残柄オーナーは、空腹が満たされると眠くなる…と、子供みたいなことを言って先に帰った。
凛と文仁も、シメのお茶漬けを食べて、店を出る。
「結局マッサージの仕方、教えられなかった…!」
苦笑いをしてみせる凛。
店を出て、儚く光る星を浮かべた藍色の空を仰いだ。
「うちに来て教えてくれない?帰りはタクシー呼ぶから」
酒を飲んでいたから言えたこと。
文仁はそう思った。
「うん…いいよ」
さっき残柄オーナーが言っていた「元夫婦ならセックスまで簡単」と言っていた事を気にしてるのがわかる。
それは、する…のではなくて、自分たちにそんな事は起こらないと、立証したいと思っているように感じた。
「…やだ、健康サンダル…?」
「なかなかいいよ、これ。おすすめ」
あの日置いていかれたスリッパの片割れ。
足元に差し出され、凛が意外そうな顔をしたのを、文仁は見逃さなかった。
部屋着に着替えて、早速レクチャーを受けた。
「…まずは頭からね」
言いながら、凛が大きなバッグからいきなり生首を出したので一瞬肝を冷やす。
「不自然なバッグだと思ったら…そんなもの隠してたのか…」
美容師の練習用ウィッグというもの。
…笑ってしまった。
どれだけ真剣に教えるつもりだったんだ。
食事しながら、これを出して教える気だったのか?
「だって…せっかくだから、ちゃんと覚えて疲れをとって欲しかったんだもん」
笑う文仁に、口を尖らす凛。
ここに来て教える気があったとしたら。文仁は、そんな仮説を浮かべて…取り消した。
生首には、主に頭のツボと効能について教わり、次は肩と首。
これは実際に押しながらツボを覚えた。
「腕は自分で一番やりやすいから!でも…右をやると左が疲れて、左をやると、右が疲れるから、終われなくなるんだよね!」
クスクス笑う凛。
小さな手なのに、的確なツボを押すので、意外なほど効く。
…夕方店でやってもらったヘッドスパと同じだ。
「じゃ、私がモデルになるから、マッサージしてみて。ツボが違ってたら痛いだけだから、わかると思う」
少しだけ迷ってうなずいたのは…
ヘッドマッサージは問題なくツボを押せたようだ。
次に肩…そして首、と続くところだが…
「あ、ごめん…ちょっと酒井所長から電話が入ってたみたいだ」
長くなるといけないから…と、レクチャーの終わりを伝え、凛のためにタクシーを呼ぶ。
エントランスまで送り、運転手に聞こえるように、着いたら連絡するよう言ってドアを閉めた。
走り去るタクシーを見送りながら…
思わず口元を手で押さえた。
…酒井所長からの電話なんて、嘘だ。
不意に、2人で密室にいることに、耐えられなくなった。
マッサージを教えてもらっていただけなのに、近い距離と僅かな触れ合いは、俺に冷静さを失わせた。
玄関のドアに鍵をかけ、チェーンもかけて、ピンク色のスリッパがきちんと揃えて置いてあるのを見て…耐えられなくなった。
凛…
スラックスを脱いで、下着の中に手をやる。
こんな性急な気持は初めてだ。
俺は…今でも凛を愛している。
プロポーズしたとき、こんな気持ちはなかった。
俺を愛さない冷たい目がちょうど良かった。
それなのに、少しずつ色を乗せ始めた瞳は美しくて…
体を合わせても、それは欲求への割り切った処理になるはず…なのに、凛には触れたいと思った。
独特の曲線を描く体の線が、男を惑わす目つきが…汚らわしいと思っていた俺に、そんなことあり得ない
のに。
凛だけは…他の女とは違った。
結婚して、自分から求めたあの夜を思う。
愛しい想いが体と連動して反応し、切ない想いを誰かに抱くなんて。
だとしても、今さら…だ。
俺は凛を、手放してしまった。
脱力した体を引きずるようにしてシャワーを浴び、…携帯がメッセージの着信を知らせていることに気づく。
きっと凛だと思いながら手に取ると…
「は…?まだ諦めてないのか…」
…結菜からのメッセージだった。
返信を返すつもりはなかったが、甲斐、という文字が見え、メッセージを開く。
『あれから、どうしてるかな…って思ってます。ちょっと甲斐くんに連絡したら、しばらく文仁に会ってないって言ってて、3人で飲みに行こうって話になりました!週末、予定はどうかな?』
甲斐…。
高校を出てから少し疎遠にはなったが、凛との結婚を一番に報告したのは甲斐だった。
3人…というのが気に入らないが…
そこへ、今度こそ凛からメッセージが入る。
無事に家に着いたと。
そういえば聞いていなかったが…凛は就職して、一人暮らしを始めたのだろうか。
生活費として渡していた残金を、律儀に1円単位で返してきた事を思い出す。
妻としての凛も慎ましく、決して無駄遣いをしない人だった。
そうだ…凛も誘ってみるか。
離婚したとしても円満であること、高校時代の友達として、何ら変わらない付き合いをしていくこと。
そんな話を2人揃ってしておくのはいいかもしれない。
「結菜から連絡が来て、週末甲斐を誘って飲もうって言うんだけど、凛も来ない?」
送信してから気づいた。
凛の仕事は週末が忙しいのではないかと。
「うん、行くよ。ついでに香澄も誘っていいかな?結菜と甲斐には私から連絡しておくね」
来るという返信にホッと胸をなで下ろす。
同時に…自分は離婚した妻への思いを募らせて、拗らせていくのだろうかと、少しだけ不安になった。