残りのビールを飲み干した文仁。
多分、かなりぬるくなっていると思うのに、文仁はふぅ…っと息をついた。
「どんな名前の関係なのか考えるより、もし…凛に好きな人ができたら教えて欲しいし、俺はまぁ、可能性はほとんどないけど…とにかく、お互い自由でいいと思うんだよ。龍二さんが亡くなって、1人でいたくなくて一緒に暮らした。それだけで…」
文仁にしてはしどろもどろで要領を得ない話だと思う。でも、言わんとしていることは伝わった。
「お互い、素直でいようってことね?言いたいことや思ったことは、その都度話そうって、そういうこと?」
「うん、まぁ、そういうこと」
「それじゃあ…今感じている本音を言うね。…文仁と一緒にいるあの家は、すごく居心地がいい!」
文仁は…?と聞き返してみれば…
「…俺は、さっき言ったじゃん」
もう一杯頼むつもりのようで、スマホに視線を落とす文仁。
はて、何を言ったっけ…と、思いを巡らせながら、私ももう一杯ビールを頼むことにした。
…酔いは頭と足にくる。
どんな人も、共通してそうなるものなのかは…わからないけど。
うっすら頭にモヤがかかって、 左右に揺れる体が心地いい。
「危ないよ」
同じか…それ以上飲んだはずなのに、文仁は余裕。
私の手を引いて、足元に気を配ってくれるのはありがたい。
…こんな風にしてくれる人、他にいるかな。
ふと、そんなことを思った。
「明日は休みだから、少し眠ってからシャワーしてもいいんじゃない?」
家について、文仁はベッドまで連れて行ってくれた。
そうだね…なんて言いながら、早くもまぶたが落ちていく。
おでこのあたりから、するりと髪の間に指が入る…
滑っていく感触が妙に気持ちよくて、もっとして…と、言ってしまった。
目が覚めたのは明け方だった。
服はそのままだけど、靴下がなくて…文仁が脱がしてくれたのだと思う。
カーテンの向こうは、まだ明けきらない空が夜の蒼を残し、オレンジ色の朝焼けが複雑な模様を描いていた。
音をさせないようにそうっとベランダに出て、そんな空を見上げる。
立ち上がって気づいた…
シャツのボタンがいつもより多く外れてる。
…寝ぼけて着替えようとしたのかな。
…昨日の文仁との話が頭に思い浮かんだ。
やたらたくさんの言葉を並べていた気がする。要するに、とか…何が言いたいかっていうと…なんて言葉を使いながら、うまく言えない姿が愛おしかった。
私たちは、お互いを大切に思っている。この、奇妙な同居生活も。
…それは、どうしてなんだろう。
愛…
胸に渦巻く気持ちをそう呼ぶなら、素直に伝えた方がいいのかな。
文仁も同じように思ってくれているとしたら、愛の言葉を返してくれるかな。
…いや、見返りを求めるなんて、愛じゃないのかもしれない。
…頭がグルグルしてきた。
ずっと、愛なんて言葉から遠いところに身を置いていたから混乱する。
好き…が愛に変わった…?
そういえば、友人たちはそんな言葉をたくさん使っていた。
好きだよ愛してるよ可愛いよ…と。
それはどんな気持ちなのか、今度誰かに聞いてみようか…
「…起きたのか」
ガラっと窓が開いて、寝起きの低い声に振り向く。
「あー…気持ちいいな」
ベランダに出てきて、ぐいっと体を伸ばす文仁。
凛は口元に人さし指をまっすぐ立てて、「シー…ッ」と言った。
「まだ寝てる人がたくさんいるからね」
「よく言うよ…!昨日ベランダで変な歌を歌ってたのに…!」
「うそっ!?」
部屋に戻りながら、何も言わない表情が、からかっているとわかる。
「…もうっ!」
拳で背中をパンチしてやった。
「今夜、ちょっと人と会うから、夕飯いらないわ」
意外にも早朝の朝食となったダイニングテーブルで、向かいに座った文仁が言う。
「…そっか。わかった」
胸に広がるぼんやりした寂しさに、凛は気付かないふりをして、サラダにドレッシングをかける。
「誰と会うの…?とか、聞かないの?」
「え?…いや、聞いていいの?」
「聞いたことないじゃん。本当は聞きたかったんじゃない?今まで」
…図星だった。
夫婦でいた時も、同じような会話はあったわけで…でも、誰と会うのかなんて聞いたことない。
聞いちゃいけない。聞く権利はない。縛っていい存在じゃない。
そう思って聞けなかったのは事実。
だって私たちは、愛し合って結婚したわけじゃないから。
「青木泉先生っていう弁護士だよ。
今はニューヨークで国際弁護士として活動してる。早い夏休みを取って、帰国してるらしいんだ」
たくさんの付随情報と共に、惜しげもなく明かしてくれた。
「文仁が弁護士になる時、お世話になった先生なの?」
「そう…だな。弁護士を目指すきっかけになった人。…うちの親の離婚の時お世話になって、それからたまに連絡が来る」
「ご両親の、離婚で…」
文仁の親は、どんな事情があって離婚したんだろう。
そんな話は、夫婦だったときも聞いたことがない。
「母と離婚して、父親に引き取られた。
その数年後、再婚した人と…また離婚することになって…その時、青木先生にお世話になったんだ」
2度の離婚を経験した父親を、文仁は間近で見てきたことを知る。
…弁護士を間に挟むということは、それなりに揉めた離婚だったのだろう。
「いろいろあって…当時を思い出すから俺はあんまり会いたくないんだけど、やたら心配するから…連絡が来た時は、元気な顔を見せてるわけよ」
聞いていいかな…とまた悩む。
でも、水を向けてくれたのは文仁だ。
「おいくつ…なの?」
「泉先生?…42歳かな」
まだ若い人だと…とっさに思った。
自分が何を思っているのかわかって、いたたまれなくなる。
「凛のこと、話してくるから」
「私のこと…?」
「雑なプロポーズを受けてもらって結婚したけど、愛想を尽かされて離婚して…だけどまた一緒に暮らしてる、って」
すました顔で、淡々と言う文仁。
そんな複雑な関係を話したら、かえって心配させるんじゃないかと思う。
「…皿、ちょうだい」
後片付けに立ち上がった文仁が、キッチンスポンジを泡立てながら、振り向いたので、素直に皿を差し出した。
凛は、この複雑な関係を、その弁護士に話して欲しいと思った。
今、文仁には一緒に暮らしている女性がいると。
それは、少しくらい年上でも、文仁に惹かれてアプローチをしてくる人もいると…思ったから。