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第17話 涙

「…は?冗談、やめてよ」




言いながら、本当はさっきから見ないふりをしていたことを思う。




…痩せた。




最後に会ったのは、1年前。


文仁との結婚を報告しに、実家に帰った時、たまたま会ってしまった。




ろくに言葉を交わさなかったのは、ちゃんと紹介する必要もないと思ったから。


当然のように父親をスルーする理由を、文仁には「仲が悪いから」とだけ伝えた。






もともと細身ではあったものの、明らかに痩せたと思いながら、口には出さなかったのに…




それがまさか…




「死ぬって…なにそれ?!命に関わる病気だってこと?」




つい…言い方がきつくなる。


急に連絡してきて、初めてカットさせて…自分の店に連れてきて。


娘だなんて、人に紹介されたのも初めてだし、勝手に父親みたいな顔しちゃって…




「そうだ…悪性の病気ってやつ。気づいた時は手遅れだった」




間もなく、入院するという。




私が、自分の死を伝えても、冷静でクールに振る舞えると思ったのだろうか。


…だとしたら買いかぶりだ。




私は両親とは違って、普通の感情を持つ人間だから、実の父親がもうすぐ死ぬなんて知らせを、素直に自分の中に落とし込むなんてことは…できない。




狼狽えるほど、龍二の言葉は確信に満ちている。


疑いの余地を挟む隙など、どこにもないほど。




「だから、響子にはもう会えないと言ったんだ」




突然の別れに嘆き悲しむ母の姿が蘇った。




もし…龍二がもうすぐ死を迎えるなんて知ったら、絶望と悲しみの狭間で正気を失うか、先に命を絶ってしまうか。




そんな姿は容易に想像できる。






「凛…」




龍二の低い声に名前を呼ばれて、自分が泣いていることを知った。




「ごめんな…悪い父親だった」




死が見えて、自分のこれまでの行いを反省したのか…


そんなの、らしくないと思った。




龍二は、お父さん…と、呼ばせてくれなかった。


でも、それがデフォルトだ。


不思議でもなんでもない。




父性のかけらもない、父娘の愛なんていらない…冷たい男。


それでも、年を取った時は…面倒を見たい…そんな本音が確かにあった。




自分でも驚く。…どれほど父としての龍二を求めていたのか。




大人になって、本当は龍二を、許したかったのかもしれない。


そんなきっかけをどこかで探していた…?


私が、?


まさか、こんな風に許すなんて、想定外だ。




自分でも止めることができない涙は、悔しいほどに頬を濡らし、顎からテーブルにポタン…と落ち続ける。




「ごめんな…」




…買いかぶっていたことに気づいた?


言葉にならない思いを持って、隣に座る龍二を見あげると、意外なほど近くにあった胸が、涙を吸い取るように抱きしめる。




龍二の温もりは穏やかで…文仁に抱きしめられるのとは違う温度だと知った。




これが父…肉親…。


母に会いに来た時、すれ違うと香る、同じ匂いがした。








「お前は、素直に生きていけよ」




別れ際、龍二に言われた。




「俺のように、響子のようにはなるな」




「…自分たちを反面教師にして、学べとか言うの?どんな親だよ…ほんっとに…」




…生きて会えるのは、これで最後かもしれない。


初めての父の温もりを、離したくないと駄々をこねる子供の自分を持て余す。




けれど…気づいていた。


そっと、龍二の様子を見守る優しい影に。




いつからだったんだろう。


龍二が母との関係性を変えたのは。




それでも、決定的な別れを切り出さなかったのは、切れない縁…娘という存在があったからだとしたら。




…私と郁には、ちゃんと存在意義があったんだ。








入院する病院の名前は、聞く前に教えてくれた。見舞いに来い、と言ってくれた。




行くよ…と言って、優しい影にそっと会釈する。




その人は凛に、深く頭を下げてくれた。








すれ違う人からの視線を感じた。


それでも…涙は止まらない。




二度見され…泣き笑いの笑顔になる。




可笑しいのか悲しいのかわからない。


冷たい龍二の態度に苛立った時は、迷わず郁に連絡をして愚痴ったのに。




今回ばかりは、郁にも言えない。


もちろん、母に言うつもりもなかった。








「ふみ…ひと」




もし自分が誰かの前で泣けるとしたら。


それは文仁をおいて他にはいないと思う。


グラグラと揺れる心を、しっかり抱きしめてほしいと思った。




素直に生きていけ…と言った、龍二の低い声を思い出す。




素直になるって…どうしたらいいの。もう、別れたのに。








その時、ポケットの中の携帯が振動した。




「…文仁」




このタイミングで?


…龍二からの着信を受けた時もそう思った。






画面に表示された名前をなぞり、着信をつなげる。






「もしもし」




『凛…仕事終わってる?』




「うん。…ちょっと野暮用で、早く上がったんだ」




会いたいと思う気持ちのせいなのか、今いる場所を伝えた。


これが素直になるということなんだろうか。




『偶然だな。俺も今、クライアントとの打ち合わせが終わって、近くにいるんだ』




会えないか、と言われ、OKした。




近くの駅で待っていると言われ、少し時間に余裕を持たせて到着時間を伝えたのは…涙の跡を少しでも消したいから。




今聞いた龍二の話を、すぐに伝えるには生々しすぎる。




後で…と言って、凛は携帯を切った。



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