細かい髪をもう一度シャンプー台で流して…そのままヘッドスパに入る。
Lucyでは、ヘッドマッサージをシャンプー台で、首と肩と背中のマッサージを別のリラックスチェアで行っていた。
「痛かったら…言ってください」
「痛い…」
「…なんで…?まだ何もしてない…!」
からかってくるのは、リラックスしている証拠。
一緒に暮らしている時も、そうだった。
決まって週末。
普段は飲まないビールやワインを買ってきて、2人で飲みながらサブスクで映画を観た…
男の人にしては、小さな頭。
そして綺麗な肌。
ゆっくり手を動かしながら、週末の夜を思い出す…
近づいてくるのは、リラックスしたそんな時が多かった。
飲み物をテレビの前のガラステーブルに移動して、初めから明かりを消して観る時もあれば、消さない時もあって…
消す時は…序盤で頬に口づけられた。大事な場面を見逃したくなくて「ちょっと待って…」なんて言えば、意地悪するみたいに耳にキスをするから…何も聞こえなくなったっけ…
「…気持い」
急に言われて驚いた…
思い出していた場面とあまりにリンクしてて焦る…
ヘッドマッサージを終えて、リラックスチェアに座ってもらう。
これは前に倒れると、柔らかいクッションが支えてくれるという、特注の椅子。
首と肩、背骨に沿って指圧していく…
さっき思い出したことを、頭から追い出して、文仁の疲れを置いて行ってもらうことに集中する。
それでも意識してしまう。
広い背中、肩の筋肉…
「…腕、やってくれない?」
「あぁ、そうだね。パソコン作業で凝るって言ってたよね」
両手で、肩から腕に揉み下ろす。
肘で止めるのが普通だけど、文仁にはいつも、肘下から手首まで揉んであげていた。
最後に親指で手のひらをマッサージして、もう一度肩に戻って…終わりだ。
「ヘッドスパ、控えめに言ってサイコーだな。週イチで頼みたくなる」
「…アハハ、ぜひ!」
カード決済した文仁。
一瞬の間を置いて、ふと視線を上げた。
「マッサージさ…やり方を少し教えてもらえない?」
…夕食の誘いだった。
「うん…いいけど」
離婚した夫婦にしては、初々しいやり取り。凛の頬は再び熱を持つ。
「終わる頃、そこで待ってる」
すぐ近くにあるカフェを指差し…店を出ていく文仁を、凛は頭を下げて見送った。
お店はそのまま静かに閉店の時間を迎え、凛は支度を済ませてから、約束のカフェに急いだ。
離婚した夫と食事をするだけなのに、桜色のリップを塗り直す自分は、まだ文仁のことが好きなんだろうか。
職場がこんなに近くなければ、とっくに付き合いはなくなってた。
連絡だって、取り合ってなかった。
そしたら、離婚という選択をした自分に、疑問を投げかけることはなかったと思う。
…どうして神様はこんなに、私を試すようなことをするんだろう。
約束のカフェの手前で、広がる藍色の空を見上げながら思った。
心…乱されませんように。
「…凛!」
カフェに入る寸前だった。
呼びかけられて振り向くと、そこには…
「…オーナー…?」
残柄はバイク通勤で、ヘルメットを外しながら言った。
「人身事故だろ?今電車止まってる」
「そうなんですか?」
「…なに、違うの?」
電車が動かないから時間潰しのカフェだと思われたらしい。
…時間を潰すなら、きっとカフェに来ることはない。
まだ、よく知らない土地。
あちこち歩き回って、裏の路地とか隠れ家みたいな店を探すと思う。
「ちょっと…待ち合わせで」
「そうなのか!…じゃあ、俺も混ぜて!」
「え…?!」
残柄オーナー、素早くバイクを駐車場に置くと、あっという間に私の横に並んで入り口のドアを開けてしまった。
