母親と離婚した父。
理由は、父の冷淡な態度だったようだ。仕事ばかりで会話もなく、愛されていると実感できない寂しさが、母親の心をすり減らしたらしい。
精神的な病を疑われ、母は実家に帰った。そして父は、俺の親権を手にした。
2人暮らしは味気なかった。
離婚したいと言った母の気持ちがわかるような毎日。
そんな父が、女性を家に連れてきたのは、中学3年の時。
…本当は、高校受験が終わるまで待ってほしかった。
バタバタ結婚式らしきものを挙げ、父は女性と夫婦になり、同居しはじめる。
「女は、俺をとても可愛がった。
それは…小さい子供に対するようなものだった」
結婚して1年半ほどして、父が1週間の海外出張になった同じ時期に、文仁も水泳部の夏合宿が重なった。
別に…帰宅する時間など知らせなかった。いつもと同じように帰り、リビングのドアを開けた時…
それは初めて見る、異様な光景だった。
「…いやっあぁ…っ!見ないでぇぇ…っ!!」
叫び声は次の瞬間さらに大きくなり、大きく開いた足の、下着が絡まった方の足が痙攣したのがわかる。
はぁ、という…女の生々しい吐息…手には、見たことのない物体が握られていて、まだモーター音を響かせている。
見てはいけないものを見てしまった。
吐き気と後悔と恐怖と羞恥…
欲情など、欠片もない。
なのに、それから女が正体を現し始めた。
隙を見つけては、文仁の体を細い指が這う。
自分で部屋に鍵を取り付けた。
脱衣室で服は脱がない。風呂場のすりガラスはバスタオルで隠した。
女の行動はエスカレートしていく。帰宅すると、自室のベッドに女が寝ていて、そこに引きずり込まれた。
気づかず、着替えていた俺は半裸の状態だ。
薄気味悪い…
女は薄気味悪い存在だと、文仁の心に深く刻まれた出来事だった。
…自分に好意を寄せる女性が苦手になった。
なのに、寄ってくる女性は後を絶たない。
やがて、結婚適齢期と言われる年齢に差し掛かり…
「…凛に再会したんです」
微動だにせず、俺の話を聞いている龍二。
「俺に興味を示さない、冷たい目をした凛がいいと、思いました」
「なるほど。凛は…俺という愛のない父親のせいで男という存在に嫌悪感があって…そんなに冷めた目をしていたか」
凛が、クールで冷静、そして唯一俺に興味を示さなかった理由がわかった。
お互いに苦しい思春期を過ごしながら、それぞれのトラウマが、お互いを引き寄せたことを知る。
「…あんたにとって、凛は唯一無二なんじゃないのか?」
どうして離婚した?…と聞きながら、ふと口元が緩む龍二。
きっとこれまで、彼も同じことを何度も聞かれただろうと気づく。
「唯一無二だからこそ…嫌われたくなかった。凛によって、俺は救われたんです。だから…たとえそれが別れだったとしても、凛の願いは叶えてやりたかった」
「賢明な考え方だな。…俺はそのへんの距離感を間違えて、さらに響子を傷つけた」
娘たちが大きくなって、離婚した自分の存在は必要なくなったのに、完全に離れることができなかったという。
でもな…と、龍二の話は続く。
「今は、郁と凛がいるから…安心してるよ。…あの時、産ませてやって良かった」
そう言って窓に目を向けた龍二の横顔は、確かに凛に似ている。
愛した女性に、自分だけがやれる最高の贈り物をした…そう信じているような表情だった。
龍二が亡くなったと知らせを受けたのは、それから10日後のこと。
「…最後にお会いしたのは、本当に文仁さんだったんですよ?」
あの日、病室のそばにいた女性。
龍二が舞子と呼んでいた人が教えてくれた。
彼女は、龍二の死後の後始末をする役目だという。
きっと…この人も深く、長く…龍二を愛したのだろう。
それをわかっていて、龍二は最後のひとときを共に過ごした。
でも、彼女の想いは届かなかったに違いない。
彼女の気持ちに気づきながら、一線を引いていた理由は、多分…響子さんだろう。
「…素直に、生きていけよ」
あの日、病室を出る文仁に、龍二がかけた言葉。
「俺みたいに、拗らせると面倒だ。素直に、シンプルが一番だよ」
たくさんの女性を魅了したであろう龍二の笑顔は、文仁の心にも、いつまでも残った。
「文仁…どうして」
喪服姿の凛、そして姉の郁が、取り乱す母親を両脇から抱えるようにして斎場にやってきた。
龍二の葬儀。
「…亡くなる10日前、龍二さんから連絡をもらって、会いに行ったんだ」
もしもの時は知らせてくれるよう、舞子に頼んでおいた。
文仁の存在と、龍二に呼ばれた話に動揺した凛が、響子を支える腕の力を若干緩めた。
すると…娘の手を振り払って、祭壇で微笑む龍二に近寄り、響子が泣き叫んだ。
「…どうしてっ…っ…!龍二、なんで死んじゃったの…私を残して…なんで…っ…」
どうして…という言葉が何度も続き、人目を気にすることなく、その場に泣き崩れる姿は、まるで幼女のようだ。
「…なんであんたがここに座ってるのよっ!いったい…誰なのよっ!あんたっ!」
案の定、親族の席に座る舞子につかみかかる響子。
「わた…しは、龍二社長の、ひ、秘書です」
響子と同じくらい、泣き腫らした目…。
自分と同じ想いを持って龍二のそばにいたと感じたのかもしれない。
襟元をつかみ、揺さぶり、嫉妬の形相を向けた。
…覚悟していたのだろう。
舞子は揺さぶられながらも、決して動じなかった。
「龍二以外、誰も好きになれなかった…他に男がいると言ってけど…本当は龍二だけだった…!」
素直になれなかったと悔やみ、その場に崩れ落ちる響子を見て、きっとすべてお見通しだったと、声をかけてやりたくなる。
「…文仁、もう少し、ここにいてくれるかな…」
遠慮がちに凛に言われた。
「あぁ、もちろん」
響子の様子から、このまま葬儀場にいられないと判断したらしい。
郁が様子を見て連れて帰ることになったようだ。
文仁と凛、舞子の3人で、龍二を見守る夜が始まった。