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第12話 騒ぐ心

残柄オーナーは、空腹が満たされると眠くなる…と、子供みたいなことを言って先に帰った。


凛と文仁も、シメのお茶漬けを食べて、店を出る。


「結局マッサージの仕方、教えられなかった…!」


苦笑いをしてみせる凛。

店を出て、儚く光る星を浮かべた藍色の空を仰いだ。


「うちに来て教えてくれない?帰りはタクシー呼ぶから」


酒を飲んでいたから言えたこと。

文仁はそう思った。


「うん…いいよ」


さっき残柄オーナーが言っていた「元夫婦ならセックスまで簡単」と言っていた事を気にしてるのがわかる。


それは、する…のではなくて、自分たちにそんな事は起こらないと、立証したいと思っているように感じた。





「…やだ、健康サンダル…?」


「なかなかいいよ、これ。おすすめ」


あの日置いていかれたスリッパの片割れ。

足元に差し出され、凛が意外そうな顔をしたのを、文仁は見逃さなかった。



部屋着に着替えて、早速レクチャーを受けた。


「…まずは頭からね」


言いながら、凛が大きなバッグからいきなり生首を出したので一瞬肝を冷やす。


「不自然なバッグだと思ったら…そんなもの隠してたのか…」


美容師の練習用ウィッグというもの。


…笑ってしまった。

どれだけ真剣に教えるつもりだったんだ。


食事しながら、これを出して教える気だったのか?


「だって…せっかくだから、ちゃんと覚えて疲れをとって欲しかったんだもん」


笑う文仁に、口を尖らす凛。

ここに来て教える気があったとしたら。文仁は、そんな仮説を浮かべて…取り消した。



生首には、主に頭のツボと効能について教わり、次は肩と首。


これは実際に押しながらツボを覚えた。


「腕は自分で一番やりやすいから!でも…右をやると左が疲れて、左をやると、右が疲れるから、終われなくなるんだよね!」


クスクス笑う凛。

小さな手なのに、的確なツボを押すので、意外なほど効く。

…夕方店でやってもらったヘッドスパと同じだ。



「じゃ、私がモデルになるから、マッサージしてみて。ツボが違ってたら痛いだけだから、わかると思う」


少しだけ迷ってうなずいたのは…



ヘッドマッサージは問題なくツボを押せたようだ。

次に肩…そして首、と続くところだが…



「あ、ごめん…ちょっと酒井所長から電話が入ってたみたいだ」


長くなるといけないから…と、レクチャーの終わりを伝え、凛のためにタクシーを呼ぶ。


エントランスまで送り、運転手に聞こえるように、着いたら連絡するよう言ってドアを閉めた。



走り去るタクシーを見送りながら…

思わず口元を手で押さえた。



…酒井所長からの電話なんて、嘘だ。


不意に、2人で密室にいることに、耐えられなくなった。

マッサージを教えてもらっていただけなのに、近い距離と僅かな触れ合いは、俺に冷静さを失わせた。



玄関のドアに鍵をかけ、チェーンもかけて、ピンク色のスリッパがきちんと揃えて置いてあるのを見て…耐えられなくなった。



凛…



スラックスを脱いで、下着の中に手をやる。


こんな性急な気持は初めてだ。



俺は…今でも凛を愛している。


プロポーズしたとき、こんな気持ちはなかった。


俺を愛さない冷たい目がちょうど良かった。

それなのに、少しずつ色を乗せ始めた瞳は美しくて…


体を合わせても、それは欲求への割り切った処理になるはず…なのに、凛には触れたいと思った。


独特の曲線を描く体の線が、男を惑わす目つきが…汚らわしいと思っていた俺に、そんなことあり得ない

のに。



凛だけは…他の女とは違った。

結婚して、自分から求めたあの夜を思う。


愛しい想いが体と連動して反応し、切ない想いを誰かに抱くなんて。



だとしても、今さら…だ。

俺は凛を、手放してしまった。




脱力した体を引きずるようにしてシャワーを浴び、…携帯がメッセージの着信を知らせていることに気づく。


きっと凛だと思いながら手に取ると…



「は…?まだ諦めてないのか…」



…結菜からのメッセージだった。


返信を返すつもりはなかったが、甲斐、という文字が見え、メッセージを開く。




『あれから、どうしてるかな…って思ってます。ちょっと甲斐くんに連絡したら、しばらく文仁に会ってないって言ってて、3人で飲みに行こうって話になりました!週末、予定はどうかな?』


甲斐…。

高校を出てから少し疎遠にはなったが、凛との結婚を一番に報告したのは甲斐だった。


3人…というのが気に入らないが…



そこへ、今度こそ凛からメッセージが入る。

無事に家に着いたと。



そういえば聞いていなかったが…凛は就職して、一人暮らしを始めたのだろうか。


生活費として渡していた残金を、律儀に1円単位で返してきた事を思い出す。


妻としての凛も慎ましく、決して無駄遣いをしない人だった。




そうだ…凛も誘ってみるか。


離婚したとしても円満であること、高校時代の友達として、何ら変わらない付き合いをしていくこと。


そんな話を2人揃ってしておくのはいいかもしれない。



「結菜から連絡が来て、週末甲斐を誘って飲もうって言うんだけど、凛も来ない?」


送信してから気づいた。

凛の仕事は週末が忙しいのではないかと。



「うん、行くよ。ついでに香澄も誘っていいかな?結菜と甲斐には私から連絡しておくね」



来るという返信にホッと胸をなで下ろす。


同時に…自分は離婚した妻への思いを募らせて、拗らせていくのだろうかと、少しだけ不安になった。


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