遠慮というものを知らないのか…
ドアからすぐに見える場所に座った文仁。
外でのやりとりを、窓越しに見ていたのかもしれない。…全然驚いた顔をしない。
「…え?えっ?凛が約束した人って、剣崎さん?」
悪いことをして、大人に見つかったような気持ちになる。
えぇっ…?!としつこく驚くオーナーに、文仁がちょっと苛ついた笑顔を見せた。
「いいじゃないですか、別に。俺たちは円満な離婚をしたので、食事にも行けば飲みにだって行きますよ?なんなら旅行だって行こうと思えば行けます。楽しませる自信だって…」
「文仁…いいから!」
弁護士という職業柄なのか、文仁は突然饒舌になる事がある。
どんな場面でも、相手の隙を見つけてスラスラとしゃべれないと、仕事にならないのかもしれない。
僅かな可能性を頼りに裁判で争うこともあるだろう。
そんな時、勝つ道を探り、依頼者にとっての最善を得るために、それくらい当然備えておくべきスキルなのかもしれない。
…それにしてもだ。
「旅行って…!?一緒に行ってくれるんですか?もしかしてセックスも?知らない仲じゃないから、そうなるのに抵抗はないかもですよねぇ」
「…オーナーもっ!」
いい加減に話が飛躍し過ぎだと、まくし立てようとしたのに、あっさり店を変えようと言い出す文仁。
ちゃっかり、そして自然についてくるオーナー…
文仁が連れて行ってくれたのは、魚が美味いという、和食屋だった。
「…うわぁ…煮魚だって!きんぴら、肉じゃがも!アジの南蛮漬けも食べたいなぁ」
舞い上がる残柄に、勝ち誇った笑みを浮かべる文仁。
3人で囲む、不思議な夕食会が始まった。
「残柄さんも、バツイチですか」
和食をかき込む彼に、文仁は突然切り込んで見せる。
「そうです。…えぇ?!なんでバレちゃったんだろう…?」
不思議〜と言いながら、かぼちゃのそぼろ煮を、白いご飯と共にわしわしと食べていく。
確か年齢は35歳のはずだけど、嬉しそうにご飯を食べる姿は高校生にさえ見える。
文仁は冷酒を飲みながら刺身を、私も煮魚と白和えを頼んで、ビールを飲んでいた。
「なんかさぁ…普通に夫婦だよね。…じゃなくて、恋人って感じかなぁ」
1人だけお酒を飲んでいないのに、一番飲んでいる人のように、残柄は、遠慮のない言葉を投げてきた。
「しっくり合ってる感じなのに、なんで別れちゃったの?」
凛ではなく、文仁に問いかける。
「…最後通告を突きつけられたからですよ」
「最後通告って…ずいぶん穏やかじゃないですね?」
「何度か匂わせていただろうに、気づけなかった。…言葉にされたら、受け入れるしかないでしょう」
首を傾げながら「女…ですか?それとも、博打?酒?」と、文仁に意味深に聞いた。
「はぁ?…一応弁護士なので、そういった類いはやらないですよ」
そうなんだぁ…と言って、オーナーは店の人に、熱いお茶を頼んだ。
「俺は…女です。嫁もいい女だったけど、彼女もいい子で。…選べなかった。ズルズルして、隠れて…気づいたら3年も、彼女の人生溶かしてました」
…溶かしたのは、奥さんの時間も人生も同じだと思う。
どっちつかずで、のらりくらりとして…突き放せない女性たちは、大事な人生という時間をズルい男に費やしてしまう。
ふと、郁のことを思った。
恋人のクマは、残柄と同じタイプの男。
逆に文仁は、離婚の話をすぐに受け入れた。それは、2人とまったく違うタイプだったということか。
「なんか不思議。俺みたいな男じゃ、離婚されても仕方ないけど、なんで剣崎さんが?…疑問だよねぇ」
文仁は冷酒を、凛はビールを飲んで、その疑問には答えなかった。