携帯の画面に表示されたのは…いつもなら無視する、知らない番号だった。
時間があれば検索して、どこの業者からの電話なのか把握するが…
この時はどうして対応する気になったのか、不思議だ。
「もしもし、剣崎ですが」
「…俺、誰かわかるかなぁ」
低めの声。どこか艶があるのに…少し掠れて聞こえる。
…もしかしたら。
「…凛の、お父さんですか?」
あの時…声を聞いただろうか。
凛の母親に、結婚の報告をしに行って、すれ違った時…
「…結婚?!いきなり…?!なにそれ…めっちゃ驚きなんだけどっ!」
母というより姉のような凛の母親。
賛成も反対もなく、ただ驚いて、冷やかしたり茶化したり忙しかったことを思い出す。
「剣崎文仁と申します。よろしくお願いします」
下げた頭を上げる前に、凛は俺のスーツの腕を取った。
「私の旦那さんになる人です。…もう紹介したからいいでしょ。」
母親の、ちょっと待って…という言葉を無視して、凛は俺を玄関に引っ張っていく。
「…結婚披露パーティーの案内は…」
「そんなのいらないから」
普段クールに見える凛が、妙に苛立っているように見えた。
色々事情がありそうだ。
うちと一緒で…。
玄関で靴を履き、ドアを開けたところで、背の高い男性に出くわした。
あ…っと言ったまま、固まる凛。
「…こちら、剣崎文仁さん。結婚することになったから」
アッシュカラーのショートヘアがよく似合うお洒落な男性。
…咥えタバコがひどく様になっていた。
「一応、父親。龍二っていうの」
…小声で紹介してくれた。
「お父さんか…」
「…違う。龍二」
父親を名前で呼ぶところに、普通の家庭とは少し違うそれを感じた。
龍二さんは俺を紹介されて、あぁ…と、返事のようなものだけはした気がする。
…その時と、同じ声だ。
「文仁くんだよね…覚えててくれて…嬉し、いよ」
少しくぐもって聞こえる。
声に力がない。
「どうかなさったんですか?」
「…ちょっと、会えないかな」
数日、クライアントとの面談があり、時間を作れなかった。
凛の父親…龍二を訪ねたのは3日後のこと。
指定された場所は、総合病院の個室。
贅沢な雰囲気など微塵もなかった。
ただ、花が美しく生けられていた。
透明で、曲線が美しい花瓶に。
「こんなところに来てもらいたくなかったんだが…もう外出は許されなくてな。申し訳ない」
「…いえ」
龍二は病院着の上に紺色のローブを羽織っている。
特別点滴をしているわけでも酸素マスクをしているわけでもなかった。
「凛のことだ」
「はい」
何を聞いたわけではないが、治療が困難な、重い病を患っているとわかる。
そんな時に呼び出すのは、大切な人について、何か言いたいからに決まっている。
「君は、凛となぜ、結婚した?」
「…え」
すぐに言葉が出なかった。
でも、迷っている暇はないと感じた。
うまく言おうとしなくていいから、自分の思いをそのまま語ろう。
…目の前の龍二に対してなら、なぜか、それができる気がした。
「弁護士という仕事をしている俺にとって、既婚であるということは、ある意味クライアントに安心感を与えるものだと考えていました。
でも、結婚したい女性などいなくて、この先も出てこないと思ったんです。そんな時、凛に再会しました」
まっすぐな視線が注がれる。
それで…?と促され、先を続けた。
「間もなく30歳という年齢は、凛にも一度くらい結婚してもいいと思わせたようです。俺と同じく、仕事のためでもあったからかもしれません」
「わかってねぇな…
そんな表面上の、綺麗なものじゃないだろ、男と女ってのは…」
薄い唇を歪め、龍二が笑ったと知る。
「…俺の話をしようか。もう、30年も前の話になる。凛の母親、響子が、俺に結婚してくれと言いに来た」
過去を見ているような、穏やかな表情になった…
あぁ…俺を呼び出したのは、この話を聞くためでもあるのかもしれない。
「素直で、真っすぐで、可愛い女だった。一緒にいてもいいと思って、OKした」
龍二22歳、響子16歳の時のことだという。
「ずいぶん早い結婚だったんですね」
「昔は、16歳で結婚できたんだ。女は」
女性の年齢を見た目で判断したことはなかったが、結婚の挨拶ではじめて会った凛の母が、姉に見えたことに納得した。
「すぐに子供ができた。凛の姉、郁だ。年子で凛も生まれた。…その後しばらくして、俺は響子と離婚した」
「…え」
年子で子供を産ませておいて、すぐに離婚したなんて…。
「ひどい男だと思うだろ?」
「えぇ…そうですね」
…凛が「お父さん」と呼ばない理由はこんなところにあるのか。
「…俺がそばにいたら、響子は育児をしなかったんだ。だから離婚した。身寄りはないから…俺がいなければ、響子は嫌でも育児をしなければならなくなる」
それは、責任逃れじゃないのか。
娘のために離婚したと聞こえる。
「生活の面倒は見たぞ?でも、娘たちの世話は響子にやらせた。彼女は…男に強い依存をするタイプでな。勝手ながら、ちゃんと母親をやらせることで、そんな依存から抜け出せることができると思ったんだ」
男を頼り、それ以外見えなくなる女性。安易に複数の男と体を繋げることに嫌悪感を抱かないタイプだったという。
「…それなら一緒に暮らして、父親として夫として、響子さんを支えてあげればよかったのに」
「それじゃあ…意味がない。
俺の姿が見えれば、意識は全部俺に向く。響子はそういう女だった」
龍二は離婚した響子と、離婚してもつかず離れず、いい関係を築いたという。
「子供と暮らして、丸くなるには俺も若すぎた。守りに入りたくなかった。そんな気持ちは確かにあったが…距離を置いて響子と娘たちを、守ってるつもりでいた」
話を聞いて、そんな夫婦関係が、家庭が、あるのかと思った。
「結婚を軽く考えすぎていたところもある。響子も若すぎた。俺と離婚して、リセットしたいなら、させてやろうとも思ってたよ」
もし他に好きな男ができたら離れてやるつもりだったと。
…相手を想うが故の離婚だとでもいうのか。
そこまでではないとしても、自分たちの離婚も、近いものがあったと気付かされた。
「で、あんたはどうなんだ?」
…改めて問われて、思う。
凛との結婚に、俺は…一番何を求めていたのか。
「…助けて欲しかった」
龍二が、文仁の顔を覗き込む。
「助けが必要だったのか?」
「…おそらく」
その目は慈愛に満ちて…自分の表情がどれほど憐れなのかと…文仁は思った。
「いいか、俺は、間もなく死ぬ人間だ。…これは、間違いない。多分もう…誰にも会えない」
その言葉の意味するところを知る。
俺の話が、誰かに伝わることはない。…そういうことだ。
「はじめて触られたのは、高校1年の時だった…」