「…は?冗談、やめてよ」
言いながら、本当はさっきから見ないふりをしていたことを思う。
…痩せた。
最後に会ったのは、1年前。
文仁との結婚を報告しに、実家に帰った時、たまたま会ってしまった。
ろくに言葉を交わさなかったのは、ちゃんと紹介する必要もないと思ったから。
当然のように父親をスルーする理由を、文仁には「仲が悪いから」とだけ伝えた。
もともと細身ではあったものの、明らかに痩せたと思いながら、口には出さなかったのに…
それがまさか…
「死ぬって…なにそれ?!命に関わる病気だってこと?」
つい…言い方がきつくなる。
急に連絡してきて、初めてカットさせて…自分の店に連れてきて。
娘だなんて、人に紹介されたのも初めてだし、勝手に父親みたいな顔しちゃって…
「そうだ…悪性の病気ってやつ。気づいた時は手遅れだった」
間もなく、入院するという。
私が、自分の死を伝えても、冷静でクールに振る舞えると思ったのだろうか。
…だとしたら買いかぶりだ。
私は両親とは違って、普通の感情を持つ人間だから、実の父親がもうすぐ死ぬなんて知らせを、素直に自分の中に落とし込むなんてことは…できない。
狼狽えるほど、龍二の言葉は確信に満ちている。
疑いの余地を挟む隙など、どこにもないほど。
「だから、響子にはもう会えないと言ったんだ」
突然の別れに嘆き悲しむ母の姿が蘇った。
もし…龍二がもうすぐ死を迎えるなんて知ったら、絶望と悲しみの狭間で正気を失うか、先に命を絶ってしまうか。
そんな姿は容易に想像できる。
「凛…」
龍二の低い声に名前を呼ばれて、自分が泣いていることを知った。
「ごめんな…悪い父親だった」
死が見えて、自分のこれまでの行いを反省したのか…
そんなの、らしくないと思った。
龍二は、お父さん…と、呼ばせてくれなかった。
でも、それがデフォルトだ。
不思議でもなんでもない。
父性のかけらもない、父娘の愛なんていらない…冷たい男。
それでも、年を取った時は…面倒を見たい…そんな本音が確かにあった。
自分でも驚く。…どれほど父としての龍二を求めていたのか。
大人になって、本当は龍二を、許したかったのかもしれない。
そんなきっかけをどこかで探していた…?
私が、?
まさか、こんな風に許すなんて、想定外だ。
自分でも止めることができない涙は、悔しいほどに頬を濡らし、顎からテーブルにポタン…と落ち続ける。
「ごめんな…」
…買いかぶっていたことに気づいた?
言葉にならない思いを持って、隣に座る龍二を見あげると、意外なほど近くにあった胸が、涙を吸い取るように抱きしめる。
龍二の温もりは穏やかで…文仁に抱きしめられるのとは違う温度だと知った。
これが父…肉親…。
母に会いに来た時、すれ違うと香る、同じ匂いがした。
「お前は、素直に生きていけよ」
別れ際、龍二に言われた。
「俺のように、響子のようにはなるな」
「…自分たちを反面教師にして、学べとか言うの?どんな親だよ…ほんっとに…」
…生きて会えるのは、これで最後かもしれない。
初めての父の温もりを、離したくないと駄々をこねる子供の自分を持て余す。
けれど…気づいていた。
そっと、龍二の様子を見守る優しい影に。
いつからだったんだろう。
龍二が母との関係性を変えたのは。
それでも、決定的な別れを切り出さなかったのは、切れない縁…娘という存在があったからだとしたら。
…私と郁には、ちゃんと存在意義があったんだ。
入院する病院の名前は、聞く前に教えてくれた。見舞いに来い、と言ってくれた。
行くよ…と言って、優しい影にそっと会釈する。
その人は凛に、深く頭を下げてくれた。
すれ違う人からの視線を感じた。
それでも…涙は止まらない。
二度見され…泣き笑いの笑顔になる。
可笑しいのか悲しいのかわからない。
冷たい龍二の態度に苛立った時は、迷わず郁に連絡をして愚痴ったのに。
今回ばかりは、郁にも言えない。
もちろん、母に言うつもりもなかった。
「ふみ…ひと」
もし自分が誰かの前で泣けるとしたら。
それは文仁をおいて他にはいないと思う。
グラグラと揺れる心を、しっかり抱きしめてほしいと思った。
素直に生きていけ…と言った、龍二の低い声を思い出す。
素直になるって…どうしたらいいの。もう、別れたのに。
その時、ポケットの中の携帯が振動した。
「…文仁」
このタイミングで?
…龍二からの着信を受けた時もそう思った。
画面に表示された名前をなぞり、着信をつなげる。
「もしもし」
『凛…仕事終わってる?』
「うん。…ちょっと野暮用で、早く上がったんだ」
会いたいと思う気持ちのせいなのか、今いる場所を伝えた。
これが素直になるということなんだろうか。
『偶然だな。俺も今、クライアントとの打ち合わせが終わって、近くにいるんだ』
会えないか、と言われ、OKした。
近くの駅で待っていると言われ、少し時間に余裕を持たせて到着時間を伝えたのは…涙の跡を少しでも消したいから。
今聞いた龍二の話を、すぐに伝えるには生々しすぎる。
後で…と言って、凛は携帯を切った。