凛と別れ、駅までの道をのんびり歩く。
5月の終わり、季節的に気持ちのいい時期なのに、吹いてくる風が…どこからか雨の湿気を運んで来る。
今年の夏も、くそ暑いんだろうな。
そう思っただけで、喉が渇いた気がした。ちょうど通りかかったコンビニに吸い込まれ、迷わず冷えたビールを手に取る。
家に着く頃にはぬるくなってしまう。あまりしないことだが…コンビニを出てすぐにプルタブを引く。
冷たい喉越しを気持ちよく感じながら、ふと…結菜が駅でウロウロしていたことを思い出した。
「…ちょうど良かった!一緒にお店いこっ!地図を見るの得意じゃなくてぇ…」
「…」
地図など必要ないほど駅に近い店だ。それすら読み取れないなら、小学校からやり直したほうがいい。
口に出さずとも、瞬時にそう思った。
俺の不愉快を感じないのか、結菜はさらに信じられない行動に出た。
「…手ぇ繋いじゃおっかなぁ」
可愛いと思い込んでいるであろう仕草。…下から覗き込むように俺の顔を見上げてくる。
「…離せよ」
「えー…何でぇ?」
凶器のような長い爪が手のひらをかすりながら、文仁は細い指が、自分の指の間に滑り込んでくるのを感じた。
「なんだよ、コレ…?!」
離せ、と言って指を解こうとするも、嫌だ…と小声で笑いながら、離す邪魔をしてくる結菜。
クスクス笑う姿も癪に触る。
「いいから行こうよ!…凛、来てるんでしょ?」
思わずその顔を睨みつける。
まるで文仁の弱点だとでも言いたいような顔。
仕方なくそのまま、早足で約束の店に向かった。
白い暖簾の創作家庭料理の店「やまなみ」は、酒井所長に勧められた店だ。
落ち着いているのに入りやすくて、そこそこプライベートも保てる。
大人になった同級生たちと飲むにはちょうどいいと、文仁が決めた店だった。
店に入ってすぐ、凛の姿を探した。その顔を見て…感情が落ち着くのを、文仁は感じていた。
そしてその後の結菜の醜態…
自分に気があるのはわかる。
だがそのアプローチが、ことごとく俺の神経を逆なでするのが、わからないのか…
その無神経さが、すでに無理だ。
気づけば冷たい缶ビールを1本空けてしまっていた。
改めて、駅までの道を歩きだす。
凛と暮らしていたマンションは、新しくはないが、重厚な造りがヨーロッパ建築のようで…2人で気に入って決めたマンションだった。
確かにセキュリティには乏しい。
でも、夫婦で住むわけだし、俺が仕事で家を空けることはほとんどない。
だから、そんなことは気にならなかったのだが。
「…なんで?」
「おかえり。文仁…」
なんで、結菜がいるんだ?
「何か用か?」
玄関の脇に立つ結菜。
部屋番号まで知っている…なぜだ。
もしかしたら…凛が住所を教えたのかもしれない。
そういえば…結菜からのお土産だと、何か届いたことがあった…
「会いたいから来た…」
なんだそれ。
さっき別れたばかりだ。
構わず部屋の鍵を開け、彼女を無視して部屋に入ることにする。
すると鍵を開けたとたん、見計らったように、結菜が動いた。
「…待って。謝りたいの、今日のこと…」
近づいてくる気配に視線をやった、一瞬の隙を突かれた。
もつれ込むように部屋の中に連れ込まれ、結菜が後ろ手に鍵をかける。
「…ねぇ、好きなの。文仁のこと…ずっと好きだったんだよ、高校の時から、無視されても、ずっと好きで…」
嘘を言うな。
俺が脈ナシだと知るや、甲斐に、他の水泳部員のイケメンに媚を売っていたくせに。
「それでコクってるつもりか?いい加減…」
…うんざりだ。
言いかけて…結菜が自分で服のボタンを外し始めたことに気づいて言葉を切った。
緩やかに開いた胸元から下着が覗き、さらに自分の胸を解放する…
「なに…やってんだよっ!?」
結菜の魂胆はわかった。
それでも聞いてみたのは、どれくらい理性が残っているのか、と思ったから。
不意に、さっき飲んだビールの酔いが回っているのを思い出す。
強い衝動が、自分を突き動かしそうになった。
グッと手を握り…爪痕がつくほど強く拳を握る。
「…我慢しなくていいの。私、文仁の寂しさを癒やしたい…」
体だけでいいの…と。
強く握った拳に触れてきた。
…同時に、短いスカートの膝あたりに、下着が滑り落ちてくるのが見えた。
「フフ…」
この女は、俺を癒したいのではなく、自分の欲望を解消したいだけだ。
文仁は込み上げてくる笑いを、そのまま吐き出す。
久しぶりに蘇る、女という動物への嫌悪感。
…あの女も、そうだった。
文仁は半裸の結菜の手を振り払い、距離をとって立ち上がった。
「…俺が欲情してるとでも思ったのか?生憎だが、俺は、誰にでも手を出すタイプじゃない」
「な…なによっ、それっ」
自分で体をあらわにしながら、そこに男の手が伸びてこないのは、初めての経験だったのだろう。
結菜は意外な行動に出た。
「このまま私がこの部屋から出たらどうなるかわかってる?…次の瞬間、叫んで…隣の部屋に助けを求めるわ!あんたに、襲われたって!」
ギラギラした目を血走らせて、ニヤリと笑う結菜。
勝った…とでも思ったか。
「ここがどこかわかってるのか?…俺の家だぞ」
薄暗い場所に、明かりを灯す。
あられもない姿がハッキリと浮かび上がり、さらに滑稽さを誘う。
「この部屋には、至る所に防犯カメラが設置されている。特にここ…」
結菜がいる玄関先を人さし指で示しながら、文仁は続けた。
「意味がわかるか?…君が勝手に服を脱いだのも、俺を誘ったのも、すべて録画されているということだ」
途端に戦意喪失したことがわかる。
玄関ドアに背中をくっつけながら、下ろしていた下着を上げ、解放していた胸をしまった。
「…2度と俺の前に姿を現すな。君とは友達でも同級生でもない」
結菜はそれには答えず、慌てて玄関ドアを出て行った。
さっき感じた強い衝動は、性的なものではない。
…過去の出来事を思い出していた。
拳を振り上げ、頬を張り倒し、めちゃくちゃに殴りたい強い衝動を。