「…ごめん。私だ…」
画面には『郁』の文字。
姉からだと断って着信を繋いだ。
「…もしもし、あの、後でかけ直すから…」
『凛?今お母さんと、そっち向かってるから待ってて!』
「え?…何それ?」
約束もなく、22時を過ぎた時間に突然やってくるという姉と母…
…出かけてたら、どうするつもり?
「ちょっと待って…私にだって用事が…」
反論虚しく、いいから待っているように言われ、勝手に電話は切れた。
「どうかした…?」
憮然とした凛の表情に気づいた文仁が声をかける。
「勝手過ぎる私の家族から。今から来るんだって…」
「そうなんだ…そしたら俺、お義母さんに挨拶しておいた方がいいか?」
郁と母なら…文仁を巻き込んで、勝手に酒盛りを始めるくらいのことは十分考えられる。
だから結婚をしているときも、ほとんど会わせなかった。
「ううん。離婚のことは私から言う。…私だって、文仁のお父さんにご挨拶してないし…」
普通は離婚して、こんな風に会うことはない。だからお互いの親に報告をするなんて気遣いはないけれど、
私たちには同級生としての付き合いがある。
…私達は特殊な離婚カップルなんだ。
安っぽいマンションまで送ってもらって、そのまま帰すのは気が引けたが、2人が来る以上仕方ない。
凛はお礼を言って文仁と別れた。
「信じられる?…もう会えないって言うのよ?!」
マンションに到着して数分後、郁が母と共にやってきた。
確か一人暮らしの部屋に来るのは初めてのはずだが、そんなのお構い無しに、母はハンカチを噛み締める。
「…本当に何度も思ったけどさ、どうして離婚届にサインしちゃったの?」
実際、口に出して聞くのは初めてではない。
来るって言ってたのに来なかった、やっと来たのにすぐ帰った…
泣いてわめく母を不思議に思うのは今も同じ。
「だって…龍二、子供はいらないって言うんだもの。子供と暮らしたら、丸くなるばっかりで嫌だって」
年子で子供を産ませておきながら、私が乳飲み子だった頃にはすでに離婚して家を出ていた父、龍二。
なのに不思議なことに、女としての魅力は感じていたのか、母とは付き合い続けていた。
父であるのにそう呼べなくて、家に来ても一緒にご飯を食べなくて。
この人はいったい誰なんだろうと、子供心に思ったのを覚えている。
もう少し成長すると、私たち娘は、父親である龍二にとって、いらないもの…と思うようになった。
姉の郁は「そっかいらないんだ〜」と、あっけらかんとして見えた。
でもその後しばらく、年上の人とばかり付き合っていたから、心に傷はついたと思う。確実に。
離婚して、母に自分の子供を押し付けて、母との付き合いだけを選んだ父。
母の女としての部分しかいらないとしたら、それは丸ごと愛されているわけじゃない。
それなのにどうして、大好きだなんて言えるのか、子供の私にはわからなかった。
今回はそんな2人に、ついに別れの危機がやってきたというわけだ。
「龍二さん、他の女のものになっちゃったのかね?」
会えない、と言われたなら、そうに決まってる。
なのに、母の反論は激しかった。
「…そんなわけない!龍二は離婚しても私から離れなかったのよ?これ以上の愛がある?」
血相を変えて否定する母。
…自分は捨てられた。
平たく言えばそうなるのに、そこからは目をそらしたいらしい。
「龍二とは相性がいい」なんて、生々しいことを平気で言う母だ。
若い時なら「可愛い」ですんだものが、「恥じらいがない」に変化していることに、気づいていないのだろう。
そんな部分に嫌気がさした可能性も大きい。
「…どちらにしても、今までの付き合いが普通じゃないのよ。…もういいじゃない。別々の人生を歩めば」
…言いながら気づいた。
今の言葉、自分と文仁にも言えると。
「普通じゃなくても良かったの!龍二さえいれば!」
金切り声で叫び、泣き崩れる母。
突然切り出された「もう会えない」という言葉に振り回されて、父の本心がどこにあるか…考える余裕などないらしい。
まぁ…知ったところで、という話。
別れると伝えられたら、別れるしかない。
…私なら、そうする。
たとえ自分は別れたくなくても…本心を隠して、別れると思う。
文仁は…どうだったんだろう。
理由を聞いただけで、すぐに離婚に応じてくれた。
本当は、何か言いたい事があったんじゃないか…
「もう諦めてさ、お母さんも2人目3人目の彼氏で手を打ちなよ!何人もいるでしょ?彼氏!」
郁の言葉に、あぁ、そうだった…と思い出す。
…母はそういう人だった。
それなのに、母は意外な告白をした。
「…いない!私には…ずっとあの人だけだったのよっ!」
何人も恋人がいると言ったのは、それが父に対する精一杯の虚勢だったと知って、さすがに不憫になった。
せめて、はっきりした理由をつけて別れを伝えればいいのに。
心の中で父を睨んだ。
泣きわめく母となだめる郁は、結局凛のマンションに泊まっていった。
そこで…翌朝起きてきた郁に、これでもかと水分を取らせたのは…せっかくの休日に、2人の二日酔いに付き合わされるのはごめんだから。
「早く酔いを覚まして、お母さんを連れて帰って!」
私と両親の仲の悪さを知っている郁。昼過ぎには、まだ酒臭い母を連れて帰ってくれた。
泣いてもわめいても愚痴っても、状況は変わらないと、少しは理解しただろうか。
ホッとため息をついた途端…訪れた静寂を破った携帯の着信。
文仁かと思って画面を覗く。
「え…このタイミング?」
意外にも、表示されたのは…つい先程まで話題の中心だったあの人の名前だった。