「なんかあった?」
顔を合わせた瞬間、異変を感じ取った文仁に、凛は驚いて…揺れる視線を向けてしまった。
ついさっき、その存在に慰められたいと思ったのに、凛はおくびにも出さず、視線をそらしながら言った。
「…何が?別に、大丈夫だよ」
「そう?ならいいけど…」
やっぱり…たった1年でも、夫婦として一緒に暮らした年月の重みというのは、あると思い知る。
文仁と、夫婦という家族になった過去があるということは、もうただの同級生には戻れないということかもしれない。
…凛は改めてそう思った。
「なにか食べたい物ある?」
文仁がそんなふうに聞いてくれるのは、珍しいことじゃない。
1年一緒に過ごしたので、お互いの誕生日を1回ずつ、2人で祝った。
文仁の誕生日には、腕によりをかけた凛の手料理で、凛の誕生日には、今と同じように食べたいものを聞かれ…フレンチを食べに連れて行ってもらった。
休日に食事に行くこともあった。
…いつも、まずは凛に、食べたいものを聞く文仁。
だから慣れているはずなのに、なんだか今日は…心の柔らかい場所を掴まれた気になる。
「そうだね…この間の『やまなみ』は?いいお店だったよね」
「さすが凛。あの店の良さがわかったか」
少し嬉しそうな笑顔が、ショックを受けた心に明かりを灯した。
「…実は今日誘ったのは、凛にも話しておいた方がいいと思って」
こじんまりした個室で、文仁が話し出す。
「どうしたの…?」
とっさに思うのは、結菜。
皆で飲んだ時、文仁に絡んでは邪険にされて、悪酔いしていた姿を思い出す。
「昨日結菜に、マンションで待ち伏せされてさ」
凛を送って帰宅すると、結菜が部屋の前にいて、部屋の中に乗り込まれたという。
「なにそれ…どうしてそんなこと…」
一緒に暮らしていて、気づいたことがある。
文仁は、強引な誘いや強い愛情表現は苦手なタイプだ。
だから…自分の気持ちを抑えて、素直になれなかったところは、私にもある。
「多分、既成事実を狙ってたんだと思う。…襲われかけたんだよ。勝手に服を脱ぎはじめて」
「そんな…」
「体をさらせば襲いかかってくるような男とばかり付き合ってきたんだろうな。…で、俺が相手にしないから逆ギレして、半裸で外に出ようとしたんだよ。俺に襲われたって騒ぐって脅して」
「…そんなことされたら、文仁の仕事に影響が出るんじゃないの…?」
「確かに。騒ぎになったら、何らかの影響が出ないとは限らない。だから、玄関に監視カメラを設置してあるって教えてやったよ」
「あの…ダミーの?」
悪そうな笑顔を浮かべる文仁。
「まんまと信じて、慌てて服を着て逃げてったよ。もう2度と顔を見せるなって言ってやった。同級生でも友達でもないって」
事なきを得たようでホッとした。
絶対落としてやる…と、意気込んでいた結菜を思いだす。
「落とすより、素直に気持ちを伝えるだけで良かったのに…」
「なにそれ」
…今しがた、龍二と話していた事が頭をよぎった。
「好きなら好きって…結菜も、言えば良かったんだよ」
私も…お父さんって…呼べば良かった。大好きだよって、ずっと恋しかったよって…お父さんとしての龍二さんと、もっと話したかったよって…
「…凛、やっぱなんかあったろ?」
「…いや、あの…結菜が、文仁のこと落とすって言ってたの、聞いたのに、何も言わなかったから…危険な目に合わせて、ごめん」
「そんなの、凛のせいじゃない」
文仁はしばらく凛を見つめたが、視線が合わないのを確認した。
「今日話したいと思ったのは、結菜のそんな行動と、どこか凛に対して良くない気持ちを抱いてそうだったから」
「…良くないって…?」
視線を向けると、まっすぐな瞳が凛を見つめていた。
…いつから見られていたのか戸惑うほどに、文仁の視線は揺るぎない。
「…妬み、嫉み、意地悪。凛に危害を加えるかもしれないって、心配になった」
「でも…私はもう、離婚したのに…」
「それでも、こうして付き合えるのが、結菜には理解できないし、羨ましいのかもな」
…次に、なんて言われるか、わかった気がした。
「距離ができるのが、普通だよね。離婚したのに、こうして一緒に過ごすことは不自然…」
「凛、俺は…」
「ごめん。私が文仁の職場と同じビルで仕事することになっちゃったから…」
龍二の悲しい知らせに動揺して、グラつく心を抱きしめてほしいなんて。
何を甘えたことを思ったんだろう…私は。
「凛が悪いことなんてひとつもないから。…全部、俺が…」
「ううん…いいの。あの、私そろそろ帰るね」
財布から5000円札を出してテーブルに置き、席を立った。
いらないから…と聞こえた気がするけど、無視だ。
「…凛っ!」
ほかのお客さんも振り返ってしまうほどきっぱりした声で名前を呼ばれた。
「…カットとヘッドスパは、また頼む」
立ち止まったのに振り向けなかったのは…
もう我慢できない涙が後から後から…あふれていたから。
凛は後ろを向いたまま親指を立てて見せる。
お客さんとしての来店を拒む理由はない。…それは、残柄オーナーに申し訳ない。
…引き戸を引く音で、文仁の携帯が鳴った音はかき消された。
凛は気づかないまま…夜の街に出て思う。
…すぐに夏が来る。そして秋を飛ばして冬が来て…その頃には文仁への言えない思いも、消えているに違いないと。