「…本気?」
笑いと困惑が混じる表情をしていたと思う。
目の前の文仁は、凛の知らない新しい何かをまとっていると感じた。
「どうしたの?…何かあった?」
「うん。あった。…龍二さんに、シンプルに、素直に生きろって言われた」
「…え」
素直に生きろと、私にも言った龍二。
「なんで…文仁に連絡したんだろう」
「離婚したのはなぜか、どうして結婚することになったのか、って聞かれた」
「なんて…答えたの?」
「…まずは食べよう。冷めないうちに」
文仁は止まっていた箸を動かし始めた。
「そのまま答えたよ。…ごまかしたり取り繕ったりする時間は、龍二さんにはないってわかったから」
ありがとう…と伝える凛に「ん…」と短く言う文仁。
「…食後にアイスコーヒーでも飲もうか」
立ち上がる文仁を思わず止めた。
「…私がやるよ」
「…そう?」
粉をこぼしたり水浸しにするんじゃないかと心配するなら、自分でやった方がいい。
グラスを2つ出して、私に差し出す文仁に、ちょっと視線をやる。
「…郁の方には、連絡したのかな」
「あぁ、クマさんとかいう…?」
「うん。正真正銘、ダメ男」
苦笑いして、それについては聞いてないという文仁。
「ただ…響子さんに、郁さんと凛、2人の娘を産ませて良かったって言ってたよ」
グラスに氷が入って、カラン…と音を立てる。
それは、私たちが母を支えるからだとすぐにわかった。
もしかしたら龍二も、付き合っていた人は母1人だけだったのかもしれない…愛した人は、母だけ…?
「…確かめる術はないけれど…」
「ん…?」
歌うように言ったみたいで、文仁が涼しい二重の目元を持ち上げ、わずかに首をかしげた。
そして視線を窓の方にやって…舞子さん、と女性の名前を出した。
「龍二さんの亡くなった後の始末をするって言ってた。もし、もっと龍二さんのことが知りたいなら…」
「ううん…もう十分かな」
視線をこちらに戻して、文仁は次の言葉を待つように…凛の口元を見つめる。
「母を愛していて、私たちに存在意義があった。それと、文仁に連絡してくれた。もうそれだけで十分だよ」
どんな理由があったにせよ、龍二が離婚を選択し、娘に父と呼ばせなかったのは、間違いだったかもしれない。
でも、その時はそれが良いと思っていたのだとしたら…それで良かったんだと思う。
その時の、龍二の最善だったということ。
『素直に生きろよ』
龍二に言われた言葉が、耳の奥で聞こえた気がした。
「さっきの話…だけど」
アイスコーヒーが入ったグラスを手渡しながら、文仁を見上げた。
「…うん」
「よろしく、お願いします…」
グラスをカチンと合わせ、私たちは久しぶりに笑顔を交わした。
……………
再び、段ボール5箱は、文仁のマンションに運ばれた。
炊飯器とコーヒーメーカー、小さな棚が、3ヶ月の一人暮らしで増えた荷物。
リサイクルにでも出そうと思ったが、文仁に言われて思いとどまる。
「それくらいなら、持ってくれば」
「…また必要になるかもだし…?」
「…」
髪をかきあげ、おでこを出したまま、固まってしまった。
「そうかも」でも「それはない」でもなく、なんて言おうか迷っている姿は、すぐに答えるよりずっと正直でいい。
「完全分担制にするか」
家事について、文仁が提案した。
「…はい!洗濯と料理」
挙手して希望を伝える。
「じゃあ俺は…掃除?」
「イエス。あと重たい買い物の付き添い」
「…基本、食料とか日用品の買い物は一緒に行こう」
そうだね…と、どんどん決まる、新しい2人のルール。
「あー…ソファベッド、買うわ。だから寝室が凛の部屋ってことで」
「…うん」
元夫婦が再び同居するからといって、簡単に近づこうとしない文仁に、誠実さを感じた。
『元夫婦だから、セックスは簡単』
いつか残柄オーナーに言われたことが頭に残っているのは、文仁も同じなのかもしれない。
「また一緒に暮らし始めたこと、周りには秘密にしておこう」
ついそんなことを言ったのは…いろいろ騒がれるのが目に見えているから。
特に同級生界隈…
「そうだな…」
目をそらないから、まだ何か続くのかと思う。
「でも聞かれたら、嘘は言わないよ。凛と…また一緒に暮らしてるって」
「うん…」
文仁は、どうして再びの同居を持ちかけてきたんだろう…
私が同意したのは、素直になったから。
また、ここに帰ってきたいと思った。
大事にしまわれたスリッパもマグカップもお茶碗も…私を待っていてくれた気がする。
割り切りが早いと思っていた文仁が、捨てなかったなんて…おそろいを全部保管しておくなんて、完全に想定外。
それに…薬指に光るリングがそのままなのも、気づいてる。
龍二を亡くした悲しみは、1人でいるよりずっと早く癒えたと思う。
マンションに帰ると誰かがいて、自分のあとに誰かが帰って来る生活は、意外なほど私を落ち着けた。
…やがて、龍二が亡くなって49日。
文仁とお墓参りに出かけて、郁や母と、墓前で顔を合わせた。
「凛ちゃん引っ越したの?この前マンションに行ったら空き部屋になってて驚いた〜…!」
…こっちこそ、郁の顔を見て驚いた。
「そんなことより…どうしたの?顔…腫れてない?」
「あぁ、これ?…ヤバいのよ!奥さんにバレちゃってさ!」
郁はあっけらかんと笑った。