てもらうタイプのシャンプー台を採用していた。
理由は簡単。
その方がリラックスできるから、という、残柄オーナーの考えだ。
シャンプー椅子が倒れるのと比例して、文仁の目を閉じた顔面が目の前に現れる。
…一緒に暮らしてたけど、この角度で彼を見るのは初めて。
首は痛くないか、背中は痛くないか…一連の確認をするのもテレる。
そのたびに文仁は小さく「…ん」と答えた。
ドキドキは、まだ止まらない。
閉じた目の際に、長い睫毛が影を作って、薄めの唇が自然に閉じられている。
私の夫は、こんなに美しい人だったと、改めて思い知らされた気がした。
「手は、大丈夫なの?」
カットをしている最中、急に話しかけてくる文仁。
「痛いって言ってたじゃん、前に。仕事のしすぎだって…」
目を閉じたまま言葉を紡ぐ。
凛は思わずカットの手を止め、その顔をしっかり見つめながら答える。
「…雨の日は、まだ痛いよ?」
語尾が…甘い感じになったかもしれない。
そんなつもりはなかった。
心配させる気も、媚びる気も。
どう聞こえたか心配で、ジッと文仁の閉じた瞳を見つめた。
「…この近くに、いい整形外科があるから…」
ゆっくり開く瞳。
…ゆっくりそらす私。
「行ってみな。…少しくらい、抜け出せるだろ?」
…それは交渉次第だけど。
そうだね、と言って、凛はハサミを握り直した。