「…クマは?いない時に奥さんに会ったの?」
それとも乗り込まれたの…?と、墓前なのも忘れ、凛はまくし立てた。
「昨日。クマとは会ってなかったんだけど、急に部屋に奥さんが来て…びっくりしちゃった!人生で初めて『泥棒猫』って呼ばれてさ、気づいたら頬がジンジン痛くなって、奥さん馬乗りになるんだもん」
…墓前でする話ではない。
さすがの母も呆気に取られている。
お墓参りを済ませて、近くの料亭に移動した。
「すごっ!気が利くじゃん!すっかり暑くなってさ、ビール飲みたいと思ったとこよ!」
「何言ってんの?!次の法要こそ、郁が長女として取り仕切ってよ!その次はお母さん!」
「わかったから…!とりあえずビール飲ませてよ!」
ゴクゴクを喉を鳴らしてビールを飲み干したところで、文仁が言った。
「…まずは、話し合いですね」
頬を腫らすほど殴られたのに、事の重大さを認識しない郁。
ついプリプリ怒ってしまう私を横目に、文仁が弁護士としてアドバイスしてくれた。
「またあの奥さんに会うの?
…なんか気がすすまないなぁ」
「話し合いができなければ、裁判所を間に立てた話し合いになりますよ?」
「え?そんな重大なことになっちゃうの?」
手酌でビールをグラスに注ぎ、またも一気に飲み干す郁。
凛はそんな郁から、ビールを取り上げた。
「ちゃんと謝罪して、受けるべき罰は受けなさいよ?!…それから、クマとはすぐに別れることっ!」
「わかったよ…もう、怒らないでよ、凛ちゃん…」
火を吹く勢いでまくし立てたからか、私まで喉が渇いた。
…奪い取ったビールを自分のグラスに注ごうとして…
「…文仁、飲む?」
「あぁ…ありがと」
ついでに母にも注いでやって、文仁が私に注ぎ返してくれた。
「…私は、もう一度龍二のところに行ってくるわ」
「うん、…1人で大丈夫?」
つい、そう聞いてしまうくらいに、母はほっそりしてしまった。
「大丈夫よ…!それに、もしものことがあっても、何も怖くないもん」
龍二がいないこの世に未練はない…ということらしい。
49日と言いながら、龍二の話はあまりできなかった。
それは、郁のとんでもない話のせいだけど…本当は皆、思い出話ができるほど、立ち直ってないのかもしれない。
「じゃあ…これからクマを呼び出して、別れ話してくる!」
食事を終え、話題をかっさらった郁が手を振る。
「道端で話しなさいよっ!」
部屋に入れたら、どうせまた体の関係になって、罪を重ねるに決まってる…!
ふと思いついて、歩き出した郁に追いつき、クマの連絡先を聞き出した。
「きちんと別れなかったら、今度こそ私が出ていくから!」
「凛ちゃん怖い…」と郁には言われたけれど、これを機に絶対別れさせなければ。
凛はそう決心していた。
「…龍二さんが笑ってそう」
そう言う文仁が笑ってる。
「…49日ってタイミングで、郁の良くない交際が終わろうとしてるんだから、きっと…パパの仕業だよ」
「…パパ?」
見下ろす文仁の瞳が優しい。
「うん、パパ」
見上げる瞳のさらに上。
夏の空が広がっていた。
今年も、暑い夏がやってくる。
「俺は、別に名前をつけなくてもいいと思うんだけど」
夕方になり、吹いてきた風に誘われるように、文仁と家を出た。
「名前…?」
「うん。離婚したのにまた一緒に暮らして、2ヶ月近くたつだろ?…そろそろ悩む頃かと思って」
私が、ということ。
確かに、名前のない関係は落ち着かない。
元夫婦、友達…
そのどちらに、より近いのか。
近づけるべきなのか?
そんな問いかけが、ぼんやり頭にあったのは確かだ。
家を出たのは、夕飯の買い物をしようとスーパーに向かうため。
それなのに、『small beer garden』という看板を見つけてしまった…
5階建てのこじんまりしたビル。
小さなビルのビアガーデンということだろう
「行ってみる?」
私から言った。
「…めずらしいじゃん」
肩にかけた凛のバッグを奪った文仁は、先に登って、当たり前のように下にいる凛に手を差し伸べる。
…迷ったり、断ったりするほうが恥ずかしい。
凛は自分より大きなその手を取った。
4つあるテーブルは、1つを残して全部埋まっていた。
「いらっしゃいませぇ!」
席についてすぐ、笑顔の女性がやってきて、テーブルの真ん中に置かれたQRコードを指さす。
「モバイルオーダーなの。わかるかしら?」
オーナーだろうか。
女性はかなり年配に見えた。
「あ…大丈夫だと思います。多分」
同じくらいの年齢の男性が、隣の席に生ビールを運んできた。
そして私達に「いらっしゃい」とにこやかに声をかけてくれる。
他にスタッフはいないようなので、2人がこの小さなビアガーデンのオーナーなのかな…と思う。
それにしても、それなりにご高齢に見えるのに、モバイルオーダーを取り入れるとは…感心する。
「…ご夫婦で経営されてるのかな」
一杯めのビールを飲みながら、文仁に声をかけると、ジョッキを傾けた喉が目の前に迫っている。
飲み干す喉が上下に動いて、返事をしてくれたように感じた。
ぷはー…と言いながら、ドンッとジョッキをテーブルに置く文仁。
唇の上に白い泡がついている。
「…そうじゃない?リタイアして、夫婦で飲食店経営ってとこかもな」
「文仁…ひげができてるよ?!泡のひげ!」
ナプキンで拭ってあげようとして…それはやり過ぎだと、伸ばした手を引っ込めた。
「…拭いてくれてもいいわけよ」
「あ、今の場面…?」
「そう。でも知らんぷりして…こっそり笑ってもいいし。何が言いたいかっていうとさ」
生温かい風が私たちの間をヌルっと吹いてゆく。
凛は、文仁の続きの言葉を待った。
「名前のない関係でもいいと思う」
「名前のない…関係」
同級生だった私たちは、夫婦という名前に関係が変わった。
そして離婚して、同級生という関係に戻ったのかな。また、一緒に暮らしてるのに。
複雑で、名前なんて付けられない。だから…あえて名前をつけなくていい、そういう意味…?
「友達って、一番便利な言葉だと思う。でもそんな名前をつければ、その中に収まるように、気持ちを縛る気がする。
…そもそも、わかんないから。少なくとも俺は」
「わからない…って、どういう意味?」
「友達以上の関係に、踏み込むかもしれないってこと」
男と女である以上、触れ合う可能性はある。それは本能で…欲望?
「でも、凛の気持ちを無視することは絶対にない。…要するに、何が言いたいかって言うと…」